「俺な、今まで休みやったんけど、仕事再開することになってん。」

「……。」

「何時に帰って来るとか、決まっとらんから、とりあえず今日はご飯用意せんでエエわ。俺の帰りも待たんでエエ。んー。携帯ないと不便やな。うん。」

「……。」

「別になにしてても構わんけど、金使うなら領収書忘れんといてな。あー、寝室だけは入らんで。他は別に、自由に使ってエエから。」

「……。」

「……鷹サン聞いてます?」

 ネクタイを絞めながら、雅が鷹の顔を覗き込む。

「……きいてないかもしれない。」

「はは、なんやそれ。」

 久しぶりに袖を通されたスーツは、鷹が何度もアイロンをかけて、まるで新品のようにしたものだ。多少着崩してはいるものの、真黒なスーツは長身細身の雅によく似合って、普段がダラダラファッションなのも手伝い、別人かと思う程見違えた。いつもは「邪魔だから」という理由だけで縛っていたから、アホ毛だらけだった髪も、今日はきちんと整えられている。ヘラヘラ笑う顔だけが「これはいつものキモロン毛」と認識できるものだった。

「なんか。」

「ん?」

「おとな、みたいだ。」

「ははは、みたいやなくて、大人やって。」

「おっさん。」

「おにーさん。」

 ぴんっと鼻に当てられたデコピン。うん、いつものキモロン毛、と赤くなった鼻を擦って、鷹はひとり頷く。

「お留守番、できる?」

「バカにするな。」

「うん、よしよし、大丈夫そやな。じゃ、行ってくるかな。」

 ヘラっと笑いながら、ポケットから出した眼鏡をかける。だらしなく上がっていた口角が途端に下がって、それはもう、まるで別人のようになった。

「遅くなったら、先に寝てるんやで。」 

 そう言って、雅は部屋を出ていった。その姿を見送って、鷹は、ぷはぁ、と息を吐く。

(これは、ひどい、不整脈だ!)

 我慢していたぶん、一気に顔が熱くなる。タコなら食べごろだ。人間でよかった。

(キモロン毛ウィルス、が!)

 ネクタイを絞めながら現れた姿。顔を覗き込んだ姿。笑っていた姿。デコピン(鼻だったけど)をした姿。ちょっと心配そうに笑った姿。そして、眼鏡をかけた、真顔の姿。つい先ほどまでの雅が、ぐるんぐるんと凄い速さで鷹の頭を駆け巡る。そのたびに心臓が、きゃあきゃあとジタバタして、思わずその場に膝をついた。

(キモロン毛ウィルスに、殺される!)

 主様が「意外と健康だ」とよく褒めてくれたのに、今まで崩さなかったぶんが一気に来たのか、鷹は十三年目の人生に初めて終わりを感じた。キモロン毛ウィルスは、脳にまで侵食している。雅はいないのに、雅の顔が離れない。

「僕は、」

 思わず、ひとりなのに声が出た。

「僕は、忘れ、ない!」

 ウィルスなんかに屈しない。そうだ。こんなものに、負けてはいけない。

「ずっと、ずっとこの時のために、頑張ってきた、んだ。」

 こんなものに負けては、ここに来た意味がなくなってしまう。目的を果たさなくては。そのために、七年間、頑張ってきたのだから。

(ななねん。)

 鷹は唇を噛み締めた。少し血が滲むくらい、強く。七年前のことを思い出すと、どうしても抑えが利かなくなるのだ。

(七年、前。)

 それは、鷹がまだ六歳のとき。

(アイツは、きっと、覚えていない。)

 六歳の脳に、しっかりと焼き付いた光景。そのなかに、最も色濃く残るのは、雅の姿。

(でも僕は、絶対に忘れない!)

 雅と鷹が、初めて出会ったのは、半月前よりも、もっと前。

(忘れるものか!)

 その出会いが、鷹をチノメアへと導いて、その出会いが、再び鷹を雅の元へと運んだ。

(あの日、あの時のこと。)

 叫び声。焼けた匂い。赤に染まった世界。もう二度と、戻ることのない、鷹の故郷。

(七年前、山火事で消えたことにされた、僕の生まれ故郷のこと。)

 あの日から鷹は、ずっと変わらぬ気持ちを抱いて、今日までを生きてきた。

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