第2話 天恵

 林太郎は道中ですら、私らのことを考えて涙をこらえていたが、ろくに掃除もされていない襤褸い小さな屋敷を見ると、もういよいよ涙があふれてきた。さらには、髪も乱れ、痩せた色白の姉が顔を出したことで、とうとうダムは決壊し、目や鼻や口をぐっちゃぐっちゃにして、いてもたっても居られず屋敷に乗り込み、姉の前で膝をつき、号泣した。

「このご時世に、幼い二人だけで生きていくだなんて、くう、ううう、うおゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ」

 姉がテンパっておろおろしている前で、林太郎は汁塗れの手で姉の手をがっちりと握った。

「うちに来なさい! うちが面倒見てあげるから! ね!」

「その発言、大分やばいと思うんですケド」

「良いから良いから! お菓子も出すし、お兄さん悪い事しないから、だからね? ね? ね?」

 林太郎は自分の身分やここへ来た理由などを改まって姉に聞かせた。なおその際、手は握ったままだった。

 姉は思った。

 この人やばくない? てゆーか手、汚っ。

 でも、引き取ってくれるのは、悪い話じゃないわね。そろそろ身売りでもしなきゃならないかと思っていたし。手、汚っ。

 私、ちょっとだけ自由に生きても良いのかな。この人、変人だけど悪人じゃなさそうだし。手、汚っ。

「わかりました。これからお世話になります。手、汚っ」

「本当ですか、本当にいいんですか? え、最後に聞くけど、本当に良ろしいんですね?」

「条件があります。知ってのとおり、我が家は当主の父上が亡くなり、他に身内もおりません。誰か、良い人を探してくれませんか? 手、汚っ」

 林太郎はさらに涙した。幼いのに、何としっかりした娘だろう。自分のお家のこともしっかり視野に入れているなんて、きっと成長したら良い妻になるに違いない。

 と、その時である。私は姉が中々戻ってこないので、よたよたと歩きながら玄関先へ出た。姉はそれに気づくと、ねちょねちょした手を振りほどき、私の手を繋いでくれた。

 その時、林太郎の心がドキュっとした。

 人の心が動く瞬間、というのは本人にもわからぬもので、彼女がサンダルを履く瞬間に一目惚れした、という輩もいる。それと同じく、ただ手を繋いでいる姿を見ただけで、林太郎は生まれて初めて恋をしたのである。単純な男。

 こういうことには不慣れな男だから、どうすればいいのか分からず、熱された鉄のようになって、そしてようやくてんやわんやな自分の手を袴で拭った。

「お待たせしました。どうされました?」

 林太郎は地べたに正座して、姉を仰ぎ見た。

「卒爾ながら跡継ぎの件ですが、よろしければ某、井上林太郎にやらせてくれてはいただけませんで御座りましょうか」

「何言ってんのか全然わからないんですケド」

「その代りと言ってはなんですが、沖田殿を妻としていただきたいのです」

「うっそ、え、ちょっと、やだ、え、え」

 恋は盲目、痘痕も靨、鼻水したたる色男。姉は即オッケーした。

 まあ、林太郎は姉じゃなく、私に恋したんだけれども。

 林太郎は姉のことは視野に入っちゃいない。彼女が手を繋いでいる神のような子に目を奪われたのだ。本当に美しい人間というのは、どんな年増でも、はたまた三歳でも相手のハートを射ることができる、ということ。だからこれは、もうしょうがない。

 当然、林太郎だっ自分の行動に疑問はある。「これ、犯罪じゃね? 俺今、言ってることけっこーやばくね?」といった靄々が脳に絡みついていた。しかし、出た結論は

「ま、えっか。この娘を嫁にできるんだし、うへへ」

 というもの。光源氏然り、行き過ぎた美貌というのは人を狂わせる。そして若紫然り、人がその美貌に惚れるのに、年齢は関わりない、てこと。

 あれほど真面目だった好青年が、今じゃ三歳相手に鼻息を荒くするエロ侍なんだからさ。

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