ACT-5 ~Another World~ 1/6


ピピピピ……




ピピピピ……


 ピピピピ……



「ん……」



ピピピピ……


 ピピピピ……


  ピピピピ……


「るっせぇな……何なんだよ、もう!」



ピピピピ……


 ピピピピ……


  ピピピピ……


ピピピピピピピピピピピピ


「だぁーっ! うっせぇ!! 静かにしやがれ!」


 バン!!


「ったく、やっと静かになりやがった……畜生」


 ……


 …


 …


 ――ガバッ!!



「えっ?!」



今、思い切り手で払いのけた“硬い物”を、寝ぼけた目で追う。

それは、中の電池が飛び出して転げている、目覚まし時計だった。


――8時で、針は止まっている。


「えっ?! えっ?!」


布団から飛び出し、周囲をキョロキョロと見回す。

そこは、特に何の変哲もない個室。

男の一人暮らしに“ありがちな状況”が展開する、ごくありふれた光景だった。


「ここって……なんだよ、これ?!」


背中に、冷たいものが滴る。


「な、なんで俺、ここに居るんだ?!」


大慌てでカーテンを開くと、窓の外を見る。

次に、テレビに目をつけ、電源を入れる。

床に転がったままのスマホを拾い、電源ボタンを押す。


「うわ、駄目だ。パス忘れてやがる!!」


敷きっ放しの布団の上にスマホを放り捨てると、汗で湿った身体をのそりと動かし、室内を何度も徘徊する。


ここまで行うまでに数分、とうとう諦め、布団に横たわってボソリと呟いた。


「俺のアパートじゃねぇか、ここ……」



彼の名は、リュウヤ。


「ディープダイバー」のメンバーで、切り込み隊長的役割を持つ戦士。

本来であれば、「ハブラムの地下迷宮」に仲間達と共に潜り、各階層を巡り、魔物達と闘っている筈である。


だが、今の彼は違う。

彼は……否、今の彼は、“円 竜也(まどか りゅうや)”という、ごく普通の青年。

東京杉並区のアパートで一人暮らしをしている、どこにでも居る普通の学生だ。


というより、そんな立場に、戻ってしまっていた。


(確か俺は、モトスとアリス、セイゴとザウェルと一緒に、迷宮に入った筈だよな?!

 んで、今回はアリスのリクで、地下十一階層より下に行こうって話になって――)


布団の上に突っ立ったまま、一生懸命に、記憶を辿る。

頭の中では、彼は間違いなく、リュウヤとしての記憶を保っているようだ。

しかし、目の前に広がる状況が、その記憶に大きな疑念を植えつけて来る。


(これは、幻覚か?

 それとも、トラップ? いや、でも……)


リュウヤ――いや、今となっては竜也だが、彼は、ひとまず今の状況を再確認することにした。


まずは、自分自身を調べる。

→黒いTシャツに、青のトランクスだけを身に着けており、しかも汗で濡れている。


部屋そのものが巧妙に作られた罠で、どこかにキラーとラップがある可能性を考慮。

→トイレと風呂があり、冷蔵庫には牛乳とプリン、二本のビールと食べかけのスルメ(袋入り)があった。


もしかして、閉じ込められた?!

→玄関のドアも窓も普通に開閉可能で、隣の住人と目が合い、思わず会釈をし合った。


身体に異常は?!

→汗びっしょり&空腹。ちょっとトイレ行きたい。


(何も異常ねぇじゃねぇか! こんなに異常だらけだってのに!!)


何がなんだか訳がわからなくなった竜也は、とりあえず、トイレに行くことにした。


(……ふぅ。しかしこの、なんか妙に落ち着くのが、腹立つな)


竜也は、かつてここに住んでいた頃のことを思い返してみた。


彼の主観では、ここに住んでいたのは、もう二十五年以上も昔のことになる。

かつて、日本という国の首都・東京の杉並区に住んでいた。

当時の竜也は、まだ二十歳。

学生という事もあり、いわば一番楽しい時期だった。


だが、とある事情に巻き込まれたことにより、彼はこのアパートを……否、この「世界」から離れてしまうことになる。


こことは違う世界に渡ってからの方が、それまでの人生より長くなってしまった……筈なのだが。


(そういえば、今は一体、何年の何月何日なんだ?

