第4話 温もり

 結局あたしたちは完全下校の鐘が鳴るまで残って作業をしていた。

 これもいつもと同じだった。キャンバスを専用の棚に納め、イーゼルを部屋の隅に片付けた。

 美術室にロックをし、そのカードキーを職員室に戻した。

 美術室に先生達は顔を出さない。それがあたし達にとっては逆に居心地が良かった。

 下手に顔を出されていたら、あの空間が遮られてしまう。それはあたしも零も望んでいなかった。

 職員室にカードキーを戻すと、そのまま昇降口へと向かった。

 外はもう夕暮れを通り越し夜の街になっていた。キラキラと街灯や、電気の灯りが灯っていた。

 この高校は少し高台にあるため、学校から出たところで街を眺望出来る。

 眠らない街。

 その言葉がぴったりと当てはまるような、そんな街だった。電車は二十四時間運行しているし、コンビニはもちろんスーパーも機械が導入されて、二十四時間休業はなかった。

 そんな機械に溢れている街に住んでいると、生きているってなんだろう、と思う。

 呼吸をしていることが生きていることなのか、そういったことを考えることが生きていることなのか、よくわからなかった。

 よくわからないことが多すぎて、時々電波に頭がやられてしまったんじゃないかと思う。

 そんな時、零の声を聞くと心に凪いだ風が吹き抜ける。

「もう学校に入ってから半年も経つんだね」

「早いなー。じゃあ、あたしと零が出会ってからも半年なんだね」

 零は黙って微笑んだ。秋の乾燥した冷たい空気が頬を撫でていった。

 自宅に着くと、宵月が仮想ゲームをしていた。

 もうすぐ中学三年生に上がるというのに、勉強をしている様子はない。

 それどころかインターネットに接続して仮想世界で友達と談笑しているようだ。あたしに気付いた宵月は仮想ゲームの回線を一時的に切った。

「おかえりー」

「ただいま。宵月、あんたまたゲームしてるの?」

「姉ちゃんこそまだあの古くさい携帯電話使ってるの?」

「気に入ってるんだから別に良いでしょ」

「時代遅れにならないようにね」

 宵月は生意気な笑みを顔に宿しながら言った。このやり取りはいつも通りだった。生意気な発言もいつもと変わらなかった。

「うるさい。生意気なこと言ってないで勉強したらどうなのよ。まったく」

 そのあたしの口調には強さはなく笑みが混じっていた。まったく、宵月のこの口調は誰に似たんだか。

「あれ、お父さんとお母さんは?」

「二人とも仕事で泊まりだってさ。あーあ、働くなんて嫌だねー。俺はずっと中学生でいたいや」

 宵月は肩を上げた。

「おじいちゃんは?」

「部屋にいるんじゃない?」

 宵月はそこまで話してまた仮想ゲームの世界に入っていった。宙を眺めるその姿はどう見ても良いものだとは思えなかった。

 どこに焦点があり、どこを向いているのかわからないその視線は、あたしには不快感を与えた。

 耳のワイヤレス・イヤホンも外との交流を断っている一因に見えて、とても気分が悪くなる。

 あたしはおじいちゃんの部屋に向かった。おじいちゃんの部屋は和室だった。今の時代にはほとんどない畳の部屋だ。

「おじいちゃん、いる?」

「おお、蓮。学校は楽しかったかな?」

 おじいちゃんは、あたしや宵月が帰ってくると、この質問をしてくる。

「んー、まあまあかな」

「そうか」

 おじいちゃんは残念そうな顔をした。あたしの答えはいつも同じだった。楽しかったと言ったことは数少なかった。零と一緒に絵を描いている時間が楽しいことは知っているけど、学校生活は?と聞かれると弱ってしまう。

「それよりも、おじいちゃんの昔の話してよ」

 おじいちゃんは六十八歳で、和室に合う和服を着ていた。あたしが今の電波・情報社会を好きになれないのは、おじいちゃんの話の中の『昔』がとても素敵だと思うからだ。

 音楽は今のように電子音ではなく、生の歌手のコンサートでそれはとても感動出来た、とか、絵は機械で描かずに手で一つ一つ描いて、それはとても丁寧な芸術品だった、など色々な話を聞かせてくれた。

