「かーらーすーだっ。」

「、」

 廊下でぼんやりと立ち尽くしていると、兄弟の一人が駆け足で近付いてきた。雅よりも年上で、この世界に足を踏み入れたのも早かったのに、現在の地位は雅よりも下であることを、快く思っていない奴だ。

「もう謹慎明けなわけ?あんだけのことしておいて、ちょーっと早くない?」

「頭の判断なんで。」

「ウチの組長は厳しいことで有名だと思っていたんだけど、雅にだけ異様に甘くない?」

「そうっすかね。」

「そーっすよ本部長サマ。もしかして、ウチの組長って、ソッチだったり?あー、お前顔だけは人一倍だもんな。男で髪が長い奴はオンナっぽい証拠だって聞いたことあるわ。そうかそうか、なぁ、組長ってどんな感じのセックスするんだよ。尻って気持ちいいわけ?」

「さぁ。」

 この程度の嫌みは、雅の脳を介することなく、右から左へ流れていく。

(成功したらこの上ない手柄になる情報や。チノメアのことは、頭以外に話さへんほうがエエやろ。)

 甘すぎる処分に早すぎる謹慎の解除。チノメアの情報収集という背景を知らない奴らには、不思議に思わない方がおかしい。周りから相当なブーイングを喰らうことは、承知の上で事務所に来た。佐助が組を持つことになって真っ先に引き抜かれたときも、本部長という地位を貰ったときも、嫌がらせは山のように受けた。男の嫉妬は醜い。けど、そこで折れるような奴は、この世界でやってなどいけないのだ。佐助だって、それを知ったうえで雅を特別に扱っているのだろう。

(恩返し。)

 ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。罵声と共に横から煙草を奪われて、奴はまだひとり喋り続けていたのか、と、雅は思わず笑いそうになった。

(恩返しやねん。)

 奪い返すのも面倒だから、新しい煙草を出す。今度は奪われないよう、奴と反対側を向いた。

「オマエ、調子乗ってんじゃねぇぞ!若いってだけで買われやがって!」

「ははは、まだ若い言うてもらえて嬉しいですわ。でも俺、もう朝勃たへんで、年ですわ。って、これ嫌みやわ。そんなつもりと、ちゃいますから、」

「黙れ!」

 男の拳が、雅の頬を殴った。衝撃で銜えていた煙草が落ちて、溜息を吐きながら火を踏み消す。

「勘弁してくださいよ、今ホンマ、煙草代馬鹿にならへんのやから。」

「黙れやゴラァ!ぶっ殺すぞ!」

「ぶっ殺すんにいちいち宣言する阿呆がどこにいるんやて!」

 雅は男の胸ポケットに入っていたボールペンを抜き取って、尖った先を自らの喉元に突き付けた。

「殺すときは迷わずやらんと。そんな遠吠えしとる間にこっちが殺されるんよ。この世界に長くいるんや、それくらい学んどらんとアカンちゃいますか。ぶっ殺したいんならどうぞ。このペン一本で簡単に俺は死にます。ホレ、早うどうぞ。でもわかっとりますよね。このペンが俺の喉を貫いたら、その瞬間死ぬんは俺よりも、アンタの今後や言うことくらい。そんくらい覚悟して言うたんやろう、なぁ!?」

 死ぬことは怖くなかった。そんなものに怯えていたら、それこそ生きていけないと感じるくらいに。

(そこを、気に入られたんや。)

 この世界に足を踏み入れる前まで、雅は死を、『怖くない』どころか、『早く来い』くらいに思っていた。それは生半可な甘えや逃避などではなく、本気で、隙があったら、自らの手で人生を終えようとしていた。

(でも、あの人が、)

 ボールペンも、ライターも、洗剤も、包丁も、ロープも、雅を苦しめるだけ苦しめて、楽にしてはくれなかった。いつも寸前で、彼女に阻止された。死なせてくれなかった。だから。

(だから俺は、彼女を、)

 ヒュッと、喉から音が鳴る。吸い込んだ空気が、どこかで抜けて肺に届かない。体に酸素が、行き渡らない。あぁ、もう、何年たってもこれだ。あの日、あのとき、彼女のことを思い出すと、雅の体は、正常に動けなくなる。

「っ、」

 握っていたペンが、落ちた。乾いた音が廊下に響いて、それがやけに耳に残る。穴という穴からなにかが零れてきそうで、あぁ、もう、無理だ。

「っあ!?」

 気持ち悪さに飛びそうになった意識を、強烈な痛みが呼び戻した。靄がかっていた視界がじんわりと晴れて、手の甲に刺さったボールペンを写す。

「ひでぇ面晒してんじゃねぇよ阿呆が。」

「かしら……。」

「オマエ、顔だけは一人前らしいんだから、なぁ。」

「え、あ、いや、そのっ、」

「ほら立てよ、お前は俺に、ねちっこーい変態臭いセックスをされてヒンヒン鳴いて、その尻で組長まで上り詰めなきゃならねぇんだから。こんなとこで飛んでる暇はねぇぞ。深く突っ込んでぐちょぐちょに濡らしてやるよ。」

「っ!」

 ボールペンが引き抜かれて、真っ赤な血が溢れだした。ぼたぼたと、手の甲から床に垂れるそれを見て、雅はようやく、肺に空気が入っていくのを感じた。

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