 この頃の俺は、一体何をしていたんだ?)


竜也は、ようやく、根源的な疑問に辿り付いた。


先ほどのスマホの電源を入れれば、ホーム画面は開けなくても、日付や時間は確認出来る筈だと、思い返す。


トイレを出て、早速確かめようとしたところで、突然、スマホが鳴動し始めた。


「?!」


モニタには「涼宮 誠吾」と表示されている。

竜也は、慌ててスマホを取り上げた。

電話に出る操作を思い出すのに些か時間を要したが、なんとか繋がった。

と同時に、鋭く大きな声が、スピーカーから響いてきた。


『おい! 起きてるか?!』


「ふえっ?! えっ?! えっ?!」


『今、何時だと思ってる!! 待ち合わせの時間、忘れたのか?!』


「は? ち、ちょっと待て」


『どうせまた、深夜アニメなど観ていて寝坊したんだろうが』


「いや、違うって、セイゴ! そ、それよりさ」


『もう一時間も待ってるんだぞ!

 もうすぐ迎えが行くから、さっさと準備しろ!』プッ


「え? お、おい! セイゴ! 待てよ、オイ!!」


起動用パスコードを忘れたため、向こうからの通話が終了してしまうと、もはや竜也には何も確かめることが出来ない。

一瞬表示されていただけの電話番号など、咄嗟に思い出せるものでもない。

仕方なく竜也は、電源だけ入れて、現在時刻と日付を確かめた。


『8月14日 金曜日 10:38』


どうやら、汗の理由は焦りから来たものだけではないようだ。

あまりの状況変化に意識していなかったが、室内はかなり蒸し暑い。

竜也はエアコンのスイッチを入れ、流れてくる冷風にしばし身を委ねた。


(今の電話、セイゴだったよな?

 あいつまで、俺と一緒に、東京に引き戻されたのか?

 いや、それはありえねぇか……じゃあ、今のあいつは?)


身体が冷えてくるにつれ、頭も多少冷えたのか、更に冷静さを取り戻す。

仕方なく、竜也は冷蔵庫から牛乳とプリンを取り出し、ひとまず喉の渇きと空腹を癒すことにした。

もしや毒が? とも一瞬考えたが、これだけ凝った演出を仕掛ける奴がプリンに毒なんてセンスのない攻め方をする筈がないだろうと、すぐに思い立った。


(賞味期限は、大丈夫か。

 それにしても、プリンなんて懐かしいなあ~。

 ……うおぅ、やっぱうめぇ♪)


二十五年ぶりに口にするプリンの甘味に、竜也はしばし酔いしれる。


しばらくすると、玄関のドアが、軽くノックされた。


 コンコン コンコン


控えめな音の後、ドアの向こうから、女性の声が聴こえる。

女性――というよりは、少女、と言った方がいいのかもしれない。


『竜くん? 竜くーん?』


その声に、竜也は、硬直した。


『竜くん、起きてる? お迎えに来たよー』


その少女の声に、聞き覚えがある。

否、聞き覚えがある、などという話ではない。


(――嘘だろ、オイ)


『カギ、開いてる? 入っても大丈夫?』


 ガチャ――キィ


先ほど玄関のドアを調べた際、鍵を開けたままだった事を失念していた。

だが、そんな事は、もはやどうでもいい。

胸が、バクバクと、激しく鼓動している。


「おはよー。

 ……うわ」


どうやら、散らかっている室内を見て、困惑しているようだ。

だが、そんな事すらも、竜也にはどうでも良かった。


そこには、やや茶色がかった黒髪を伸ばした、細身の少女が佇んでいた。


「キャッ!」


「……!」


「や、やだもぅ! 脅かさないでよ、竜くん!」


「――せり、か?」


「って、やだ! まだ着替えてないの?」


「瀬莉香……お前、本当に、瀬莉香なのか?」


「え? ど、どうしたの? 竜くん?」


次の瞬間、竜也は、突然少女に抱きついた。

ふんわりとした髪の感触と、爽やかなコロンの香りが、鼻腔をくすぐる。

抱き締めた腕には、柔らかな身体の感触と、明確なぬくもりが伝わる。


その少女――瀬莉香は、間違いなく、そこに存在していた。


竜也の目に、涙が滲む。


「良かった……もう、もう二度と、逢えないと思ってた!!」


「え? ちょ……り、竜くん? どうしたの?