 学校の様子、学校内での恋愛、少し昔だけど、どれも綺麗な宝石みたいだった。今では考えられない状況がいっぱいあった。

 でもそれがまた良いものだ、とおじいちゃんは言った。

「豊かさは大事だけど、もっと大事なものもある」

 おじいちゃんは自分の中にある、哲学のようなものを話した。

「それってなんなの?」

「それは……、秘密だ」

「えー、おじいちゃんまでー」

「なーに、蓮なら見つけられるさ。さて、そろそろ夕飯の時間かな?」

 おじいちゃんはとぼけた顔を作った。

「あー、話逸らしたー」

 あたしは、おじいちゃんに文句を浴びせた。

「蓮ならきっと自分で見つけられると信じているからな。だから、自分で見つけなさい」

 まだ少し不満が残ったけど、そう言われたらどうしようもない。あたしは、夕食の準備のためにキッチンへと移動した。

 キッチンに行くと早速あたしは食材を冷蔵庫から取り出した。鮮度の落ちない冷蔵庫だ。

 じゃがいもと人参を取り出し、皮を手早く剥いていく。玉ねぎを出し、三種類の野菜を切っていく。一応、皮を剥く機械や野菜を切る機械があるし、料理を指定しすれば作ってくれる機能もあるけど、あたしはそれは使わなかった。

 自分の手で作る方が味も出ると考えているからだ。

 フライパンで肉を炒め、鍋で玉ねぎと人参を炒める。フライパンの肉を鍋に入れて、水を注ぎこんだ。そこにじゃがいもを入れて、煮込む。途中でカレールウを入れれば後は完成を待つだけだ。

 その間、ご飯を炊いた。これは、炊飯器に炊く分量を入力すれば自動で炊いてくれる。

 お父さんはある大会社の科学課に勤めている。何をしているかはわからないが、機械を作っていることはわかっていた。

 そのせいか、うちは普通の家に比べ最新の機器が多い家だった。

 お母さんもお父さんと同じ会社の情報課に勤めている。

 あたしが生まれて一時期専業主婦になっていたが、あたしが高校に入ってまた仕事を再開した。

 情報系で秀でている人は重宝される。特にお母さんは、情報課の中でも、かなりの才気があった。それが一時的に退職しただけだ。なので、すぐに復職が決まった。

 カレーを作り終えると、夕飯の時間まで部屋に戻りベッドに寝転んだ。携帯電話のランプが点滅している。手に取って開く。零から電話が掛かってきていた。あたしは急いで電話を返した。

 コールが鳴る。三コール目で電話に出た。

「もしもし」

「もしもし。気付かなくてごめんね。夕飯作ってたんだ」

「全然気にしなくて良いよ」

「こうやって電話するのも習慣になっちゃったね」

「そうだね」

 電話の向こうには零がいる。耳に直接零の声が響いてくる。まるで、直接触れられているみたいだった。それが、あたしの心の切なさをついた。

「蓮? どうしたの?」

 はっと気づいた。あたしは黙って零の声を聞いていたらしい。

「なんでもない」

 零は訝しげに言った。

「本当に?また何か考えてたんじゃないの?」

 あたしは思わず声を強くして言った。

「なんでもないってば」

 その声に零は笑った。

「ははっ、なら良いんだけどね」

 零は優しい。どんなことも笑って流せるくらい、度量もあった。あたしとはまるで正反対だった。

「明日も美術室に行く?」

「うん。もちろん。絵を描くのはあたしの楽しみだしね。零もそうでしょ?」

 零は少し考えているようだ。そして答えた。

「そうだね。じゃあ、放課後また絵を描こうか」

「うん」

 零の沈黙が少し気になった。零は思いもよらないところに含みを持たせる。あたしが単細胞なだけなのかもしれないけどね。

「じゃあ、そろそろ切るね」

「うん。またね」

 電話を切った。耳に当てていた携帯が熱を持っていた。右耳も熱くなっていた。零の声はあたしに癒しと傷をくれる。切なく心を傷つける刃と、温かく包み込んでくれる優しさが混ざっていた。

 今のあたしにはどちらも嬉しかった。傷の痛みもしばらくすると、零の優しさに癒されあたしを強くする。ベッドに寝転びながら、零を思い出していた。

 柔らかい声、細身で長身な身体、優しい茶色の瞳、愛しい笑顔、柔らかな色素の薄い髪、思い浮かべると切りがないくらいの愛しさに包まれた。

「姉ちゃーん。腹減ったー。飯にしようぜー」

 宵月の声で現実に引き戻された。

 家政婦じゃないんだから。そんな風に心の中で毒づいてはみるものの、仕方がないなぁ、とリビングに向かった。

 支度をして宵月とおじいちゃんと食事を取った。

 全てが電波のこの世界で記憶だけは作り物じゃないって、そう信じられた。

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