第21話 来訪

 あたしは部屋の中を掃除していた。窓も磨いたし、床も机もクローゼットの中も綺麗にした。あたしがこの部屋で暮らして以来、一番綺麗になったかもしれない。今日は珍しくお父さんとお母さんが帰ってきていた。

 お父さんは何かを心配しているように見えた。

 お母さんは好奇心をその顔から覗かせていた。

 宵月は我関せずと仮想ゲームをしている。

 おじいちゃんは庭でまた何か作業をしている。

 チャイムが鳴った。お母さんよりも先に、と慌てて出た。

「こんにちは、蓮」

「いらっしゃい、零」



 あの後の放課後、あたし達はいつもと同じく、美術室で絵を描いていた。

 零は天使と悪魔の絵を完成させ、次の絵に取りかかっていた。その天使と悪魔の絵はいつの間にかどこかへ運び出されていた。多分、零が家へと持っていったんだろう。

 今は一面花で覆われている、花畑を描いていた。そこに水色の綺麗な川が流れている。零は慎重に一つ一つの色を重ねていった。繊細な作業だった。

 あたしは、相変わらずデッサンをしていた。果物や野菜のデッサンは散々やったので、新しく自分の手のデッサンをした。手というのは難しい。どこがどう曲がっているかなど、関節の動きを捉えるのは簡単なことじゃなかった。

 あたしと零は一定の距離を置いてお互いの絵を完成に導いていた。零は手を止めずに訊ねてきた。

「今日の昼休みに言ってた遊びってどこに行く?」

 あたしは、用意していたかのような返事をした。

「もうどこに行くかは決めてるんだ」

 零は苦笑した。

「また勝手だなぁ」

「良いじゃない。もう」

 零は、今度は苦笑じゃなく、にこやかに笑った。

「で、どこに行くの?」

 あたしは零の質問に答えた。

「あのね。あたしの家が良いなー、って思ってるんだけど…。ダメ?」

「それって休みの日だよね? お父さんとかお母さんはいるの?」

「多分、家族みんないると思う。ダメかな?」

 零は手を止めた。考えているようだ。零は集中してなくても手は止めないけど、考えたりすると手を止めてしまう。

「わかった。じゃあ、蓮の家に行くよ」

 あたしは喜んだ。

「やったー。じゃあ、おもてなしするね」

「そんな大事にしなくてもいいよ」

「だって嬉しいんだもん」

 零も恥ずかしそうに喜んでいた。あたしにはそう見えた。

 振り返ってみると、きっかけって案外単純なものなのかもしれない。



「あなたが零君ね。最近、楽しそうに学校に行くと思ったらこんな人がいたの?」

「お母さん、やめてよ。零が困ってるじゃない」

 お母さんは零をリビングへと通した。お母さんは零の正面に、あたしと零は並んで椅子に座った。宵月は仮想ゲームをしている。部屋でやれば良いのに、気になってかリビングでやっている。お父さんは離れたところから心配そうに見つめていた。何を心配しているんだろう。おじいちゃんは庭から戻ってきて、洗面所で手を洗っている。

「格好良いわねぇ。モデルさんみたい。学校でもモテるでしょう?」

「いえ、そんな…」

 あたしは、横から口を挟んだ。

「だから、零が困るような質問はやめてよ」

 お母さんは席を立った。

「今何か淹れるわね。寒いしホットココアで大丈夫かしら?」

「あ、はい」

「じゃあ、二人とも、少し待っててね」

 お母さんはキッチンへ向かった。

 以前、零と電話で話した時にお母さんもお父さんも苦手だと話したけど、最近それも薄らいでいってる。特にお母さんは機械に関して詳しいし、そっちの方向へと薦めるけど、それを考えなければ世間的にも良いお母さんなんだと思う。