 オーバーだよ?」


「瀬莉香……!! 瀬莉香!!」


「やだ、ちょ……く、苦しいよ?」


 ポカッ


その時、横から、丸めた雑誌が頭に炸裂した。


「ちゃんと、目覚めていますか? 竜也さん?」


「?!」


はっと我に返った竜也は、目の前に立つ“二人目の”少女の姿に、呆然とした。

金髪ショートカットに白い肌、大きな眼鏡と、右目尻の小さな泣きボクロ。

そして、目を見張るような巨乳。

その手には、丸められたアニメ雑誌が握られている。


「お、おま……!!」


「下着姿で女性に抱きつくなんて、いつもの竜也さんらしからぬ大胆さですね?」


「え? あ、いや! これはその……違う! って、えええぇぇっ?!」


今度は、金髪巨乳少女の姿に、絶叫する。

大きな眼鏡の位置を直しつつ、新しく現れた少女は、小首を傾げた。


「どうしたんですか、竜也さん?

 もしかして、変な夢でも見たんですか?」


「お、お前……もしかして、ろ、ロゼ?」


「はい、そうですけど?」


「あ、アリス……じゃなくて?」


「誰ですそれ?」


「あの、竜くん……お願いだから、まず、何か着て、ね?

 私達、一旦外に出るから」


「行きましょう、瀬莉香さん」


「え? あ、お、お~い……」


何がなんだかわからず、本気で困惑する竜也に、金髪の少女は、肩越しに話しかける。


「誠吾さんにはナイショにしておきますから、急いでくださいね。

 映画、始まっちゃいますよ?」


「え、映画?」


「竜也さんから誘ったんじゃないですか。

 ――機動警官バトレイバー対暗黒大将」


「あ、あ、アレ?!」


「じゃあ竜くん、後でね!」


バタン、とドアが閉じられ、再び一人になる。

竜也は、つい今しがたの会話を反芻した。


(あの映画は、確か2015年の夏公開だった筈だな)


そういう余計な事は明確に覚えている自分に呆れながら、竜也は、急いでタンスの棚を開いた。




十数分後、瀬莉香とロゼに引っ張られるように、竜也はセイゴとの待ち合わせ場所にたどり着いた。


「何か、言い訳はあるか?」


「ありません。ごめんなさい」


「うむ」


久々に見る、現代的な服装のセイゴ。

妙な懐かしさを覚えるが、今はそれどころではない。

未だ混乱が抜けない竜也は、改めて三人を見回した。


「あのさ、セイゴ。お前、本当にセイゴなのか?」


「散々人を待たせておいて、何を訳のわからないことを」


「あ、あのね、誠吾君。

 竜くん、今日はちょっと調子悪いみたいだから」


咄嗟にフォローを入れてくれる瀬莉香だが、さすがにそれはちょっと違う気がする。

助けを求めるようにロゼの方を向くと、スマホで何かを調べているようだ。

雪印の牛乳を、ストローで飲みながら。


「皆さん、あと十分で上映開始ですよ?

