第33話 右腕

 朝が来たら学校に行かなきゃいけない。

 お母さんは、今日は休んだら?と言った。宵月も、姉ちゃん、今日は休んだ方が良いよ、と言った。あたしは大丈夫と言って、家を出た。周りのみんなはワイヤレス・イヤホンと電子コンタクトで電波を送りあっている。

 今日のあたしはそれに不快感を味わうほどの感覚がなかった。学校に向かう電車に乗り、緩やかに坂を上った。冬枯れした木がたくさんあった。学校に着くと、昇降口で後ろから声を掛けられた。

「おはよう。蓮」

 那智だった。あたしは安堵の表情を浮かべた。

「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」

 首を振った。あたしと那智は教室へ向かった。

 午前の授業は滞りなく進んだ。合間の休み時間も特に変わったことはなかった。嫌いな情報系の授業を受け、お昼休みはあっという間にやってきた。

「蓮、一緒にお昼食べよ」

「うん」

 あたしは屋上に行くのはさすがに怖かったので、教室で食べるように提案した。

「どうしたの?蓮」

 あたしはじっと固まってしまっていたようだ。

「あ、なんでもない」

「それにしても零君、休み長いね」

 那智は心配しているようだ。

「そうだね。早く来てほしいね」

「蓮も寂しいんでしょ?」

「うん。ちょっとね」

 何気ない会話が嬉しかった。那智は昨日のことを知らない。でもネットに姿を晒されたから、知ってるのかもしれない。でも那智は、触れてこなかった。昨日の打撲が痛むけど、その雑談はそれすらも忘れさせた。

 那智がトイレに行きたいと言った。あたしも一緒にトイレに付き合った。トイレに入った瞬間、後ろから誰かに突き飛ばされた。

「昨日だけだと思ってたの? めでたいヤツー」

 太った女生徒が言った。

「あなたたち、なんなの?」

 那智が問いかけた。

「おお、怖いねー。でも逃がさないよ」

 痩せた女生徒がきゃっきゃっと笑った。

「那智、逃げて」

「でも…」

「いいから逃げて」

 あたしは、那智だけでも逃がそうと必死に掴み掛かった。那智は三人の間を潜り抜け、トイレの外へ逃げていった。

「先生呼んでくるから」

 那智はそう言って、トイレから出ていった。

「あの女は別に興味ないからね」

 つり目の女生徒は廊下に清掃中の看板を出したらしい。その作業を終えて、トイレの中に戻ってきた。

「それじゃ、大人しく殴られときな」

 また昨日と同じだった。人目につかない場所で、ぱっと見じゃわからないような場所を殴り、蹴ってきた。あたしは必死に抵抗したけど、三人対一人の差じゃほとんど何もしてないのと変わらなかった。しばらくすると、意識が遠のいていった。

 起きると、那智と先生がいた。三人組は逃げた後のようだった。那智は泣きながら謝っていた。

「ごめんね。助けてあげられなくて」

「大丈夫だよ。泣かないで那智」

 先生は腹を立てているのか、興奮した様子で言っていた。

「全く、こんなことしたのはどこのクラスのやつだ」

 あたしはその後、先生に連れられて保健室に行った。骨に異常はなく、全身に打撲があるらしい。あたしは先生の車で家に送ってもらった。

 あたしはやっぱり弱いみたい。

 もう今すぐにでも涙が溢れそうだ。



「姉ちゃん。大丈夫?」

 家に着くと今日も宵月が心配そうにしていた。

「また画像でもアップされてた?」

 あたしは少し諦めたように言った。

「うん。今日はトイレで殴られた後の画像だった」

「そっか」

 呆れた口調で、溜め息を吐くように答えた。

「ねえ、あの零って人に言った方が良いんじゃない?」

 あたしは考え込んだ。きっと零に言った方が良いだろう。傷つくことになっても零に相談した方が良い。だけど、あたしはそれをしなかった。

「大丈夫。友達もいるし」

 あたしはそう言って部屋に戻った。今日も零からの電話はなかった。あたしから電話を掛けてみた。繋がらなかった。

 零……、今どうしてるの?



 学校に着くと、あたしは一人にならないようにした。常に那智と一緒にいるようにした。那智に話すかどうか悩んで、話した。

 以前から嫌がらせのメールが届いていたことも、屋上のことも。全てを話した。那智はあたしのそばから離れないようにしてくれた。

 午前の授業が終わり、お昼休みになった。

 那智がトイレに行こうと言ったけど、あたしは頑なに拒んだ。トイレにはもう行きたくなかった。那智は一人でトイレに行った。あたしは携帯を開いた。零からの着信が入っていた。あたしはすぐに電話を返した。だけど零は出なかった。

 すると携帯にメールが入った。

 ―今すぐ屋上に来い。来なかったらこの女がどうなるか。わかってる?―

 添付された画像を見た。後ろ手に縛られた那智の姿が映っていた。あたしは急いで屋上へ向かった。あたしは、零にメールを送った。お願い。助けて。



「那智。大丈夫?」

 那智の返事はなかった。何かで眠らされているのだろうか。あたしは三人の女生徒を睨み付けた。冬の屋上は静けさと冷たさに満ちていた。状況に反した凪いだ風が、屋上に流れていた。

