Ⅲ いいじゃねえか。俺とお前との仲だ。
その朝、朴念仁が何やら気がかりな夢から目覚めると、見知らぬ部屋に寝転がっていることに気づいた。どこからかキーボードを叩く音が聞こえている。重たい目蓋を開くと、テーブルや椅子の脚が目に入った。どうやら床の上に寝転がっているらしい。
上半身を起こすと、キーボードの音は止んだ。目の前の椅子が回転する。その上には、ドラえもんのように太った男が坐っていた。
「おはよう、朴。」
念仁は急激に目が覚めた。何となく状況を理解したからだ。
「お――おはよごじゃいます。」
何と言っていいか分からず、そんな言葉が出た。
先日の記憶を探ろうとする。記憶は、水面に写った風景のように歪んでいた。一日の終わりに、自分は目の前の男と居酒屋へ
「ええっと――ここはー、とこなんだ?」
念仁は周囲を見回す。八畳ほどの洋間である。ドアや窓、クローゼットなどを除き、壁は全て本棚だ。そこに漫画やフィギュアなどが陳列されている。パソコンやテーブル以外に家具はほとんどない。
壁に掛けられた時計が目に入る。時刻は九時を廻ろうとしていた。
俺の部屋だよ――と誠は答えた。
「昨日、お前は酔い潰れたんだよ。それで、どこの宿に泊まっているのかも分からなかったし――かといって路上に放置しとくのも気が退けたし――仕方なしに、ここに連れて来たんだ。」
痒いものが頭の中へと湧き上がってきた。
「あっ、いや、その――申し訳ごじゃいません。こ迷惑お掛けしてしまいまして。」
「気にすんなよ。急に
「いや、気にするよ。酔い潰れて、他人の家に泊めてもらたなんて。」
「いいじゃねえか。俺とお前との仲だ。あのコスプレ画像のお礼みたいなもんだよ。」
そう言って、誠は椅子から立ち上がった。
「
「ああ――いただくよ。」
誠はキッチンへと向かって行った。
念仁の眼鏡はテーブルの上に置かれていた。それを顔にかけ、再び周囲を見回す。部屋には、誠以外の人間が住んでいる痕跡はない。
キッチンでは、誠がフラスコとアルコールランプを使い、珈琲を沸かし始めている。
念仁は本棚に近寄り、蔵書を眺めた。漫画ばかりではなく、時計や家庭菜園の本もある。その中に紛れ、漫画版の『まほつゆ』があった。手に取って、開いてみる。小鳥遊つゆりが『
『魔法アイドル@つゆりライブ』のあらすじは以下の通りである。
主人公・小鳥遊つゆりは中学二年生である。四人の友人とともにスクールアイドルとして活躍している。しかしある日のこと、ふとしたきっかけから魔法少女となり、『
しかし――。
物語は途中からシリアスな展開を迎えることとなる。
その上、『暗黒物質』の目的が、実は人類の救済であったということが発覚する。
人類は争いと差別をやめられない。このまま人類が増え続ければ、大規模な環境破壊が引き起こされ、エネルギーも枯渇し、やがて人類は自滅することとなる。
それゆえ『暗黒物質』は、一億人程度の「選ばれた人間」を『方舟』へと隔離し、残りは生物兵器で全滅させるつもりであったのだ。――
「珈琲、湧いたぞ。」
香ばしい匂いと共に、キッチンから誠がやって来た。お盆にはカップが二つ載せられている。念仁は礼を述べ、カップを受け取る。一口すすると、強い苦みが目にまで沁み渡ってきた。
誠はシガレットケィスから煙草を取り出し、口に咥えた。
念仁もまた、煙草を吸おうとしてポケットに手を突っ込んだ。しかしどこにも見当たらない。昨日の夜に全て吸ってしまったことを思い出した。それを見かねて、誠はシガレットケィスを差し出す。
「ああ――すまねーな。」