 早く行かないと」


「ああ、わかったよ、ロゼ。

 まあいい、今回は瀬莉香の顔を立てて許そう。

 だが、次にやったら、わかってるな」


「切腹でもすんのか?」


「愚か者め。吉野屋の牛丼特盛一杯奢りだ」


「お、おう(あ、やっぱこれ、本物のセイゴだ)」



竜也と誠吾(セイゴ)、そしてロゼと瀬莉香。

四人は、当時東京でしょっちゅう絡んでいた仲の良い親友同士だった。


ロゼ・シーリア・アルフォンヌ。

両親がフランス人なのだが、日本に越してきてかなり長く、そのせいか日本語も非常に流暢だ。

誠吾がインターネット上で知り合い、また偶然にも近所だったため仲間内に加わったのだが、特に誠吾の彼女というわけではない。

丁寧語で話し、割と落ち着いたマイペースな少女だが、結構鋭い突っ込みを入れてくるような、あなどれない面があるので、ある意味竜也の天敵みたいな存在だった。


涼宮誠吾(すずみやせいご)と、挟間瀬莉香(はざませりか)。

二人は、竜也の地元在住時代からの親友だ。

進学のため、先に地元を離れた竜也と誠吾を追うように、瀬莉香は一年遅れで上京して来た。

二人の妹分のような存在で、瀬莉香はいつも竜也達に可愛がられてきた。


「竜くん? どうしたの?」


自然に腕を絡めながら、瀬莉香が心配そうに尋ねてくる。


「え?あ、いや、何でもねぇ」


「今日の竜くん、なんだか変よ? 疲れてる?」


「そうじゃねぇんだ。ただ、ちょっと混乱してる」


「もしかして、私、何か竜くんに悪い事しちゃった?」


「あ~、違う違う! そういうんじゃねぇから!」


「うん……それならいいけど」


絡めた腕に、僅かに力がこもる。

竜也は、改めて今、瀬莉香と密着している事に気付き、頬を赤らめた。


「せっかくのお出かけなんだし、竜くんにも、楽しい気分でいて欲しいな」


「そ、そうだな、ごめん!」


映画館に向かう途中、竜也は、この時に何があったかを、必死で思い返していた。

二十五年以上も前の事となると、よほど印象的だった事しか覚えてないのが普通だ。

それが自分の脳内で起こっている事象なのか、それとも第三者が何かしらの術を施したために発生している幻覚(イリュージョン)なのか、そこまでは判らない。

しばらくこの流れに身を任せ、何か変化が起きるまで、様子を窺うことにした。


映画館の照明が落ち、少々の広告の後、ついに本編が始まる。

瀬莉香とロゼに挟まれる形で座った竜也は、オープニングを観て、ぎょっとした。


(――あれ? これ、こんなイントロだったっけ?)


映画は徐々に物語が進行していく。

しばらく眺めていた竜也は、だんだん膨れ上がる違和感に、戸惑っていた。


(おかしいぞ? 俺、セリフまで全部暗唱出来るくらい観返した筈なのに。

 半分くらい、展開を忘れてる?)



数十分後、酷く複雑な気持ちで映画を見終えたリュウヤは、対照的に、驚きの表情で出てきた三人を眺めた。


「いや~、思ったより面白かったですね!」


「うむ、正直参った。子供番組の映画も、バカに出来ないもんなんだな」


「そうよねー、観に来て良かった♪ って、あれ? 竜くん?」


「え? あ、な、何だ?」


「どうしたの、なんだかつまらなそうだけど」


「い、いやいや、そんな事ねぇよ、面白かった」


「変だな、こういうの観ると、いつもお前が一番に大騒ぎするのに」


「もしかして、ハイレベルなマニアさんには、喰い足りない内容だったんでしょうか?」


「そういうんじゃねぇって。ってか、誰がハイレベルなマニアじゃ!」


「あら、自覚なかったんですか? 竜也さん?」


「竜くん、今日はちょっと調子が悪いみたいだし。どこかで休憩しない?」


「瀬莉香がそう言うなら、そうするか。

 おい竜也、この辺に――」


「ラーメン屋さんなら、もう勘弁ですよ? 誠吾さん」


「――」



四人は、ひとまず近くの喫茶店に入り、冷たい飲み物を注文した。

先ほどの映画の話はさほど長続きせず、普段の生活にまつわる他愛ない会話が繰り広げられる。

だが竜也は、まだその会話の波に乗れずに居た。


「どうした? 竜也。まだ調子悪いのか?」


「熱中症じゃないですか? 寝る時エアコンつけないって言ってたから」


「駄目だよ竜くん! 熱中症は本当に気をつけないと」


「え? あ、ああ、わかった」


「本当に、心ここにあらずって感じだな」


「なんだかんだ言って、映画面白かったんですね」


「ん? ああ、そりゃあ面白かったさ」


「それならいいけど……」


相変わらず心配そうに見つめてくる瀬莉香に、竜也ははにかんだ笑顔を向ける。


しかし、その心中は、相変わらず複雑だ。


(やっぱりおかしい、なんか記憶がところどころ曖昧になってる。

 あの映画、結局、大半覚えてなかったな。

 なんだろう、思い出そうとすると、頭の中に、霞がかかるみてぇだ……)



