第二章 波涛と月
Ⅰ この口調のことあるか?
大学でも新学期が始まっていた。
熾子の二つの懸念事――髪や目の色と日韓関係の悪化については、どうやら杞憂であったらしいことが判明した。日本に到着して以来、熾子は外国人留学生であるという以上の扱いは受けなかった。もちろん、それは留学してまだ日が浅いためでもあろう。留学してからというもの、熾子は必要以上に大人しく過ごしていた。
午前中の授業が終わり、熾子は学生食堂へと向かった。
カツカレーを注文し、窓辺のテーブルへと着く。
啓史大学は都内に建つ複数のビルキャンパスによって成り立っている。学食はその高い位置にある。広い窓からは都内を一望できた。蒼い空の下、手前に建つビルが随所で視界を阻んでいる。
ふと、テーブルの上に何者かの影が映った。
「ここ、坐ってもいいあるか?」
そこにはプレートを抱えた少女が立っていた。
いや、決して少女と呼べる年齢ではないことは知っている。しかし、髪こそ
熾子は思わず、その量と彼女の姿とを見比べる。
少し逡巡してから、どうぞと答えた。
春江は中国人留学生である。寮では熾子の隣の部屋に住んでいる。
最初に顔を会わせたのは、入寮したその翌日のことだ。部屋の前で声をかけられた。
「隣に新しく引っ越して来た人あるか?」
耳を疑ったことは言うまでもない。
戸惑いつつも、そうですと熾子は答えた。
「李春江ある。中国から来たある。仲良くするあるよろし。」
その日本語には、琴を奏でるような抑揚がついていた。
熾子は感心した。アニメをたくさん作る国では、中国人までもがアニメみたいになるのかと思った。しかし当然そんな理屈はない。ただの気の迷いである。
隣の部屋に住んでいるという以上に接点はなく、その奇妙なしゃべり方については今まで訊ねることができなかった。春江が同じクラスに属し、同じ授業を取っていたと知ったのは先日のことである。授業中、春江は日本人同然の自然な日本語を操っていた。
「いやぁ、まさかあんたと同じクラスとは思わないかったあるな。」
春江は割り箸を割り、勢いよくラーメンをすすりだす。
「はあ――。私も意外に思えましたよ――まさか同じクラスだなんて。意外っていうか、びっくりしましたけど。奇遇ですね。」
春江は右手の人差し指を立て、左右に振る。
「敬語よくないあるよ。あんたと私、同学年で同じ寮に住んでいるの朋友ある。敬語なんてペケね。実際、私も遣っていないある。」
「はあ――」
軽く苛立ちが起こる。なんと馴れ馴れしいやつであろうか。この話し方さえなければ、背中に羽根をつけても違和感のない少女なのだが。
「じゃあ、私もため口で話すよ。――ところで、一つ訊いていい?」
「この口調のことあるか?」
熾子は一瞬、固まった。自覚していたということか。
カレーにスプーンを突き刺す。自然と呆れかえった言葉が出た。
「分かってるじゃないの。一体、何なの? その、あるある言うのは。」
「萌えポイントある。」
再び耳を疑った。掬い上げたカレーが器の中にぼたりと落ちた。
「も、萌えというと、可愛いとか好きだとかという意味のあの萌え?」
「他に何の萌えあるか? 語尾にある言うの可愛くない思うあるか?」
熾子は眉間に手を遣り、しばし考える。
「よく分からないんだけど――それって可愛いの?」
「可愛らしさは不完全の中に際立つある。」
春江はにっと笑う。
「映画でも同じある。登場人物の『悲しい』いう気持ちを表現するには、あえて明るい音楽かけたり、周囲の笑い声とかを際立たせたりするあるよ。正反対の表現あることで、本当に表現したいこと目立たせるある。私は見てのとおり顔が綺麗あるし、頭もいいある。けれどそれ可愛くないだから、あえて損なうある。」
「なるほど。」
そう論理的に説明されれば、不思議と可愛くも思えてくる。
春江はラーメンの器を両手で抱え、ごくごくとスープを飲み始めた。器がテーブルに置かれたとき中は既に空となっていた。それから今度はオムライスを頬張り始める。
「まあ、これが全体の、四分の一くらいの理由ある。」
まだ理由があったというのか。しかし熾子は興味が湧いていた。
「あとの、四分の三の理由は?」
「
あるある言う中国人に、そのようなことを言われたくないものだ。
「
「まあ、その両方あるな。あえてそういうしゃべり方することで、日本人の反応見るのも面白いあるよ。例えば、チャイナドレス着てみたり、
あのときほど面白いことなかったあるよと言い春江はげらげらと笑い始めた。しばらくは笑いが止まらなかった。熾子は呆れ果てる。
――よくそんなことをやる気になったなあ。
「まあ、それがさらに四分の一の理由あるな。」
熾子は口に運びかけたスプーンを止めた。
「一体、いくつ理由があるのよ。――あとの半分の理由は?」
「ところで、あんた何で留学して来たあるか?」
まさかこちらが質問をされることとなるとは思ってもいなかった。しばし考え込んだあと、当たり障りのない答えが出た。
「まあ、日本の漫画とか音楽とか好きだしね。日本語は高校のころから学んでたんだけど、学んだなら実際に使ったほうがいいでしょ? ――というよりか、それとこれと何の関係があるのよ? そういうあんたは何で留学したの?」
「じゃあ、質問を変えるある。日本と中国、どっちが先進国あるか?」
熾子は言葉に詰まった。簡単に答えられるような内容ではない。目の前の彼女には気配りなど不要なのであろう。しかし、それでも正直に答えるのは気後れする。
「経済規模の点では、中国のほうが確かに上であると思うけど。」
