Detective meets Mystery

蓮視 秋

探偵たち

一 埃まみれと探し物


 扉を開けるといつもと変わらない埃のまみれの景色が広がった。

 窓から差し込む光が舞い上がる埃を照らし、まるでふぶきのように見せる。

 古い家具はでたらめな配置で設置してあり、最早本来の機能を発揮していない。壁と棚の間にはゴミとも区別のつかないガラクタが積みあげられ、少しの隙間も許してはいなかった。

 本棚から溢れ、いたるところに積み上げられた本たちが小さな壁を築き路を作っている。その小さな路の執着点に“彼”のデスクがあった。


「おはようございます」

「お早う。岬君」

 

 この部屋には似合わない上品な声が本の壁の向こう側から聞こえた。

 岬。

 彼の呼ぶ自分の名前にまだ違和感を覚える。

 岬、という名は彼が付けてくれたものだ。まだ所有して半年も経っていない、新鮮な名前だ。そのせいだろうか、いまだにこの名前を呼ばれることに慣れていない。


「ハイリさん。いつ来たんですか」


 私がそう尋ねると彼は「うぅむ……」と少し唸ったような声を出した。


「僕の家はここだよ」


 彼――ハイリは少しの間をおいてそう返した。

 ここ、と言ったか?

 この……ゴミ屋敷と図書館を足して割ったような場所が……?

 もしハイリの“ここ”という言葉の認識が僕と同じであるなら、そういうことになってしまう。


「ゴミ屋敷とは失礼な」

「声に出ていましたか」

「いや、顔にそう書いてある」


 顔、とは言うものの、ハイリの座るデスクと私の立つ場所には大きな本の壁があるのだが。


「……ここの上の階は私の居住スペースになっていてね、基本的に食事と睡眠はそこで摂っている。それ以外の時間はだいたいここにいるがね」


 なるほど。確かにここには寝る場所も食べる場所も存在していない。あるのは本とガラクタ、そして埃たちだけだ。

 しかしまあ……その居住スペースも、睡眠食事の最低限なスペースが確保されているだけで、ここと大差ないような気もする。


「……居住スペースはここよりは片付いている」

「そうなんですね」


 実際に見たことはないので、私はハイリの言葉を聞いて頷くくらいしかできない。

 そもそもこの人が食事をして眠るという姿もあまり想像がつかないのだが。

 彼とは数ヶ月前にこの場所で出会った。

 雨の日だった。

 寝床を失ったばかりの私は新しい巣を探している最中で、町のはずれにあったこのビルを、すでに廃棄されたものだろうと思い込み、忍び込んだのだった。

 ビルの三階、この部屋でずぶ濡れの私を出迎えたのがハイリだ。


『ん? お客かな。こんな雨の降る夜に客とは珍しい。いやそもそも客という存在自体が珍しいのだが……』


 窓のガラスを打ち付ける雨粒が五月蝿かった。それでも不思議なことに彼の声は、部屋の端にいる私の元まではっきりと届く。


『あなたは……商売人か?』


 彼は即答した。


『そうだな。人の悩みや苦悩といったものを買うのが私の仕事だ』


 まるで悪魔のようだ。


『質問に答えたんだ。君も私の問いに答えてくれないか?』

『あ、ああ。私は客じゃない。巣を探していてここに迷い込んだだけだ。邪魔した。もう去るよ』


 そもそもここに先客がいた時点でここを新たな棲み処にすることなんてできない。人がいたと気付いた時点で何も言わず立ち去るべきだった。


『巣……? それは鳥のか?』


 しかし男はなにやら私の答えに興味を抱いてしまったようだった。


『鳥じゃない。私のだ』


 当時の私は人間じゃなかった。

 正確に言うならば、人間を人間たらしめる物を何も持っていなかったのだ。

 名前、身分、親、兄弟、家、国籍、何一つ私にはなかった。

 理由は自分でもわからない。気が付けば私は路地裏や廃屋に棲み着いては離れを繰り返し、日々拾い食いを重ね、時には乞食のような真似をして、今日まで獣のように生きていた。

 ただ少し恵まれたところがあるとすれば周りの似たような獣たちと違い、文字を読み書きする力があったことと、それゆえ人間の平均的な知識を得ることが出来たことだろう。


『ふむ……棲み処を無くした渡り鳥……いや、野良猫、はたまた害虫か……』

『虫ではないでしょう。これでも生きている人たちの迷惑をかけたことはない』


 だからわざわざもう使われなくなった廃ビルを探しているのだ。


『なるほど。いい自信だ。自信家は嫌いじゃない』

『そうか。感謝する。それでは私はこれ以上あなたに迷惑をかけることにもいかないので、ここらで去るとするよ』


 そう言って、私は彼から背を向けた。

 しかし、待て、と声がかかる。


『なにか用か』

『いや、なに、先ほども言ったとおり、私は人の苦悩を買うことを生業としていてね』

『それは聞いたが』


 なにが言いたい?