「那智は関係ないでしょ」

「この女、あんたの友達でしょ? じゃあ、関係あるじゃない」

 太った女生徒はニヤニヤと笑って言った。

「今日もあたしを殴りたいってこと?」

 痩せた女生徒は指を立てて横に振った。

「それだとちょっと違うわね。あんたを殴りたいんじゃなくて、あんたが零君から離れてくれればそれでいいのよ。わかる?」

 あたしは反論した。

「そんなことのためにこんなことをしてるの?」

「そんなことって何よ。ちょっと零君に構ってもらってるだけのくせに」

 あたしは少しの間考えた。あたしが身代わりになれば那智は助けられる。

「わかった。殴られる。だから、那智には手を出さないで」

 つり目の女生徒が言った。

「もう一個の方の返事は?」

 太った女生徒が強めに言った。あたしは答えた。

「わか……」

 屋上のドアが開く音がした。振り返ると、零がそこには立っていた。

 零……。あたしは、足が崩れそうになってしまった。足元を支えていた支柱が一気に崩れていってしまった。今あたしを立たせているのは、気力だけだった。零がいる、ということと、三人組と相対していることがなくなってしまえば、あたしはあっさりと足を崩してしまうだろう。

「蓮。大丈夫?」

「うん。大……丈夫……」

「なんでここがわかったのよ?」

 太った女生徒がうろたえながら言った。

「ここに来る前に蓮からメール貰ったからね。それを見て大体の想像がついた」

 零は一歩前に出て言った。

「斉藤さん、高田さん、二ノ宮さん。どうしてこんなことしたのかな?」

 いつもの穏やかな声だった。だけど、奥底に怒りが混じっていた。周りに群がっている女子を一蹴する時と似ていたけど、明らかに違うのは怒りの度合いだった。明らかに今の方が怒りに満ちている。

 女生徒達は口々に、どうする?と言っている。

「ああ、三人だけじゃなかったね。ねえ、倉持さん」

「え?」

 あたしは、その言葉に動揺していた。すると、那智は縄を解き立ち上がった。舌打ちが聞こえた。

「三人が首謀してやったんじゃないでしょ?」

 三人は頼るものもなく、バツが悪そうにただ頷いた。

「零君。いつから気付いてたの?」

 那智が口を開いた。その口調はあたしの知っている那智の声じゃなかった。まるで別人のようだった。

「蓮から話を聞いてる時には気付いてたよ。蓮に嫌がらせのメールを送ってたんだろ?」

「なんで、零がそんなこと知ってるの?」

 零はにっこりと笑った。

「そんなの、気付くに決まってるじゃない。蓮はわかり易いし」

「じゃあ、私の気持ちも?」

 那智が零に訊ねた。

「うん。知ってたよ」

 零はあっけらかんと答えた。それが何か? といった様子で、堂々とした態度を示していた。

 すると、那智は笑い始めた。可笑しいことは何もないのに、声を上げて笑っている。あたしはその姿がなんだか恐ろしかった。

「ねえ、じゃあ、なんで、その子なの?なんで、あたしじゃダメなの?」

 那智はすがるように、零に訊ねた。いつもの那智と違っている。雰囲気も使う言葉も、何もかもが那智ではなかった。

「それは僕が聞きたいな。なんで僕にそんなにこだわるのかな?」

「零君に相応しいのは私なのに。そんな普通の子……。意味がわからない」

 あたしは那智に近付こうとした。

「那智? あたし達友達でしょ?」

 那智は唾棄するように言った。

「友達? そんなわけないじゃない。零君に近寄るために利用しただけよ」

「那智?」

「馴れ馴れしく呼ばないでよ」

 零があたしの肩を掴んだ。

「もういいよ。蓮行こう」

 零に促されて屋上から出ていこうとした。振り返ると、那智はカッターを振りかざしていた。

「あんたなんか消えちゃえば良いのよ」

 あたしをめがけてカッターが振り下ろされてきた。反射的に目を閉じた。次に聞こえたのは、ドスッ。という嫌な音だった。怖々とゆっくり目を開いた。赤い液体が身体を流れているのがあわかった。

 零の右腕にカッターが刺さっていた。零の右腕から流れる赤い液体があたしの肩に流れてきていた。零はにっこりと笑いながらあたしに問いかけてきた。

「蓮。大丈夫?」

「零……?」

 那智は狂乱した様子で、笑っていた。

「あんたの愛しの零君を切ってやったわ。いい気味ね。あははははは」

 三人の女生徒はうろたえた様子でひそひそと話をしている。

「これって、やばいんじゃない?」

「あたし達は関係ないよね」

「だって、そもそもこれをしようって言い出したのは那智だし」

 女生徒達は責任を押し付け合っていた。三人の女生徒が屋上から逃げようとしている間に、先生が屋上のドアを開けてやってきた。零が呼んでいたようだ。あたしは零の右腕を優しくさすった。

「零……右腕……が……」

「大丈夫だよ」

 零は平然とした表情で屋上のドアを開けた。そのまま保健室に行き、零は車に乗って連れていかれた。

 この事件はもちろん、あっという間に学校中に広まった。あたしは職員室で待機させられた。

 その後、那智を含めた四人の生徒は、退学処分になった。

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