口紅を借りる

口紅を借りる

 死化粧はプロに頼むように、というのが祖母の遺言だった。

「メイクアップアーティストっていうの? ああいう人を呼んでほしいみたいなのよ」

 と伯母は疲れた顔で言って、私にその便箋を手渡した。うす緑の紙に万年筆の青いインクはとても上品だが、書いてあるのは葬儀にまつわる細かい細かい注文だ。遺影はこの写真にしろ、誰それは絶対に呼ぶな、葬儀会社はここにしろ、精進落としには金を惜しむな、そして死に化粧はプロに頼め。ご丁寧に、ファンデーションはこれ、アイシャドウはこれと、化粧品の銘柄と色番号まで書いてある。

「おしゃれな人だったからねえ」

 とコメントに困った私がつぶやくと、伯母は迷惑そうに首を振って「見栄っ張りなのよ」と答えた。

 祖母がおしゃれなのも見栄っ張りなのも、どちらも本当だし、みんな知っていた。いつも明るい色の服を着て、すっぴんは娘にすら見せず、隙あらばアクセサリーの自慢をした。入院中すらメイク道具を持ち込んで、医者や看護師にどれほど怒られても、口紅を落とすことすらなかったらしい。私が最後に見舞ったときには――夏休みの終わり頃だったから、もう一ヶ月前になる――もう一人で起き上がるのも難しいのに、病院着の首元にエルメスのスカーフを巻いていた。

 便箋を持ったまま隣の部屋に行って、祖母の枕元に正座する。そっと顔の布をどけると、白い顔が現れた。かさついてしわの目立つ肌、色のない唇。すっぴんの祖母は別人のようで、悲しみが行き場なく胸の中をぐるりと回った。

「でも、なるべく希望通りにしてあげるんでしょう」

 祖母の顔を見たまま背後の伯母に言うと、伯母はため息をついてから、「そのつもりです」と憮然と答えた。



「見つかった?」

「ありました。全部」

 疲れた声になった。伯母と母はもっと疲れているだろうに、お疲れさま、とねぎらってくれる。魔窟、と私が密かに呼んでいた祖母の鏡台から、ご指名の化粧品をどうにか探し出してきたところだった。本人のおしゃれさに対して鏡台の汚さは半端ではなく、化粧品やコットンの箱が積み上げられて鏡は半分見えない。立て付けの悪い引き出しを無理やり引っ張り出したら、ふたのあいていたフェイスパウダーがこぼれて大変なことになった。シャネルの香水と試供品の山が同じ引き出しに詰め込まれ、未使用の口紅はあわせて五本出てきた。一本もらえないかな。

「で、見つかったの。メイクアップアーティストは」

「そんなんいるわけないでしょ」

 と言う伯母の二の腕を、母がなだめるようにたたく。伯母は私の父の姉で、母とは血がつながっていないはずなのに、二人はなんとなく気が合っていて本当の姉妹のようだ。伯母は喪服の袖のボタンを触りながら、「葬儀会社の人に聞いたら、元美容師の人がいるって言うから、来てもらうことにしました。まあ、納得してもらいましょう」と言った。母は伯母の二の腕に触れたまま、「渋谷の美容院にいたこともあるらしいよ」と付け足した。私は渋谷の美容院から地方の葬儀会社に転職する人生について少し考えを巡らせたが、考えがまとまるより早く、「ごめんください」と玄関先から声が聞こえた。

 元美容師というその人は、祖母の遺言を斜めに読んで、なるほど、と声を上げた。伯母が「見栄っ張りな人で……」と心底恥ずかしそうに言うと、「いいえ、すてきだと思います」とふくよかな頬を持ち上げた。四十代くらいだろうか。そういえば、私の行くような美容院にはせいぜい三十代くらいまでの人しかいない。ある程度の年齢を過ぎたら、彼女たちはいったいどこに行くのだろう。

「ご家族やお友達に会える最後のチャンスですもの、きれいにしたいと思うのは当然ですわ」とおっとりした声でその人は続ける。

「そうかしら」

「そういうものかしらねえ」

 と伯母と母は顔を見合わせた。「そうですとも」とその人が自信ありげに言うと、雑談はそこまでになって、通夜や葬儀の細かな打ち合わせが始まった。

 私はそっと部屋を抜け出して、冷蔵庫からお茶のペットボトルをくすねて二階にあがった。祖母の孫は私ひとりなので、大人たちの話が始まってしまえば私に居場所はない。いとこというのも微妙な距離感だろうなと想像するので、べつだんさみしく思ったことはなかったが、こういうときに少しだけ疎外感を感じる。

 ペットボトルに口をつけたまま、自分のメイクポーチの中身のことを考えた。どれもプチプラだけれど、友達が誕生日プレゼントにくれたジルスチュアートのリップだけがきらきらに光っている。アイシャドウをやたらたくさん持っているのは、自分に合う色がなかなか見つからなかったからだ。絶対似合わないと分かった色でも、捨てづらくてなんとなく取ってある。祖母の鏡台の中にも、ひょっとしたら二十代のころから置いてあるものがあったかもしれない。私もあの似合わないアイシャドウを捨てられずに死ぬことになるかもしれない。母や伯母も。

