第4話 萌芽
それから我ら沖田家は、新宿区四谷の屋敷へ移った。暮らしは少しだけ楽になり、姉は変わらず私を「おうこら総二郎、ここへ座らんかいボケ」と怒鳴り、「総二郎ちゃん、こちらへいらっしゃい、うふふ」と可愛がっていた。
夫婦仲への心配も私の杞憂だったようで、この頃の私は寝不足が続く生活であった。とほほ。
そしてある朝、玄米と茄子の味噌汁、二匹の目刺というメニューを食べながら姉が言った。
「ねえ、お前様。もしも赤ちゃんができたら、どんな名前にしようかしら、うふふ」
「そうだねえ、やっぱり立派な名前にしないとねえ、えへへ」
「芳太郎なんて、どうかしら? うふふ」
「君の名前をとって、光太郎というのもいいね。えへへ」
「うふふ」
「えへへ」
当時九歳の私は、ここで、剣術をやろう、と萎びた茄子の味噌汁を飲みながら思った。自分の将来に迫る黒い腕の存在に気づいたからだ。これは小学生が大学受験のことを考える、というような、鬼が聞けば笑死もンの話なのだが、当時はこうでもしなければ、将来は本当にどん底だったので、考えた方が良い、というより、考えていないと拙かった。
この二人のラブラブな感じからして、子供が産まれるのもそう遠い事じゃないだろう。そうなったときに面倒なのが、我が沖田家の家督相続。本来なら、親父の嫡男たる私が沖田家を継ぐのが筋。でも今の当主は養子の林太郎で、嫡男が産まれればそいつが当主になる。
んで、私はその餓鬼に何かあったときの保険として飼殺され、社会の歯車からずれたところで酒を飲み、女と遊び、堕落していくしかない。それがオエド・システム。
だが剣術が達者であれば、ワンチャン、どこかの道場を継げるかもしれないし、仮に大剣豪にでもなれば、仕官の話も出てくるかもしれない。
要は、ニートになるのは格好が悪いから、できれば良いところで働きたい、と考えたのだ。
それからしばらく独学で棒切れを振ってみた。井上さん家にお邪魔してる時に、何度か彼らが素振りをしている姿を見たことがあったので、それを真似してとにかく暇さえあれば振っていた。
最初は
ぶぉん
といった具合で振っていたのだが、徐々にそれが
ひゅっ
となり、最後には
ふ
となった。
しばらくすれば、風で落ちてくる葉っぱを一枚一枚両断できるくらいにはなったが、素振りが天才的、というだけで仕官ができるはずもなく、そのためには少しばかり、真剣の扱い方や、それを持った相手との戦い方を学ぶ必要が、どうしてもあった。
そのため、私は林太郎の伝手で、屋敷から徒歩二十分ほどのところにある、東京都市谷柳町の道場へ行くことにした。家から近いというのが物凄く良い感じだが、伝手のおかげで月謝が少し安くすむというのが凄い助かった。
案内役の源三郎は、近頃この道場に住み込みで働いている。彼曰く、多摩の人間なら、この流派を習っておくのが常識らしい。
その名も天然理心流。
この名前の雰囲気が、田舎の私立大学っぽい。この、結局何をやるのかよくわからない感じ。
私とてどうせなら、もっと有名な神道無念流だとか、北辰一刀流を学んでみたい。とはいえ、恩ある井上家が懇意にしている流派というのは、やはり興味があった。
しかし、その道場というのが、本当に汚くてボロい。君たちも外に出て、近隣を散歩してみると良い。一軒くらいは、え、ここ人住んでんのかよ、という具合に朽ち果てた家があるだろう。
そこに『試衛館・天然理心流』という文字と、古めかしいイラストが描かれた、赤錆だらけの看板が立っている感じだ。
そんな道場を見て、私こと、九つになる沖田総二郎は思った。
「汚っ。え、源さん、マジでここ?」
当然である。ピカピカの一年生として、下手をすれば一生この道場でお世話になるのだから、せめて綺麗な場所が良かった、というのは誰でも思うのではなかろうか。
しかし、門の前でも稽古の声だけはしっかり聞こえているあたり、一応まともに経営はされているっぽい、というのが僅かな希望だった。
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