「客観的事実あるな。よろしいよろしい。『では』ということは、他の点では日本のほうが優れているいうことあるな? これ、事実ある。けれど、」
みんなじきに中国が凌駕するあるよ――と春江は言う。
「国土も人口も、日本は中国に到底及ばないある。そもそも、この島国が百年以上もアジアの主人づらしてたこと間違ってるね。日本人が誇らしげにしているのアニメはもちろん、ほかの産業だって、もはや中国の下請けなければ作られるないある。」
「はあ――」
「特に最近の日本映画――あれ何あるか? みんなクソばかりある。荒唐無稽な漫画の実写化か、お涙頂戴ばっかりで、つまらないある。アクションもCGも特撮も、みんな
素直には喜べなかった。熾子だって、日本映画は割かし愉しんでいるほうだ。しかし、確かに最近の日本映画は観るものがあまりない。
「ただ――」
「半世紀ほど前までの日本映画はクソじゃなかった。」
どういうわけか、「ある」が消えていた。あの妙な抑揚もない。琴ではなく、
「あんた、黒澤映画観たことあるか? 例えば、『七人の侍』とか、『蜘蛛巣城』とか、あるいは『隠し砦の三悪人』とか。――」
「――いや。」
熾子は首を横に振る。しかし春江が挙げた作品は、名前だけは聞いたことがあった。黒澤映画とは、あの黒澤明が監督した作品のことか。日本映画は、最近作られたものしか鑑賞しない。
「全部――傑作だったよ。」
憂鬱そうな表情で春江は言う。
「明暗を巧みに利用した水墨画のような映像、緊迫感のある俳優の演技、視聴者を飽きさせない演出・脚本――全てが完璧としか言いようがなかった。これらは、今の日本映画からは失われてしまったものだ。カラーなんかより、モノクロで撮影していた時代のほうが、日本映画は観るべきものが多い。特に、黒澤明となれば別格だ。それなのに、今の日本映画がクソばかりなのはなぜなのか。――」
「それは少し言い過ぎてるじゃない? 今の日本映画にもいいものはあるが。」
「まあ――いいものもあることは認めるよ。けれども、クソがほとんどを占めることには変わりない。観るのなら、日本映画以外か、モノクロ時代の日本映画を観たほうがいい。まあ、アニメは除くけどね。アニメだと、なぜかあのクソさが消えるから。」
カレーを食べている前で、クソという言葉をあまり濫発してほしくないものである。
「まあ――経済規模に関しては、確かに中国が凌駕したよ。けれども、色々なところで日本は中国の先を進んでるね。例えば――想像力はどうか? 中国もアニメは創るようになったし、最近はクォリティも日本のものと変わりない。ただし、日本の影響から抜け出して、どれだけ独創的なものを創れるかが問題だと思う。」
言うなり、春江は唐揚げを一つ口に放り込んだ。気づけば、唐揚げもサラダも熾子の目の前から消えていた。
「漫画やアニメが日本の独創性を表現していることは言うまでもないと思う。けれど――じゃあ何で最近の日本映画はつまらないものが多いのか? 日本の漫画やアニメも、いずれ今の日本映画のようになってしまうのか? 実を言うと、そうなる予兆みたいなものはあると思う。」
この言葉は特に気にかかった。周囲の喧騒が急激に静まったような気がした。
「――そうなの?」
「ああ、そうだよ。可愛い女の子がたくさん出てくるが、そいつらが全員、到底モテるとは思えない主人公のことを好きになる・面白くもない呆けを突っ込みで面白くさせようとしている・主人公の一人語りが落語みたいに続く・お色気とバイオレンスしかセールスポイントがない――そういう作品、最近多くないか?」
熾子は
「まあ、確かにそうかも。要するに、どこかで見たようなキャラクターと設定ばかりが出ていて、底が浅いっていうことだね。――ただ、『お約束』を踏むっていうことも大切なんじゃない? それが多いっていうことは、それを愉しんでいる人も多いということでしょ?」
「そこは認める。ただ、安易な人気取りは発想の
言いつつ、春江はショートケーキにフォークを突き刺す。
「じゃあ、そんな日本のアニメを模倣して創られた中国のアニメはどうなるのか? 今のところ、中国製アニメは優れた独自のものを創り出せていない。日本のアニメの絵柄で、ラブコメをやったり、挙げ句の果てには中二病キャラまででてきたりしている。――けれども、これからも日本は新しいものを作り続けることができるのか? それとも、どこかで衰退して終わってしまうのか?」
それを知るために私は来たんだよ――と春江は言った。
「もし中国が独創的なものを創ったとしても、いずれ衰退することだってある。仮に日本の漫画やアニメが衰退するのなら、その原因を突き止めて、予防策を張ることだってできるはずだ。」
なるほど――と言い、熾子はうなづいた。
「『まなぶ』の語源は『真似ぶ』ある。」
口調と語尾を戻し、春江は言う。
「じゃあ、日本が創り出した中国人のステレオタイプを真似をしつつ、そこに自分の個性を付加することができないか、それで日本人がどういう反応をするのか――観察してみるのも悪くはないことある。そうすることによって、日本人がどういうふうに創造を行っているのか考察するあるね。――これが、その全体のうち半分の理由ある。」
「ふぅむ。」
春江が言いたいことはよく解った。想像していた以上に深い理由があったのだ。それを吟味したうえで思う――やはり、「ある」をつける必要性はどこにもないと。
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