「ところで瀬莉香、お前こそ、体調は大丈夫なのか?」


無言で悩む竜也をよそに、誠吾が瀬莉香に尋ねる。


「え? な、何? 急に」


「いや、今日は特に暑いから。心配になっただけだ」


「私は大丈夫よ? こう見えても、暑さには強いんだから」


「それならいいが、油断はするなよ」


「はーい」


誠吾の優しい言葉に、瀬莉香が元気な返事を返す。

そのやりとりに、竜也は、はっと我に返った。


彼女は幼い頃から病弱で、地元に居た時は、天候がきつい時には一緒に遊ぶことが出来ず、随分と寂しい想いをさせてしまったものだ。

上京して来てからは、比較的ましになったようだが、それでもたまに体調不良を訴えることがあった。


(やべぇ、そんな肝心なことまで忘れてたのかよ俺)


先ほどとは違う意味で戸惑っていると、ロゼが、胸元をパタパタさせながら話し出す。

シャツの襟から白い肌が覗き、竜也は不覚にもドキッとした。


「今日は確かに暑いですからねぇ、もう外に出たくない気分ですよ。

 あ、そうそう瀬莉香さんって、日焼け止めって何使ってるんですか?」


「私はね、これを――」


「ん? なんだ見せてみろ。ごま油?」


「ちょ……違うよ竜くん! なんでそんなの使うの?」


「嘘だよ、ウソ」


「ごま油は、確かにスキンケアにも使えますけど、日焼け止め効果は――」


「えっ、マジ?」


「やだもう、竜くんったら♪」


「やっと、いつもの竜也らしくなって来たな」


「ははは……ま、まあな」


無理矢理会話に混じり、苦笑する竜也だったが、心中は瀬莉香の体調のことで一杯いっぱいだった



しばらく後、四人は喫茶店を出て、今度は女性陣の買い物に付き合わされた。

男性陣にとって、殆どが待ち時間に等しい状況だったが、竜也には特に気にならない。

瀬莉香の心配もあったが、二十五年ぶりに訪れる故郷の様子に、懐かしさを感じていた為だ。


17時になり、ロゼが自宅の門限を理由に、帰還を申し出る。

それを合図に、駅で解散する方向で、話がまとまった。


「竜也さんと瀬莉香さんって、本当に仲がよろしいですよね」


不意に、ロゼが話を振って来る。

その言葉に、二人は同時に、顔を赤らめた。


「瀬莉香は、昔から竜也にべったりだからな。

 小さい時は、お兄ちゃんって呼んでたくらいだ」


「ちょっと、誠吾君!」


「そうなんですかあ、じゃあもう、相思相愛真っ只中って所なんですかね?」


「おいおいおい!」


「え? あ、それは、その……」


そこまで呟いた瞬間、竜也は、突然奇妙な気配を感じた。

人の行き来が激しい時間帯なのだから、周辺には数え切れない程大勢の人が居る。

だが、そのどこかに、明らかに異様な視線を投げる者が居る。

竜也は思わず立ち止まり、周囲を見回した。


(なんだ? 誰かが、俺を見てる?