 お父さんも無口で自分のことは話さないけど、家族のことをちゃんと見てはいるんだと思う。

 今日、零を連れてくると言ったら、休日返上で今日の休みを作った。だからか、ずっと視線が痛かった。

「君が零君か。蓮から色々と話は聞いてるよ」

 おじいちゃんが洗面所から出てきて、零に話し掛けた。零は立ち上がって、挨拶をした。

「こんにちは。蓮さんのおじいさんですよね? お話は伺っています」

 おじいちゃんは少し戸惑っていた。やがて笑って言った。

「中々礼儀正しい青年じゃないか。蓮も見習ったら良い」

「あたしの話はいいでしょ。庭は大丈夫なの?」

「今、一段落したところだ。零君も一昔前の時代に興味があるんだって?」

 零は戸惑いながら答えた。

「そうですね。今のデータ社会では得られない何かがあると思い、興味を持っています」

「じゃあ、後で私の部屋に来ると良い。少し話したいことがあるんだ」

「はい、ありがとうございます」

 おじいちゃんはまた庭に戻っていった。

 すると、お母さんがキッチンからココアをトレイに乗せて戻ってきた。

「零君は、お父さんとかお母さんはいるの?」

 お母さんはカップを零の前に差し出した。

「父がいます」

 お父さんが心配そうに見つめている。お母さんはあたしの前にカップを差し出した。

「お父さんはどんな職業なの?」

「科学者です」

「まあ、じゃああんまり家には帰れないでしょう」

「そうですね。家にいないことの方が多いですね」

 零はカップに口をつけた。あたしもココアを啜った。少し熱い。あたしは猫舌だった。零は平気な顔をして飲んでいる。

 それから、ココアを飲みきるまでお母さんの質問攻めは続いた。ココアを飲み終えた後、あたしから提案した。

「あたし達、部屋に行くね」

「あらそう?じゃあ、お菓子でも出すわね」

「先に部屋に行ってるね」

 あたし達は部屋を移動した。

 零は部屋に入り真ん中辺りで立ち止まった。

「どうしたの?」

 あたしは後ろから問いかけた。

「いや、ここで蓮が暮らしてるんだなぁ、と思うとなんか不思議で」

 あたしも自分の部屋の中に零がいるなんて不思議な気分だった。

「あんまり見ないでね。恥ずかしいから」

 あたしはベッドに腰を下ろした。零は立ったままだった。

「そこの椅子使って良いよ」

「うん。ありがとう」

 零は椅子に腰かけた。こうやって見ると、やっぱり零は繊細な顔立ちをしていた。瞳の色や髪の色、顔のパーツに至るところまで、繊細だった。

 格好良いけど、美人と言える顔立ち。それはいくら見ていても飽きさせなかった。

「じっと見てどうしたの?」

 あたしは零の顔をじっと見ていたらしい。慌てて視線を外した。

「蓮の家って良いね」

「そうかな?」

「うん。温かい家庭って感じ」

 あたしは、その言葉に反応した。

「多分前からそうだったんだと思うけど、前のあたしは気付けてなかったんだ。でもね、零のおかげでそれに気付けた。だから、温かい家庭って思ってもらえたんなら、それは零のおかげなんだよ」

 零は笑っていた。そんなことないよ、と言っていたけど、あたしは零のおかげなんだって主張した。

「外暗くなってきちゃったね。そろそろ帰る?」

「そうだね。あ、でも蓮のおじいちゃんに部屋に寄るように言われてたよね」

「あ、そういえばそうだったね。じゃあ、帰る前におじいちゃんの部屋に寄ろうか」

 あたし達は部屋から出て、おじいちゃんの部屋に向かった。一階の和室がおじいちゃんの部屋だった。部屋を訪ねふすまを開けると、おじいちゃんは、待っていたといった顔で迎えてくれた。

