第9話 前向き
あたしと零は美術室に向かった。職員室から持ってきたカードキーで美術室のロックを解いた。ドアを開ける。絵の具と木の匂いがした。
やっぱりここは良い。この匂いも静けさも、全ての時がゆっくり流れる感覚も、肌に染み込んでくる。
美術室に入り、窓を開けた。全開にした窓から、心地良い風が入ってきた。その風に心を洗われているみたいだ。
静かな部屋には、零の呼吸と、あたしの呼吸と、風の音だけが残った。カーテンが揺れる。涼しげなその光景は、もう秋も深まってきたと思わせた。
「やっぱりここは良いね」
「そうだね。蓮はいつもここに来ると嬉しそうだね」
零は端に置かれていたイーゼルをセットしながら言った。
「うん。だってここに来ると情報がまったく入ってこないんだもん。世界から一区間だけ切り離されてる? みたいなそんな感じ」
キャンバスを棚から引っ張り出し、イーゼルの上に置いた。筆の準備をしながら零は言った。
「やっぱり蓮は良いね」
あたしはちょっとムッとした顔で、ふざけながら言った。
「なんか、バカにされた? 今」
「いやいや、蓮は正直で良いなー、って思って」
「やっぱりバカにしてるんじゃん」
言葉では怒っていても、顔は笑っていた。なぜだか、零の言葉に棘があるようには思えなかった。でも、いつもの感覚で怒っているように振る舞った。いつもの雰囲気を楽しみたかった。
「あーあ、零の相手なんかしてないで、早く絵描こうっと」
零は笑って、ごめんと謝っている。
あたしはその言葉を素直に受け止めずに、ちょっと不機嫌そうにしてみせた。
棚からキャンバスを取り出し、今日のデッサンの準備をする。
冷蔵庫から果物を取り出して並べる。今日は林檎とバナナだ。零は昨日の続きを描き始めた。デッサンは終わっているので今日から色を付けるみたいだ。絵の具をパレットに伸ばしていた。
「蓮は、まだ絵の具で描いたりしないの?」
あたしは、少し俯いて答えた。
「まだ、自信がないんだ」
「自信?」
「うん。デッサンはいっぱいしてるんだけど、それでも自信が湧かないの。本当は描きたい絵もあるんだけど、描けないんだ」
零は髪をかきあげるように頭を掻いた。あたしはその姿がなんだかセクシーに見えた。
「蓮は、まだ時期じゃないのかもね」
「時期?」
「うん。自信を持って描けるようになる時期ってあると思うんだ。自信がないならもっと描けばいつか描ける時期が来るよ。その時は、自信だってついてるはずだよ」
時期……。それって、自然と来るものなのかな。それとも、努力をしていった後に、それ相応の自信がついて、描けるようになるのかな。多分後者なんだろう。
「零はどうだったの?」
いきなりの質問にどう答えたら良いのかわからない、といった表情をしていた。目を見開いて、泳がせた。
「僕は……、いつからかわからないんだ」
「零は、記憶にない頃から絵を描いてたの?」
零はかぶりを振った。その表情は苦しそうに見えた。
「違う……。でもわからないんだ」
「そっか……。でも、あたしはこれからやっていけば出来るようになるのかな」
不安そうに言ってしまった。零はなるだけ明るくあたしが落ち込まないように言った。
「大丈夫。このまま描いていけばいつか描けるって。…それに」
「それに?」
零は言葉を選んでいるように見えた。複数ある言葉の中から、一つを選び取っているようにも見えた。
「蓮には後ろ向きは似合わないよ」
あたしは思わず噴き出してしまった。
「キザねー」
「うるさい」
あたしと零はお互いを見合って笑った。
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