第13話 零れる涙

 また朝がやってきた。今日はいつもと違って、曇っていた。雨は降っていないようだ。テレビで降水確率を見る。十パーセント。降る心配はないようだ。

 キッチンから朝食を持ってきて食べながらテレビを見た。

「そんな古くさいテレビつけんなよな」

「またそんなこと言って。あたし電子コンタクト付けてないんだからテレビ見るしかないの」

「だったら、電子コンタクト付ければー?」

 宵月はからかうように言った。

「うるさい」

「さっきから何を喧嘩してるんだ?」

 庭の手入れをしていたおじいちゃんがリビングに上がってきた。頭にタオルを巻き、上下を農家の作業服のようなものを着ていた。

「なんでもないから。大丈夫だよ、おじいちゃん」

「そうか? だったら良いんだけどな」

 おじいちゃんは納得したような、してないような、曖昧な表情を浮かべていた。

「俺先に行くわ」

 宵月はさっさと出ていった。明らかに逃げていった。

「そういえば、お母さんは?」

「ああ、朝早くに出ていったよ」

「そっか。あっ、あたしももう行かないと。行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 おじいちゃんに見送られながら、あたしは家を出た。空は雲に覆われて暗くなっていた。辺りの景色もいつもより暗く見えた。勘違いや錯覚ではなく、本当にグレーを足されたような景色だった。カラフルさが全くなかった。今日も電車に乗り、降車駅で降りる。これが毎日の当たり前だ。毎日繰り返していく度、薄くなっていく。感動も減っていってるみたいだ。

 学校の最寄駅で降りた。学校までの上り坂を上っていく。紅葉はまだ綺麗だった。昨日と同じくモミジを見上げていた。

 携帯は出さなかった。

 何を言われるかわかりきっているからだ。

「おはよう。蓮」

 昇降口で声を掛けられた。零だった。

「おはよう。今日も早いね」

「蓮も早いよ。今日って何かあったっけ?」

 あたしは口籠った。

「蓮?」

「別に何もないもん」

 あたしは零を置いて教室へと歩き出した。

「え? 蓮ってば」

 呼んでいる声を無視してどんどんと進んだ。

 零ってなんでも知っているのに、肝心なところはわかってない。

 教室に着くと、那智が先に着いていた。あたしに気付いて、寄ってきた。

「おはよう。今日は零君と一緒じゃないの」

「さっきまで一緒だったんだけど、置いてきた」

 那智は噂話を聞くみたいに聞いてきた。

「どしてどして?」

 那智は耳をそばに寄せてきた。

「……」

 すると後ろから、声が聞こえた。零だ。

「蓮、どうしたの?さっきもなんか変だったし」

「知らない」

 あたしは声を強めてツンと跳ねのけるように言った。


 午前の態度はまずかったかなぁ。心の中で反省していた。

 このまま、零が離れていってしまうのが怖かった。けれど、謝る気にもなれなかった。

 零と明日行く場所を決めるのが楽しみだった、なんて口が裂けても言えない。

 たったそれだけのことと言われるかもしれないけど、それだけのことがあたしにとって、すごく楽しみなことだった。学校のどの授業よりも楽しみだった。

 だから、零がそれをわかっていないのに、なんだか苛ついてしまった。

 昼休みになると、今日は零の周りは静かだった。

 零はたまに穏やかな顔で周りの女子を払う。

 数日前も同じようなことがあった。

 でも週が明けたり、数日経てば元に戻る。今日は静かだけど、来週になればまた零の周りは騒がしくなるだろう。あたしは遠くからそれを眺めていた。

 零が静けさを纏って近づいてきた。穏やかな表情で口を開いた。

「一緒にお昼ご飯取ろう?」



 空が目の前に見える。見事な曇天だ。

 あの空の向こう側には綺麗な青空があるんだろうか。あの雲さえ散らせられたら良いのに。そうすればこの気持ちもいくらか晴れる気がする。

 零はパンを食べている。あたしは寝転がっている。

 零は黙ったままフェンスに寄りかかり、時々視線をよこす。

 あたしはそれをなんとなく避けてしまう。理由は色々あると思う。多分、一つには絞れない。あたしですらぐちゃぐちゃでわからないことだらけなんだ。零にはもっとわからないだろう。

「蓮」

 急に声を掛けられて動転してしまった。

「何?」

 声がひっくり返った。

「……明日どこに行こうか?」

 零はあたしの中に踏み入ってくることはなかった。零は続けた。

「蓮が何かに腹を立ててるのはわかるけど。僕は蓮の気持ちをわかりたい。わからないから触れないんじゃなくて、わかるけど触れない、って思えるようになりたい。難しいけど、蓮の不満に思ってることを教えて?」

 あたしはその言葉に涙が溢れそうになった。

 でも泣かない。泣いたら負けなんだ、と思った。

 あたしは零に背を向けて答えた。

「零は……、あたしのことどう思ってるの?」

 後ろで考えているのがわかった。この返答次第ではあたしは泣くかもしれない。

「蓮は、僕にとって大切な女の子だよ」

「それじゃ、わかんないよ。零ってホント鈍感だよね」

「僕は蓮のことを誰かと比べたりはしたくない。だけど、もし順番があるんなら、世界で一番大切だよ」

 泣かないと決めていた涙が瞳から零れてしまった。

 泣くのは負けだ。

 なんでかそう思っていた。

 でも今、涙を流しているのは悔しいからとか、悲しいから、とかではなく、零の気持ちを受け止めて自然に流れてきた。まるで、心が満たされて溢れた水が涙となって零れたような感覚だった。

 そっか。こういう涙もあるんだ。

「蓮の気持ちは?」

 零はあたしの真後ろで待っている。あたしの答えを。

 あたしは振り返り、零にキスをした。

 流れてくる。零の気持ちが。流れていく。あたしの気持ちが。

 あたしと零の間を感情が往復していくのがわかった。

 零は大切なものを扱うみたいに、頬に触れた。触れられた手は冷たかった。今まで零に触れられたことはなかった。

 唇が離れると零は左手でそっと瞳に溜まった涙を拭った。あたしは零の右手を左手で握った。零の手は冷たい。

 きっと零の心は温かいんだ。なんかの本で読んだことをそのまま頭に浮かべた。

 あたしたちは手を握ったまま、黙ってお昼休みを過ごした。

 かけがえのない時間。

 それはこの時間を差すんだと思えた。

 零の優しい手は、あたしの心の底に触れた。優しさの雨はあたしの心を波立てた。

 全ての景色が色を変えた。

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