『君の苦悩を買ってやろうかと思ったんだ』

『どういうことだ』

『君に住み家を与えようと言っている。その代わり、君の持つ謎を私にくれないか?』


 謎。それはつまり私自身の謎ということだろうか。

 私が何者で、誰に産んでもらい、誰が今の私をこんな風にしたのか。そんな謎たちを彼に売るとはどういうことだ。言葉の意味がよくわからない。


『住む家を与えよう。最低限の生活に困らない程度には金も送ろう。名前と場所も与えてあげよう。晴れて君は獣から人間に成ることが出来るだろう』

『それはありがたい話だが……なぜ……?』


 確かに今まで似たようなことを言って近づいてくる人間はいた。

 それは国から派遣された者であったり、慈善団体の中で活動に勤しむ者であったり、物好きな変態などだった。それでも結局は最後には匙を投げるか、私の身が持たずに逃げ出すかのどちらかだった。

 この部屋の主は今までのどの人間とも違った。

 いや無意識に感じてしまったのだ。この男は“私”には興味はないのだと。この男は心の底から私の持つ“謎”にしか興味はないのだと。

 それが不思議だった。


『なぜか、当たり前だろう。探偵は謎を追う生き物だからだ』

『あなたは……探偵なのか?』


 男は頷いた。いや、頷く姿こそ見えなかったが、私の質問に答えるまでに、確かに頷いたような間があった。


『この町で私立探偵をしているハイリという者だ』


 彼は――ハイリはそう名乗った。

 そして続けて言った。


『君の持つ謎を買わせてもらいたい』


 そうして、私には家と岬という名前が与えられた。

 ……ついでにハイリの助手という仕事も。


「それで、今日の案件ですが……」


 私は依頼案件がリストアップされた紙を片手にハイリに話しかける。

 この町の人間はさぞ悩み事が絶えないのだろう。この廃ビルまがいの場所に事務所を置いている私立探偵の下にも日々たくさんの依頼が舞い込む――のだが。


「ふむ、今日は面白い謎があるといいのだが……」


 彼は基本的に仕事を“選ぶ”のだ。

 毎日送られてくる数十件の仕事の中から、彼が『買いたい』と思ったものだけを解決する。これがこの探偵のルールだった。

 この時点でかなり厄介な探偵なのだが、さらに厄介なことに、彼の好む謎とやらがさっぱりわからないことだった。

 浮気調査は全くやりたがらない癖に、犬猫の迷子調査なんかは好んで選ぶ。刑事事件や警察直々の依頼もたまに来るけれども、過激な事件であればいいというわけではないようで採用されるかどうかは半々といったところだ。

 そんなわけで私は毎朝、届いた依頼をリストアップしハイリにひとつひとつ尋ねなければならないのだった。


「えー、引越しの手伝い」

「……」

「旦那の浮気調査」

「……」

「蜂の巣の撤去」

「……」

「妻の浮気調査」

「……」


 ハイリの無言は却下の意を表す。

 リストアップ作業の時点で薄々と感じてはいたが、今日の依頼の中に彼の興味を引くようなものはなかった。

 結局最後までリストを読み上げてもハイリが無言以外の返答をすることはなかった。


「退屈な日になりそうだ」


 ぽつりと彼が呟く。

 仕方がない。今日は私も他の雑務をこなして過ごすしかないようだ。

 そう思っていた。が、しかし――、


「そういえば、こんなものが届いてたのですが……」


 危うく忘れるところだった。

 取り出したのは小さく簡素な封筒だった。切手も宛名も無いのでこれは直接このビルに投函させられたものだろう。


「ふむ……読み上げてくれ」


 少しはハイリの興味をそそったのかもしれない。私は言われたとおりに手紙の内容を読み上げることにした。

 封を切り、便箋を取り出す。封筒とは反対に便箋はまるで小さな女の子が持つようなピンクとリボンの柄がちりばめられた可愛らしいデザインをしていた。簡素な封筒からこんなデザインの手紙が飛び出してくるなんて思っていなかったので少しだけ驚いた。

 手紙の内容は短く、字も丁寧だけれども一文字のサイズが小さい。


『拝啓、探偵様。いきなりですがわたしは依頼があってこの手紙を送りました。この手紙はわたしの依頼書です。依頼の内容とは端的に言うと、私の名前を見つけて欲しいというものです。私には名前がありません。どこかで失くしてしまったようなのです。信じて頂けるかわかりませんが、事実です。探偵様には私の失くしてしまった名前を探してもらいたいのです。もしあなたがこの依頼を請け負ってくれるのであれば、今日の正午、中央公園の噴水の前で会いましょう。名無しより』


 封筒と便箋もちぐはぐであれば、手紙の内容までちぐはぐだった。

 しかし――、


「これ、悪戯……でしょうか」

「どうだろうね」


 名前の無い人物。親近感というようなものは湧いてこない。むしろたぶん手紙の主は自分とは違う世界の人間だろう。勘だが、そう感じていた。


「正午に中央公園の噴水前、か」

「行くのですか?」

「ちなみに今は何時だね」


 腕時計を見る。


「午前十時三十分ですね」

「ここから中央公園までだいたい三十分だ」

「ええ」

「あそこの近くにはとても美味しいサンドウィッチを出す店があるんだ」

「聞いたことがあります」

「少し早いが昼食に赴くとしよう。なに、ランチのついでに手紙の差出人に会えばいい」

「依頼を受けるのですか」

「私の買う謎は私が決める。依頼人に会ってから決めるさ」


 そう言いながら、ハイリは椅子から立ち上がる。それから近くの棚に無造作に置かれた背広を拾い上げ羽織り、本の山の中から小さなカバンを引き出した。


「さあ、行こうか岬」

「はい」


 返事をする。

 今度は部屋を出るため、本の壁が織り成す路を歩く。

 今日は快晴だった。


「いい天気だ。これはきっと良い謎が迷い込んでくるに違いないだろうね、岬」


 ビルを出たハイリはそんなことを言った。



 

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