 いや、こんだけ人が居るんだから当然だろうけど、でも……)


「オイ、瀬莉香! どうした?!」


突然、背後で、誠吾が大声を上げた。

肩越しに振り返ると、瀬莉香が真っ青な顔で、誠吾に抱きかかえられている。


「瀬莉香さん! 瀬莉香さん!?」


「ど、どうしたんだ、瀬莉香?!」


「わからん! 急に倒れた! 竜也、救急車を!」


「お、おう!」


誠吾に急かされ、ポケットからスマホを取り出そうとして、手が止まる。

起動用のパスコードを忘れたままなので、竜也には、何も出来ないのだ。

本当は、その状態でも緊急連絡は可能なのだが、二十数年もスマホから離れていた竜也には、それが咄嗟に思い浮かばなかった。


「竜也! 何をしてる?!」


「わ、わりい! スマホ使えねぇ!」


「チッ! ロゼ、頼む!」


「判りました! ――え?」


スマホを取りるためにバッグへ手を突っ込んだ格好のまま、ロゼが静止する。

そして、竜也も誠吾も、同様に硬直した。


――誠吾と瀬莉香の前に、突如、何者かが姿を現したのだ。


肩にかかる程度の黒髪をカチューシャのようなもので留め、黒い半袖のシャツとホットパンツを纏い、その上から、皮製の鎧のようなものを羽織った女性。

指先の露出した皮手袋を嵌めた手が、そっと瀬莉香の額に添えられる。


?「korras?」


「は?」


?「Tundub, et seisund halveneb.

 See on ohtlik, kui sa sellega kiiresti ei tegele.」


「す、すまない、何を言ってるのか……」


?『take go into the root of Ancient-Magical spell program.....』


「え……」


黒髪の女性が、何やら不気味な呪文のようなものを唱え始めた。

すると、翳した掌がぼんやりと緑色に輝き始め、やがて凄まじい輝きに変わる。

その異常な様子に、駅構内を行き交う人々が、不思議そうに覗き込んでいく。


通路のど真ん中でしゃがみこむ五人の様子は、確かに異様だ。

だがそれよりも、そこからスポットライト並の輝きが広がっている事の方が、よほど人々を騒がせる。

しばらくすると、異常を察した駅員が、走りながら近寄ってきた。

だがこの間、竜也は、何も出来ずにただ呆然としていた……


?「Toenaoliselt on koik korras.」


「お前、いったい、何をした?!」


?「Haiglasse kiiresti.

 See on Esmaabimeetmed abi.」


「駄目だ。ロゼ、わかるか?」


「わかりません、何処の言葉なのかも……」


「ちょっと君達! どうしたの?」


「あ、あの、この娘が!」


声をかけてきた駅員に、誠吾が戸惑いつつも、事情を説明しようとする。

だが――


「んん……っ」


「瀬莉香! だ、大丈夫か?!」


「私、また……倒れちゃった?」


「良かったです! 意識戻りました!」


「いや、とりあえず病院へ! って、さっきの女は?」


「え? あれ?」


「とっくに向こう行っちまった」


「え? なんで、止めてくれなかったんですか、竜也さん!」


「……ご、ごめん」


その後四人は、駅員室に移動し、事情を説明した。

多少回復したものの、瀬莉香は病院に連れて行く方がいいと判断されたため、駅員がタクシーを手配してくれる。

だが、先の謎の女性は、それきり姿を見せることはなかった。


肩に瀬莉香を寄り掛からせた状態で、竜也は、厳しい目で窓の外を眺める。


先ほどの謎の視線は、もう感じられなくなっていた。




その後、瀬莉香は緊急入院となり、竜也はロゼ達と協力して、瀬莉香の入院の準備を行った。

思った以上に容態は良くないようで、緊急の精密検査となったため、竜也が帰宅したのは午後9時を回っていた。


一時的に体調は回復したものの、診察した医師があまり良い顔をしていなかったのが気にかかる。

そして竜也は、同じ経験を以前もしている事を、思い返していた。


(なんか――ずっと考え事してたら、すっげぇ疲れたな。

 今日はもう寝よう……明日は、また瀬莉香の所に行かなきゃな)