シガレットケィスから煙草を摘まみ上げる。だが、その煙草にはフィルターがついていなかった。両端とも草が剥き出しである。
「何だこれ? 新手の
「両切りも知らねえのかよ。――それは吸い口の紙を少し潰して、唇に当てるようにして吸うんだ。唾がついたら、葉っぱが口ん中入ってくるからな。」
念仁の目の前で、誠は吸い方を実演してみせた。見よう見まねで念仁も吸ってみる。ふうと煙を吐き出すと、紅茶に似た香りが漂った。窓から射し込む光線の境界が明瞭となる。
「昨日は帰らなかったわけだが、宿は大丈夫なのか?」
「ああ、多分。俺が泊まってるのは、従業員がいねータイプなんだよ。まあ、安い宿だからな。放っておいても大丈夫だろーとは思う。」
「そうか。」
「ってか、妙に小奇麗な部屋だな。」周りを見回しつつ、念仁は言う。「もっと汚い部屋かとー思ってた。漫画の量も多いしー、俺ーここから出なくても一生暮らせるじぇ。」
「失礼なこと言うなよ。住み着こうとか考えてんなら、叩き出すぞ。」
「いや、さすがに住み着きはしねぇよ。ただ、羨ましいなって思って。俺にとってはいちゅまでも愉しく過ごせられそーな部屋だじぇ。」
「まあ、そう言ってもらえたら嬉しいわ。」
ふうと誠は紫煙を吐いた。
「ところで、お前はいつまで日本に滞在してるんだ?」
念仁は少し頭を捻らせる。
「実を言うとー、特に決めてなかったんだがな。ちゅゆりちゃんに会う言ってもー、実際に会えるわけじゃないし。そうでなきゃ、寿司女をナンパするのに成功するまでかなー。それか、資金が尽きるまでか。とうあれ、一週間以上はいねーと思うけどー。」
誠は不愉快そうに煙を吐いた。
「お前、普段は何やってんの? 朝鮮にもゴールデンウィークなんてあるのか?」
「学生だよ。韓国じゃー、端午の節句は国民の祝日だよ。」
「それでも三日しか休みがねえってことだろうが。お前、さてはサボり学生だな? 一体、今いくつなんだよ? 学生にしては少し歳喰ってるように見えるが?」
「日本の年齢で二十三だよ。」
「年齢なんて日本も朝鮮も同じだろ。」
「いや、韓国は数え年だから。」
「ああ。んで――何年生なんだ?」
「三学年だ。」
「やっぱりサボり学生じゃねーか! 留年ばっかしてると卒業できねえぞ!」
「
誠は申し訳なさそうな顔となり、顔を背けた。
「そうか――すまなかったな。」
「そういうお前はー何してんだ?」
見たところ、誠は念仁よりも二、三歳ほど年上である。
「俺は都内のプログラミング企業に勤めてる。今はゴールデンウィークで休みだ。」
まあともかくもだ――と誠は言う。
「寿司女のナンパはもう諦めろ。お前も昨日の結果で懲りただろ? 結局のところ、誰からも見向きもされてなかったじゃねえか。」
それを言われると念仁も弱った。先日、何人もの寿司女から無視されたときの痛みが蘇った。あの冷たい視線を再び向けられるかもしれないと考えると、消極的にならざるを得ない。
「つゆりちゃんに会いに来たとは言ったが、昨日はどこ行ったんだ?」
誠の問いに、まだ秋葉原しか行っていないと念仁は答える。
「それじゃあお前、聖地巡礼とかはまだなんだな?」
「ああ。行こうとは思ってるんだがな。」
そうかと言い、誠は顔を背けた。
「まあ、ちゃんと朝鮮に帰ってくれるんだったら歓迎するぜ。俺も時間あるし、『まほつゆ』のこととかも詳しいし、今日くらいなら案内してやらないこともないけどな。」
念仁は口元が緩むのを感じた。
やはり、どこまでも素直ではないやつだ。
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