第11話 答えのない問題
零は相変わらず天使と悪魔の絵を描いていた。
下書きに沿って、絵の具を重ねていく。天使、悪魔、人間の心、零の中には何があるんだろう。
あたしはというと、リンゴとバナナのデッサンをしていた。
リンゴとバナナの汗が滴る。汗がテーブルにつくほどの時間をかけて、描いた。こちらも相変わらずだった。リンゴとバナナを鉛筆で立体的に描いていく。立体的に、重みのある絵を描くように心掛ける。
その気持ちは絵になって表れていく。絵には心模様が写しだされる。心掛けや、あるいは、その時の気持ちが表情として表れる。
零の天使と悪魔はそれが出ているのだと思った。零の中の天使と悪魔はどんな顔をしているんだろう。
「蓮の両親って働いてるんだよね?」
零は唐突に質問をしてきた。あたし達は美術室でこういった何気ない会話を交わす。こんな風になんでもない会話を交わすと、零のことをよく知れるような気がした。
零の深くはわからなくても、表面を知ることで、深い部分の一端に触れることが出来た。
「あ、うん。言ったことなかったっけ?」
零は目線だけをこちらへと向けた。
「まあ、詳しくはね」
「うちはお父さんもお母さんも技術者なんだ。お父さんが科学課で、お母さんが情報課。どんな仕事してるのかはわからないんだけどね。零のお父さんとお母さんは何をしてるの?」
零は描いてる手を止めた。
「僕の家は父子家庭なんだ」
「父子家庭?じゃあ、お父さんと二人暮らしなんだ」
あたしの質問に零の表情は曇った。
「うん。でも滅多に帰ってこないけどね」
「働いてるの?」
質問が深くまで聞きすぎたかな、と思ったけど、零はふうっと、息を吐いて答えた。
「うん。一応技術者だよ」
「へえー。零のそういう話って全然聞かないから、知らなかったなぁ。じゃあ、今度うちにご飯でも食べにくる?」
零は明らかに動揺の色を浮かべた。
「いや、悪いからいいよ」
「なんで? うちにいるのおじいちゃんと弟だけだから気を遣うことないよ。お父さんもお母さんもたまにしか帰ってこないし」
「うーん。じゃあ、今度伺うよ」
あたしは喜びの表情を隠さなかった。いや、隠せなかった。零がうちに来てくれるのはとても嬉しかったからだ。
「今度じゃなくて、絶対ね」
「うん。わかった」
零はまた作業を再開した。あたしもデッサンを再開した。描く手を休ませずに会話を続けた。
「でも、零の家にも行きたいなー」
「それは…、だって父は帰って来ないんだよ」
苦笑しながら零は悟らせるように言った。
「だから行きたいんだって」
零は突然声を出して笑った。
「何よ? なんか変なこと言った?」
「いや、蓮らしくて良いんじゃないかな」
零は口角を上げた。笑うというより、微笑んだと言った方が正しい表情だった。
「またバカにしたでしょ?それくらいわかるんだからね」
はいはい、と子どもをあやすように言った。
「でも、蓮。それは僕以外には言っちゃダメだよ?」
あたしの中には疑問符が浮かんでいた。その意味に気付くことはなかった。
あたし達は、暗くなるまで絵を描き続けた。今日も完全下校まで残っていた。下校の鐘が鳴り響いた。
「今日はここまでにしようか」
「じゃあ、キー返さないとね」
美術室にロックを掛け、カードキーを職員室に戻し、昇降口に向かった。秋のせいか、日暮れが早くなっている。あたし達は日暮れの街を歩いた。
学校前の緩やかな坂道を下っていく。紅葉はまだ景観を保っていた。これがあと何日かしたら、枯葉に変わるんだろうか。四季があるのは素晴らしいのに、それを素晴らしいと思う人が減ってきているのが、とても寂しい。
零はどう思っているんだろう。やっぱり寂しいって言うのかな。
「零もこの情報化の社会って寂しい?」
モミジの葉を見ながら問いかけた。
「うーん。寂しい…のかな。僕にはよくわからないな。どうしたの? 急に」
「前に話してた時に、零もこの電波社会が好きじゃないって言ってたから、なんとなく聞いてみただけ」
零はあたしの言葉を流して聞いた。
「僕は、情報化の社会よりも、人が心を失っていく方が寂しいかな。みんな情報の豊かさよりも大切なものを失ってる気がして」
零のその言葉は、この数日間のどこかで聞いたことのある言葉だった。あたしははっとした。
「おじいちゃんもおんなじこと言ってたんだ。でもあたしにはわからなかった…。その、豊かさよりも大切なものってなんなのかな?」
零は少し考えて答えた。だけど、明確な解答を並べようとはしなかった。
「モノが増えて物質的に豊かになると失うものがあるんだ。多分、おじいちゃんはそのことを言ってたんじゃないかな」
「それってなんなの?」
あたしは、答えのない問題の答えを零に聞こうと訊ねた。やっぱり、零は明確な答えは出さなかった。
「それは、僕も探してる途中だから。でも蓮は焦らなくても良いと思うよ。長い時間を掛けて自分なりの答えを見つければ良いよ」
あたしはなんだか複雑な気持ちになった。
零もおじいちゃんもなんでも知ってて、自分だけ何も知らない気がしたからだ。
無知な自分がとても恥ずかしかった。
その恥ずかしさを抱えて、零と二人の帰り道を歩いた。月が空に昇っていた。星はない。どんなに晴れていても、星が浮かぶことはなかった。
夜の街が明るすぎるのかもしれない。夜の光に街路樹が照らされている。なんだか神々しく見えた。
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