第9話 敗北

 道場へ帰るふでの後姿を見ながら、林太郎は姉が近くにいないかきょろきょろ見渡して、私に言った。

「ああいう人の夫さんは、苦労しないんだろうねえ」

「いや、割かし今の姉さんとどっこいどっこいだったりしますよ」

「マジ? それよっぽどじゃん」

 姉はこの頃、マタニティ・ブルーで、お腹の子を庇いながら私の家族を演じ、そのストレスを林太郎にぶつける、という波乱万丈な日常を送っていた。

「総二郎、てめえ、いつになりゃ剣術修行やるんだよ、やる気ねえなら、あんな襤褸道場辞めちまえよ、ああん?」

「姉さんごめんね。でも道場が貧乏だからさ、未だに私の防具一式すら届かなくって。やりたくてもできないの」

「くすん、くすん、ごめんなさいね総二郎ちゃん、私が不甲斐ないからこんな目に。私のせいだわ、私のせいだわ、ぐすん」

「いいんだよ姉さん。月謝はちゃんと払ってるんだから、これ以上修行させてもらえないなら、私あの道場訴えるし」

「もう、またそうんな冗談言って。総二郎ったら、うふふ。そろそろお兄ちゃんになるんだから、しっかりしなきゃ駄目よ」

「まあ、お兄ちゃんてか、叔父さんだけどね、戸籍上」

「はっはっは、その年で叔父さんってか、はっはっは」

 私は慣れっこだが、この時の林太郎の目が本当にヤバかった。あれは完全に、離婚も視野に入れてる目だった。

 そしてこの頃、私は姉の腹が大きくなる度に自分に時間が無いことを想い知り、その度に嫌な思いで漬物を噛み締めていた。

 タイムリミットは、着々と迫っている。

 その翌日、ようやっと私の剣道具一式が揃った。

 この頃はもう近藤勇と名乗っていた勝太は私を呼び出し、庭で稽古をする、と言った。あの稽古場で素振りなんかやっていても、誰かにぶつかるかして集中できん、と彼も思ったらしい。

 庭も決して広くは無かったが、この日は晴天で涼かったので、むしろ助かった。

 私は初めて、自分の刀を手にした。小人、と言わんばかりにちんまりとした、竹刀に木刀。試衛館の皆が振るう丸太のような木刀に比べると、はるかにへにゃい。そら、まだ幼いから、仕方ないと言えば、ないけれど。

 勇は通常の竹刀を私の頭くらいの高さで地と水平になるように持って「とりあえず、打ってみろ」と言った。

 以前、自宅の庭先で棒切れを振るっていた時と、やっていることは変わらないのだが、私は少しだけ強くなっている自信があった。

 試衛館に来て約半年の間、私は掃除ながらに稽古の様子を観察し、夜中は一人で庭先へ出て、それを真似する、というのをやっていたから、ある程度の「剣術の形」というのを身に着けた、と思ったからだ。

 しかし、練習とはいえ本来ならば、目の前に立っているのは人間。そいつを躊躇なく、すぱっ、といけないようでは、とても武家に就職なんてできない。

 私は必死に、目の前に浮かぶ竹刀を人に見立てるよう、集中した。すると、そんな様子を見た勇が言った。

「おいおい、このくらいでビビんなって。最終的には人とか斬るんだぞ? リラックス、リラックス」

 うるせえな、と思った。そして単純に、言葉選びがむかついた。そう思ってくると、なんだかコイツの顔もむかついてきた。

 そしてその平然とした顔色も。

「ちょ、いいですか、先生。できれば、できればなんですけど、いつもやってるみたいに構えてくれませんかね」

「え、なんで」

「なんか、ムード出したくて。私本気で強くなりたいんで、生半可な気持で漠然と竹刀を打っても、これ駄目なんじゃないかな、と思って」

「あ、なるほどね、はいはい。君は本当に立派というか、意識が高いねえ」

 この男はこの頃から、チョロかったのである。

 おっしゃ、これで「あ、すんません、外しました。自分初心者なもんで」とか言って、腕とか脛とかに一撃かましたろ。ひゅう。

 勇はゆっくりと中段に構えると、岩のように動かなくなる。

 竹刀とはいえ、誰かと相対するのは初めてのことであり、妙に、というか激烈に緊張した。冷や汗と鳥肌で、足が固まった。

 勇は何もしていない。ただ、ムカつく微笑みをこちらに向けているだけである。ただ、一歩でも動けば骨を圧し折られる、のではないか、といった具合で、私は初めて嫌な汗を滲ませた。

 自分が不甲斐ないのか、勇の威圧が凄まじいのか。どちらにしろ、自分の腕にそこそこの自信があった私は、だいぶショックだった。

 本当、本当にマジで悔しかった。

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