二十五年ぶりに迎える、アパートでの夜。

しかし、そんなにブランクが空いていることなど、竜也はいつの間にか忘れてしまっていた。


疲れているのか、その日は、夢を見ることもなく、深い眠りへと落ちていった……




翌日、起床後早々に身支度を整えた竜也は、誠吾達と待ち合わせをして、病院に向かった。

瀬莉香はかなり調子を取り戻しているようで、明るく接してくる。

更なる検査が必要ではあるものの、明日にも退院出来そうだということで、竜也達三人は、ほっと胸を撫で下ろした。


「心配かけてごめんね、みんな」


「気にするな、瀬莉香」


「ああ、そうだよ。ゆっくり休んで、元気取り戻せ」


「うん、ありがとう。

 ――あのね、私、昨日とっても変な夢を見たの」


「どんな夢なんですか?」


 べっドから軽く身を起こす瀬莉香に、ロゼが尋ねる。


「うん、私の枕元にね、真っ赤な姿の人が出て来て、何かお話をするの。

 私、凄く怖くて……

 でもその人が、私を助けてくれたの」


「なんだそれ? 幽霊か何かか?」


「やだもう、竜くん、怖がらせないで~」


「助けてくれたって、何をです?」


「うん、その赤い人がね、おまじないをかけてくれたの。

 そうしたら、苦しいのがすぅっと楽になってね」


「へぇ、そりゃあいいじゃねぇか。いい幽霊さんだな」


「だから、もぉ~!」


「まあとにかく、元気になったなら良かったじゃないか」


他愛ない会話に、病室の雰囲気が明るくなる。

竜也と誠吾は、顔を見合わせ、無言で頷き合った。


竜也と瀬莉香、誠吾には、身寄りがない。

そのため、この三人は、昔から家族のような感覚で接してきた。

だから、瀬莉香の親族が地元から様子を見に来てくれる事もない。

同時に、彼女に何かあれば、二人でフォローしなくてはならないのだ。

今はロゼも協力してくれるので助かっているが、入院となったのはさすがにこれが初めてだった。


見舞いの帰り、待合室で缶ジュースを買った竜也に、何故か牛乳とあんパンを持ったロゼが話しかけて来た。


「竜也さん、今夜は私が、瀬莉香さんの傍に居ますから」


「大丈夫なのか? 親御さんは」


「はい。お友達が大変なら、是非力を貸してあげなさいと言われてます」


「いい親御さんだな~」


「特に問題はないと思いますが、何かあれば連絡しますので、スマホ、音消したりしないでくださいね?」


「ああ、それなんだけど」


竜也は、パスコードを忘れてスマホを起動出来ないことを、ロゼに伝えた。


「竜也さんって、肝心なところでポンコツですね」


「ひ、ひでぇ!」


「本当に出来ないんですか? 画面が汚れ過ぎてて反応悪いだけでは?」


「ロゼって、こんなにキツイ突っ込みする奴だったかなあ……トホホ」


「あと、竜也さんの指紋が何かの理由で磨耗したとか」


「あるかーい」


竜也は、スマホを取り出し、電源を入れた。

その後、画面に表示されるパターンを指でなぞるのだが――


「ん? あれ?」


自分の意志とは関係なく、指が特定のパターンを、すすっとなぞる。

ホーム画面が、普通に表示された。


「ちゃんと覚えてるじゃないですか」


「あるぇ? おかしいな。昨日は思い出せなくて難儀してたのに」


「ソシャゲばっかりやってる竜也さんが、起動パス忘れるわけないですよ」


「お、おう、そうだったっけな!」


「昨日、ちゃんとログインしました? ログインボーナス貰い損ねたんじゃ」


「あああああー! そうだったあ!!」


慌てる竜也の姿に、ロゼはクスクスと微笑む。

まだ出会ってから二年程度の付き合いで、生まれ故郷も違うのに、まるでずっと昔から仲間だったかのような親しみを覚える存在。

竜也は、かつてはこんなほのぼのとした関係だったよな……と思い返し、少し心を和ませた。


――かつて?


「あれ?」


「どうしたんですか、竜也さん?」


「いや、俺……あれれ、おかしいな。

 なんか、大事なことを忘れちまったような」


「若年性ボケなんとかですか? しっかりしてくださいよ」


「いや、そんなんじゃねぇって。でも、なんか……あれ?」


竜也は、ふと、困惑した。

昨日まで考えていた重要な物事が、今朝になってからすっぽりと頭から抜け落ちてしまったのだ。


(なんだっけな、昨日までは、なんかやたらと焦ってたような気がしたけど。

 ――まあ、すぐに思い出せないんなら、そんなに重要な事じゃないんだろうな)

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