第26話 永倉

 永倉は私と違い軽口を叩くようなことはしなかったし、私は永倉と違い上の人間に逆らってまで我を通そうとはしなかった。でも私たち二人は、剣の道を涎塗れの血眼で歩むという意味では非常によく似ていた。

 そんで私は、まあ、なんていうか、あいつが羨ましかった。この話をすれば「そりゃお前より何十年も長生きしたからね」なんて言われるが、そうじゃない。そんな、寿命の長さ=幸福の度合い、なんて考えている奴は、たいてい先の戦争で死んでいったか、落ちぶれた。私が彼を羨むのは、その性格。もし私があいつだったら、あるいは剣才に気づくことなく春陽の日々を送れたやもしれない。というのも彼は私と違って、自分の信じたことを盲信し、それを極めんがために剣術に憑りつかれて家を飛び出した。別段好きでもないくせに剣を学んだら偶然にも天才的才能が開花し、ドミノ倒しに道を定めた私から見れば、あいつの剣は清廉高尚なものに思えたのさ。

 さて、永倉は松前藩の江戸藩邸で生まれた。昔から喧嘩っ早く、またその頃からかなり強かったので、しょっちゅう近所の子を泣かせてはご近所トラブルを起こし、母はノイローゼ気味になってしまっていた。そして帰宅した彼の父・長倉勘次はそんな妻にあたられようになった。と言っても、ヒステリックに怒鳴るのではなく、勘次が何かしゃべろうとするとそれにかぶせて会話を始めたり、彼が一度話しかけても聞こえないふりをして「おい」と言われてやっと不機嫌な返事をしたり、無視したりして憂さを晴らしていた。勘次はある満月の夜、ひっそりと便所で泣いた。その翌日、父はこの家族仲に入ったヒビの根本である新八を呼び出し、こいつをどうにかしないと我が家は、いや俺と妻はダメになってしまう、と意気込んだ。

「新八」

「はい」

「父はお前に言いたいことがある」

「はい」

「何を言われようとしてるか、わかるな?」

「はい」

「はい、って。じゃあ言ってごらん」

「はい」

「はい、じゃない。あーもういいよ、父さんから言うよ」

「はい」

「はい。あーうん、あのなぁ新八、喧嘩はやめなさい」

「私は武士で、喧嘩したタイちゃんも武士でした。武士と武士の主張が食い違えば、これはもう形はどうあれ戦、ということになるでしょう。武士であるからには前言撤回なんかしちゃあだめだし、戦に負けるようなこともあっちゃあいけません。だから、喧嘩はダメと言われても無理な話です」

「あはは、我が子ながら殺そうかな此奴」

 新八は世渡りが下手な男、すなわち正論と正道を第一と捉えて脇目も振らず歩き続けるといった、そこそこ嫌われるタイプの男だった。そしてそんな彼の人格を形成してしまったのは、呉服商から士分に取り立てられたことに狂喜し、幼い新八に「武士らしく生きろ」と教え込んだ勘次とその妻である。それを思い出した勘次は泣きそうになったのを堪え、ふと思いついたように言った。

「新八」

「はい」

「はいはもう良い。母さんのことだが、最近かなり精神的に疲れているのはわかるよな」

「それは父上の方じゃないんですか」

「そりゃ私もだよ。だからこうしてお前になんとかしろって説教してるんだから、じゃなくて。あいつが弱っているのは、間違いなくお前が喧嘩っ早すぎるからだろ」

「はい」

「ゆったな、はいってゆったな。じゃあ何か、お前の言う武士ってのは、母を泣かせるような男のことをゆうのか?」

「え」

「ゆうのか? ええ? 父さんはそんな人間を武士とは思わんぞ」

 新八は黙りこくった。図星を言われたからではない。自分というシステムがエラーを起こしたため、喋る、考えるということができなくなってしまっていたのだ。この時、彼は考えていた。

 あれ、俺は武士になりたい。それもただの武士なんかじゃなく、立派な武士になりたい。立派な武士というのは立派で偉い大人のことで、立派で偉い大人というのは文武両道で、仁義礼智信忠孝悌の全てを兼ね備えた人間のことだ。俺はそんな大人になるために、タイちゃんが「マスターボールを無限にゲットできる方法を知っている」と皆に言っているが嘘だと気付いたから指摘したし、それで殴ってきたタイちゃんを返り討ちにした。タイちゃんを殴った時の俺のフォームを大げさに真似して、さらには全然関係ないのに「おめえの母ちゃん、きもすぎ」とも言ってきたショーくんも半殺しにした。俺とあいつらに善悪の区別をつけるとしたら俺は絶対に善で、俺は善だからこそ悪を挫いた。間違ってない筈なのに、なんでそんな立派な俺を見て母上は悲しみ、疲れていくんだろう。なんでこんなに頑張ってる俺を見て父上は怒り、俺を嫌いになっていくんだろう。何が正しいんだ、正しい物事が正しいんじゃないのか。正しいってなんだ。正しいとは、筋道が通っていることのことだ。待てよ、その筋道って誰が決めた筋道なんだ。その筋道を決めた奴は、本当に正しいヤツなのか? 俺は正しいことをやっているが、その正しいことが正しくないことだとしたら? じゃ、この世界は誰が正しいの? ぼくはどうすれば正しい武士として生きられるの?

 誰か。


 我に返った時、父の説教は終わっていて、がらんとした知らない板間に一人座っていた。夏の朝の涼しさが肩を抱く。蝉が一匹だけ庭で鳴いている。しばらく待っても、誰も来なかった。エラーを起こした彼が咄嗟に出した結論は「立派な武士は皆剣術ができる。なら剣術ができる武士が集まるところへ行けば、俺も立派な武士になれる」というもので、彼は勘次の部屋を飛び出して、そのまま屋敷も飛び出し、道場へ飛び込んだ。そして掃除にやってきた門弟が見知らぬ少年に驚くまで、ずっと座っていた。

 彼の母は「息子を追い出すなんて」と激怒し、それからは以前にもまして彼への態度が冷酷になった。そして勘次はとうとう心を病んだらしいが、それからの長倉家のことを新八は決して話さなかったので、私が語れる永倉新八の実家についてはここまでだ。ただここまでのことを私に話していた時、新八は泣いていた。


 家を出た新八は剣を愛し、剣を頼りに生きた。名前を長倉から永倉と改めることで家という未練を捨て、ただひたすらに剣、剣、剣の日々。いつしか彼は道場の免許皆伝を得たがそれに満足はせず、さらなる「武士」を求め、彼は武者修行に旅立った。そしてしばらく日本中を歩き回り、多種多様な剣術を学んだ。金は、道場破りや用心棒をやったりして稼いだ。その間に初めて人を斬り、江戸に帰ってくることにはもう二人斬っていた。そして江戸にようやく帰った日、杉山玄鬼という水戸脱藩の侍を四人目に斬った。新八はただ無機質に自分の理想を追い求めながら死体に名を名乗り、その血を拭っている。

 さっき「私は新八が羨ましかった」と言ったが、やっぱりこうして見るとどっちもどっちだわ。外の闇で虫の声が遠く離れていくのに気付いた私は、部屋で「新八っちゃん」と呟いてみた。君は長生きだったし、その生涯で武士になれたんだろうか。武士が消えた世界で、武士を見つけたんだろうか。昼間はあれほど暑かった筈なのに、今は妙に肌寒い。

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