「おお、来たか」

「どうしたの? おじいちゃん」

「まあ、座りなさい」

 あたしと零は座布団の上に座った。なんだか落ち着く気持ちになる。テーブルよりも温かみを感じた。

「まあ、大したことじゃないんだが、二人は付き合っているのかい?」

 あたしはおじいちゃんの言葉にふざけるように言った。

「何言ってんのよ?おじいちゃんったら」

 おじいちゃんは真剣な顔で話した。

「いや、それは二人の問題か。時に零君……、君は全てを知っているのかい? 知った上で蓮と付き合っているのかい?」

 零は黙ってしまった。

「おじいちゃん。そんな威圧しなくても」

「私に誤魔化しは効かないよ」

 ピリピリとした空気が流れている。数分したところで零は観念したかのように、頷いた。

「やはりそうか」

「すみません」

「いやいや、これからも蓮のことをよろしく頼むよ」

 ピシッと背筋を伸ばして答えた。

「はい」

 あたしはなんのことか全然わからない。二人の間で何かが交錯している、それだけはわかった。

「これって、なんの話?」

「こっちの話だ。少し待ってなさい」

 おじいちゃんは立ち上がり、部屋から出ていった。あたしは零に訊ねた。

「なんの話だったの?」

「まあ、色々あるんじゃないかな」

 話をはぐらかすように逸らした。

「うーん。それってあたしには理解出来ないの?」

「どうだろうね。おじいちゃんも深くはわかっていないかもね」

 あたしは頭にハテナがいっぱい浮かんだ。この疑問は二人にはないんだろうか。ふすまが開いた。おじいちゃんが戻って来た。

「待たせて悪かったね。蓮、ちょっと零君と二人にしてもらっても良いかな?」

「…わかった。じゃあ部屋に戻ってるね」

「うん。帰る時に部屋に寄るね」

 あたしは、おじいちゃんの部屋から出た。

 自分の部屋に戻っても落ち着かない。気分的にも落ち着かない気分なのに、部屋の中も自分の部屋じゃないみたいになっている。零が来るから必死に片付けたせいだ。でも、あたしはベッドに横になったり、携帯を開いてみたりと、時間をつぶした。

 どれも楽しくない。仕方なく本を開いていたら、ドアノックが聞こえた。

「零だけど、開けても良いかな」

 あたしは「良いよ」と答えた。

 ドアが開くと零が立っていた。

「待たせてごめんね。じゃあ、今日は僕帰るね」

 あたしは玄関まで見送った。お母さんまで見送りに来た。また来て頂戴ね、と言うお母さんに一礼をして、零は帰っていった。おじいちゃんと二人でどんな会話をしていたか。気にならないわけがない。二人に問い詰めたい気分でいっぱいだった。それでもそれをしなかったのは、おじいちゃんにも零にも、そのことが重要なことに見えたからだ。

 あたしは部屋に戻ってベッドに寝転がった。

 落ち着かない。

 いつもどうやって落ち着いていたのかわからない。携帯をじっと眺めていた。

 すると、携帯が震えた。零かな? それにしては早い。メールだった。あっ、と思った瞬間には遅かった。

 ―死ね―

 予感は当たった。やっぱり匿名だ。やっぱり零のことが関係してるんだろうか。仮に、あたしが変わっていたとしても、こういった攻撃はしてこないだろう。

 どういった気持ちでこういったメールを送りつけてくるのか、あたしにはわからなかった。でもメールを見ているとやっぱり悲しい気持ちになる。

 メールを見なかったことにし、携帯を閉じた。そうやって強がった。すると、またも携帯が震えた。薄く目を開けてディスプレイを見た。零だった。

「もしもし、零?」

「うん。今帰り道なんだ」

「そっか。えっと、どうしたの?」

 零は何かを含んだような沈黙を置いた。

「蓮の家は温かかったよ」

「だから、それは零のおかげだって…」

「僕にはないものだから、ちょっとだけ羨ましく思えたんだ」

 これは、零の嫉妬なのかな。それとも気遣ってくれてるのかな。あたしはくすっと笑った。

「今度は零の家に行きたいな」

 零は戸惑った声を出した。

「えっと、僕の家?」

「うん、そう」

「でも、僕の家は何もないよ」

 外の風の音が聞こえた。ごうごうと唸っている。

「良いの。それでも零の住んでる家に行ってみたいんだもん」

「んー、じゃあまた今度ね」

「絶対だよ」

 零は苦笑いしながら言った。

「わかったよ。あ、そうだ」

 思い出したかのように言葉を発した。

「何?どうしたの?」

「蓮のおじいちゃんって、科学者なの?」

「ううん、違うよ。でも正確に言えば、元・科学者…かな? それがどうしたの?」

「いや、ちょっとね」

 零はまた隠した。あたしは不機嫌な言葉で漏らした。

「二人でこそこそして、何やってるのー?あたしだけ、なんにもわからないよ」

「いつかちゃんと話すから。待ってて」

 そう言われちゃうと弱ってしまう。問いただすつもりだったけど、それも出来なくなってしまう。

「うー、わかった。待つから、ちゃんと話してよ」

「うん。蓮も何かあったら言ってね。力になるから」

「うん」

「じゃあ、またね」

 電話が切れた。本当はさっきもうすでに嫌なことがあったんだ。

 零に秘密を持つのは嫌だけど、零のせいであたしが中傷のメールを受けていると知ったら、零はきっと傷つく。だからあたしは、黙ってその根源に蓋をする。自分からどうにかしようという勇気は湧いてこない。

 あたしは弱いんだ。悲しくても涙を流すことも悔しくて、涙を流さずに強がって笑う。こんなこと全然気にしてないよ、と口で言って、でもそれは自分に言い聞かせている言葉でもあった。

 零の声を頭の中に響かせて眠りの世界に落ちていった。

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