第23話 夢想

 牢人は看板娘に向けていた色情的な視線を、攻撃的なものに変更して福田の細い目に向けた。

「誰だおめえ」

「私は福田廣ってもんで、しがない医者をやってる。で、お主の名は」

「水戸脱藩、杉山玄鬼。ゲンキくんって呼んでくれや」

「そうか、ゲンキくん。見たところ、お由ちゃんは嫌がっている。その手を離したまえ」

 福田は江戸で医術を学ぶ傍ら、よくたつ屋へ立ち寄っていた。店頭で元気に客引きをやるお由に惹かれたのだ。しかし本人からお由に話しかける勇気は無く、毎日正午にここへ立ち寄ってはエスプレッソだけを注文し、暖簾の向こうから聞こえるお由の声を聞き、幸せを噛みしめる、といった日常を過ごしていた。そんなある日、夕方に一人で帰路へついた福田は、店に乱暴者がやってきてお由の綺麗な腕を掴み「俺の女になれ」と迫られているところに自分が「待たれい」と割って入り、それまで内に秘められていた医者の自分の中に眠る武士の魂が覚醒し、あっという間に狼藉者を撃退、お由は自分に惚れる、というのを妄想した。それと全く同じ状況が、今こうして現実に起こったのである。

「ありがとうございます神様、仏様。親に言われるがままに医者の道へ入り、しかしそれに納得のいっていなかったこの私に、チャンスを与えて下さったのですね。いやあ、毎日お天道様とご先祖様に手を合わせていてよかったなあ、ありがたや、ありがたや」

 と、この時福田は思っていた。玄鬼はお由の腕を掴んだまま、鼻をほじりながら答えた。

「手を離せって、なんで?」

「なんでってお由ちゃんが嫌がっているからだよ」

「なんでお前にそんなことがわかんの?」

「あのさあ、見りゃわかるでしょ、常識的考えてさあ」

「いやいやいやいやいやいや、見りゃわかるって、え? 見りゃわかるんですか? お前はお由ちゃんじゃないじゃん、なんでお由ちゃんじゃない人が、お由ちゃんが考えてることわかるんですか? じゃあほら、俺が何考えてるのかあててくださいよ、見ただけで」

 この玄鬼の子供じみた理屈に腹を立てた福田は、この辺りで彼に痛い目を食わせてやろうと考えた。しかし、自分がそれをやることで玄鬼の家族や友達が傷つきはしないか、とも考えた。その結果「いや、こいつは神がこの俺とお由を結び付けるために創りだした存在にすぎない。じゃあ、どうにかなるだろう」となり、彼は臆することなく玄鬼に歩み寄ると、お由の手を掴む玄鬼の手を、その手で掴んだ。手しか映ってないや。

「黙れこの屑野郎。早くその薄汚い手をお由ちゃんから離したまえ」

 と言ったつもりだったが、実際には「屑野郎」と言い終わる前に鼻先に強烈なエルボーをくらい、福田はその場に伸びた。意識が途切れる直前に全てを悟った福田は「まあそりゃそうだよね、でもいっか。全部終わった後に、お由ちゃんがこうして勇敢に立ち向かった私のことを意識してくれているかもしれないし」と妄想し、ちょっとだけにやけて気絶した。直後、お由は震えながら小さな声で「ださ」と呟いちゃった。

 この辺りで私と山南も「これはヤバい」と立ち上がった。それまではただの迷惑な酔っ払いだったが、暴力沙汰となれば話は別である。色々と他の人間の迷惑もかける可能性が浮上してきたし、そうすると私はこんなことに巻き込んだ山南と、こんな日に散歩なんか思いついた私とを恨まなければならない。そんな私に対し、山南の主軸は正義感、それだけであった。

「沖田君はクリームソーダを飲んでて良いよ。炭酸抜けると嫌だろう」

 とはいえ、こいつは私に良いところを見せたいという気持ちがいくつかあったらしい。しかし、この提案は私にとっても良い話だ。仮にここで山南でなく私が玄鬼を倒すと、間違いなく人だかりを作る三十人は私に惚れる。となるとその後の人間関係とかがかなりぐちゃぐちゃしてしまうし、大勢に惚れられたと同時に大勢から恨みも買うだろう。それに引き替え山南なら、まあお由ちゃん含めて見物人の小娘が惚れる程度。

 私はお言葉に甘えて、テーブルに肘をついて山南の後姿を見守った。その時初めて「可愛い人だな」と思った。しかしまあ、店の親仁もこういう騒ぎの中平気な顔して営業ができるはずもなく、私のクリームソーダは一向に出てこなかった。

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