Ⅺ 本当に、ネットっていうものは厄介ね。
世界には全人類を養う富がある――そう言ったのはチャップリンであったか。猟人もまた同意見であった。貧困は争いと憎悪を生む。しかも、その争いと憎悪を金もうけにしている人間もいる。このような世界は必ず転覆させなければならないと考えていた。
猟人は革命を目指した。行動を起こすために組織を作った。
組織の名は
そして六十年が経った。
四月も中旬の某日のことである。東京都足立区にあるアジトに、日本労農紅軍中央委員会の幹部が集まっていた。
中央委員会とは、紅軍を指導する組織とされる。猟人の地位は紅軍中央委員長である。しかし紅軍は全体で三十四人しかいない。つまり、紅軍全員が中央委員会のメンバーなのである。となれば、この「中央委員長」という肩書は、「学級委員長」と似たような意味しかないのではないか――そんな気がしてならない。
八畳の居間には長方形のテーブルが置かれていた。両側には老人が四人ずつ坐り、上座には猟人が坐っている。隣の部屋からは、ああ婆さんや、婆さんはどこかの――と
「なぜ――こうも若者が集まらんのか。」
自分の苛立ちが滲み出たような声だった。幹部たちは、申し訳なさそうに顔を伏せたり、あるいは無関心そうに茶をすすったりしている。
現在、猟人は八十二歳である。紅軍の平均年齢も六十代後半に差しかかっている。今年の春に
紅軍はこれでもかつて、どの過激派よりも過激で前衛的な組織であった。機動隊と衝突したり、飛行機をハイジャックしたり、立て篭り事件を起こしたりした。ここにいる者で、人を殺したことがない者はいない。猟人自身も確認できるだけで五人は殺している。しかし、その記憶も過去の栄華として霞みつつあった。
活動を始めたころは、至る処に紅軍の
「やっばり、今の
そう言ったのは、猟人より五歳年下の
「昔は、日本労農紅軍っでっだら、
「まあ、あれだけ暴れ回ってたんだから、仕方ない部分もあるわよ。」
そう言ったのは、宣伝役員の佐代子であった。正確な年齢は知らないが、こちらも六十代の前半程度であろう。紅軍に入る前は教員であった。宣伝役員としての責務から、インターネットにもそれなりに詳しい。現在は「レイシズムに反対する市民の会」という偽装団体で頭に立って行動している。いかにも真面目らしい団体を作り、メンバーを増やそうという作戦だ。しかし、そのように
「本当に、ネットっていうものは厄介ね。自分の頭で考えることのできない馬鹿どもが、適当なこと書き散らしてるのよ。私も、このあいだの
お前が左翼でババアなのは事実じゃねえか――と猟人は暗に思った。
しかしそんなことを言ったら、自分だって立派な左翼ジジイなのだ。
「だげれども、そんな馬鹿どものお陰で、こないだの
このあいだの
犯行声明文を朝鮮語で書くことを提案したのは、確かに佐代子だった。何でもかんでも朝鮮人のせいにするネット世論を利用すれば、犯人は朝鮮人であると
「佐代子さん、何とかすて、その馬鹿どもを利用する方法とか、考えられねえが?」
佐代子は難しそうな顔をする。
「それができたら――苦労はないけれども。ネットには、社会的不満が大量に書かれている場所もあるから、そこを利用できないかとは思ってるのだけども。――」
がらりという音がして、ふすまが開いた。
隣の部屋から、おむつを履いた老人が歩み出してきた。その視線は定かではなく、手足はぷるぷると震えている。財務役員長の柳田であった。年は九十一であり、紅軍で最高齢である。現在、認知症が深刻な状態にある。
「ああ――婆さんや――婆さんは――どこかのう?」
「ああ――ちょっと、駄目じゃないですか、柳田同志!」
柳田を追いかけるようにして、髪の黒い男が現れた。今年の春にようやく勧誘することができた学生だ。名前は奥田という。まるで介護施設の職員のような人物であった。メンバーの世話はもちろん、柳田のおむつも
奥田は柳田を捕まえると、優し気に声をかけた。
「柳田同志、皆さんは今、大切な話をしておられるんです。隣の部屋で、大人しくしていなければ駄目ですよ。いい子ですから、ちゃんと言うこと聞いて下さいね。」
「ああ――婆さん――婆さんはどこじゃ?」
「お婆さんは、もうあの世です。柳田同志にも、そろそろお迎えが来ますから。――」
奥田は、隣の部屋へと柳田をそっと誘導し始めた。
その背中へと、佐代子は意地悪そうな声をかける。
「ねえ、奥田ぁ――ちょっと今、どうやったら若者が増えるかって話してたところなんだけど。あんたに、なんかいい案ない? あんた、学生でしょ? 学校の友達とか、何か
「無茶言わないで下さいよ。僕、これでも、もう五十代ですよ? 同学年の人たちとも、随分と歳が離れてしまっているんです。」
柳田の顔色が豹変したのは、そのときであった。それまで焦点の合っていなかった視線が、真っ直ぐに奥田の顔を捉えた。そして、驚愕した表情でがくがくと震え始める。
「お――お前は、
「いえ、僕は奥田です。杜さんは四十年前に総括して埋めたじゃないですか。」
柳田は、頭を激しく横に振った。
「ち――違う! お前は、どこからどう見ても杜同志じゃないか! 今まで散々暴れてきた報いとして、地獄から
ぎゃははははは、と、幹部の一人である老女が笑い始めた。
「マルクス主義者が地獄を信じるなど、もはや世も末じゃわいな。まあ、柳田同志がそう言ってしまう気持ちも、あたしには分かるわ。あたしもそろそろお迎えが近いから、この歳になって、ようやくあの世が信じられるようになりましたわい。」
そして、ずずーっと、番茶をすすった。
その動作がやたらと老人臭かったので、猟人は癪に障った。日本労農紅軍は、このようにほぼ老人しかいない。それゆえ、最近はカモフラージュとして老人会を偽っていた。それが、もはや本物の老人会のようにしか見えないとはどういうことか。
「畜生!」
猟人は拳をテーブルに打ちつけた。
革命戦士たちは、ぎょっとした視線を向ける。
猟人は怒りのまにまに立ち上がった。
「
そう叫ぶと、猟人は居間から出ていった。
あとには、呆然とした表情の老人たちが残されていた。
しばらくして、佐代子は嫌味な声を上げた。
「ふん――自分だって老人の癖に。あれ、老人特有の
「だげれども――」
東は不安そうな声を上げる。
「おら――中央委員長同志の言うごとも、分がるような気がするだ。おらだち、このまんま革命もなぁんにもでぎねえまんま、やがてお迎えが来ちゃうだが? それっで、本当に心残りも、なあんにもねえごとだか?」
この言葉には、さすがに佐代子も黙らざるを得なかった。
その場は、しんとした静寂に包まれた。
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