 夕方になって降りていくと、祖母の化粧はすっかり完成していた。生き生き、とまではいかないが、いつもの祖母の姿だ。青みがかった深い赤の口紅。なめらかに引かれたアイラインの奥で、眼球が固まっているのが分かった。死ぬというのは固まることなのだな、と私は思う。顔色よくチークが施されているのに、皮膚を一枚隔てた体が、固くこわばっているのが分かる。ようやく腹の底から悲しみが湧き上がってくるのを感じて、私はそっと息を吐いた。祖母の顔にかからないように、ごく静かに。

「きれいにしてもらって良かったね」

「渋谷の美容師だからね」

「お母さんのその渋谷に対する信頼はなんなの」

 葬儀会社の人たちはもうみんな帰って、父だけが電話をかけたり、なにやらメモしたりと忙しく立ち働いている。伯母も忙しそうに父と話していたが、「出前でも取りましょう」と母が声をかけて、リビングに引っ張ってきた。伯母はすこしぼうっとして、決められない様子で弁当屋のチラシをめくっている。

「疲れた?」

「そりゃ疲れるよ」

 と伯母は笑うが、その顔色が本当に悪い。私がそれを指摘すると、伯母は頬に手を当てて、「口紅をしてないからじゃない?」と言った。

「え、口紅してないだけでそんなになる?」

「あのねえ、年を取ると顔から色がなくなってくの。あんたも五十代になってみなさい」

 たしかに伯母はリップをしていない。口角が荒れて皮膚が破れている。ファンデーションやアイシャドウはしている様子なのにどうして、と聞くと、「こないだ失くしてから買ってない」との返事。この人は死後を心配するまでもなく、余分な化粧品なんて持っていないらしい。

「じゃあおばあちゃんのを借りれば? 使ってないやつもあったよ」

 となにげなく言うと、伯母は一瞬考えて、「……化けて出るんじゃない?」と言った。母と私と肩をふれあわせて、くっくっと笑う。

「いや、冗談じゃなく、怒ると思うよ。子供の頃、あこがれて口紅をいたずらして」

「怒られた?」

「……まあね」

 でももう怒る祖母はいない。母は「じゃあ、私のを貸してあげる」と明るく言った。身内とはいえ他人の口紅はどうかな、と思うが、母はそういうのを気にしないタイプなのだった。伯母は断る言葉がすぐに見つけられずに、「……いや、じゃあ、お母さんのを借りようかな……」と言った。母は「そう?」とやはり気にしない様子で出前のチラシをめくり、天丼にする、と言う。

 伯母は鏡台のところに行って、これが未使用、と私が指したものを手に取った。いくつか蓋をあけて、「派手な色ばっかり」とつぶやく。青っぽいピンク、濃い赤、鮮やかな赤、暗いオレンジ、明るいピーチオレンジ。どれも祖母の好みの色だ。伯母はしばらく見ていたが、首を振って「似合わないし、いいわ」と言ってみんな置いてしまった。

「そう? 似合うと思うけど」

 と私は濃い赤のものをくりだして、伯母の口元に寄せた。伯母の白っぽい顔色に、とてもよく合う。伯母はまばたきして、「……そう?」と言った。そうだよ、と私はうなずいた。

「いつももっと落ち着いた色しか使わないし……」

「でも似合うよ。伯母さんブルベだし」

「ぶるべ」

「色つけるものは本人の好みより顔色と合うかどうかだよ。って。メイクのうまい友達が」

「でもこんな色合わないよ」

「だからブルベだしいけるって」

「ブルベってなに……」

 伯母はそれを受け取ってしばらく見ていたが、やがて「お母さん、借りるねー……」と祖母の横たわる部屋のほうに呼びかけてから、自分の唇にあてた。私はふと、これは、遺品、というものだな、と気がついた。父と伯母はやがてこうしたこまごまとしたものを、もらったり、捨てたり、そういうことに頭を悩ませることになるのだろう。祖母がお墓に入ったその後、今の疲れが抜けたその後に。

 伯母が私のほうをみて、ほほえむように口角をあげた。顔色がぐっとよく見える。こんな色初めてで緊張する、と言って、本当に少し手が震えている。私はその顔をまじまじと見て、「なんか……」と言いかけたが、口をつぐんだ。

「なに?」

「……なんか、お母さんに似てる」

「ええ?」

 お母さんお母さん、と呼んで、母と伯母を鏡の前に並ばせる。気がつかなかったが、こうして並べると明らかに似た系統の顔立ちであることが分かる。不思議な気もするが、父が姉に似た人を選んだだけかもしれない。伯母は、たしかに、というようにうなずいて、唇の端を落ち着かなげに触った。母はあらあらと伯母の顔をのぞき込んで、

「こうして見るとおばあちゃんそっくりね」

 と言った。

 私は伯母の顔と、母の顔と、思い浮かべた祖母の顔とを見比べて、「あ、あ、ああー」と呟いた。似ている。たしかに。伯母はいつも薄化粧で、祖母はいつも厚化粧なので、全然気がつかなかった。鼻の下から唇のかたち、あごにかけてなんてそっくりだ。ということは、父は姉に似た女性を、ひいては母親に似た女性を選んだのだろう。それは、なんか、ちょっと嫌だな……と思わなくもない。

 伯母はかなり嫌そうな顔で、「やっぱり落とそうかな」と言っている。私は首をふって、「きれいだよ、その方がいいよ」と言った。鏡から目をそらす伯母の顔をのぞき込んで、「ほんとうにきれいだよ」と、もう一度言った。

 伯母はきれいな形の唇をすこしゆがませて、ありがとう、と囁いた。

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口紅を借りる @69rikka

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