第3話 台風

 午後の授業も退屈だった。

 早く放課後になれば良いのに。

 五時間目は英語、六時間目は歴史だった。今日は美術や音楽の授業はなかった。

 美術や音楽の授業があっても、それほど楽しくはないのだけど、それでも情報や科学といった内容の授業よりは楽しいのは間違いなかった。音楽は電子音だし、美術は電子絵だけど、『情報系以外の授業』で括ればそれはそれで良かった。

 だから、歴史の授業も情報や数学の授業よりは良い。

 嫌いな情報系の授業ではないし、あたしはその時代にいないのに、まるでその時代に移動したかのように追体験出来る感覚は中々面白かった。

 おじいちゃんの話よりももっと昔の話だけど、だからこそ、おじいちゃんから聞いている話とまた違った感覚を味わえた。

 もしかすると歴史を紐解いていけば、どこかで神様に会えるんじゃないだろうか、なんて考えてもいた。

 放課後になるとほとんどの生徒は下校していった。部活のほとんどがなくなった今、学校内に残るのはあたしと零以外ではほとんどいなかった。

 あたし達は部活動のない学校に残り、昔の部活動よりも真面目に活動をする。

 あたしと零は、美術室に移動した。

 美術室のロックをカードキーで解き扉を開けると、独特の匂いがした。絵の具の匂い、椅子や机の木の匂いがした。

 美術の授業ではこの教室は使われなくなった。今の美術は、電子パネルで描くものになったからだ。

 この美術室は学校が授業内容を電子化する前に使っていた教室で、今はあたしと零しか使っていない。

 放課後は仮想ゲームの世界でスポーツをしたり、ゲームをしたりする生徒がほとんどになった。

 女子は仮想ゲーム世界で着せ替えをして楽しんでいる。その世界で交流をする生徒が多い。あたしは、そんな世界よりも現実で絵を描く方が何百倍も楽しかった。

 あたし達は作りかけの絵を棚から引っ張り出した。鉛筆で果物のデッサンをした。

 果物は美術室に設備されている冷蔵庫から取り出した。

 果物はみるみる汗をかいていく。その様子を用紙に映し出していった。

 零はイーゼルにキャンバスを乗せ油絵を描いている。と言ってもまだ下書きの段階なので鉛筆でデッサンをしていた。

 覗き込むと天使の絵を描いていた。

 零はあたしよりも長く絵を描いている、らしい。詳しくは知らないけど、本人はそう言っている。

 そのためか、デッサンもはるかに上手かった。これまでに、水彩画と油絵を見せてもらった。どちらも見た瞬間に引き込まれるような感覚がした。

 それは、零が特別に持っている能力なのかもしれない。

「ねえ、零」

 零は手を止めずにその呼びかけに答えた。

「んー、どうしたの?」

「零の絵って天使とかそういう絵が多いよね」

 零は、手を止めた。普段動揺することのない零が、少し動揺したように見える。

「そうかな? 偶然じゃない?」

 平静を装っているように見えるが、心の奥底では心臓が脈打っているだろうことが伝わってきた。零は再び鉛筆を動かし始めた。

「いや、偶然じゃないって。零は人間の心理とかを描くことが多いよ」

 あたしはきっぱりとした口調で言った。

「僕に人間の心理はわからないよ」

 零は少し俯いて言った。その表情がなぜだか胸をついた。

「ごめん。でも、僕が描いてる絵は、人間の心理とかじゃないんだ。ただ…」

「ただ…?」

 零は言葉を探しているようだ。そして見つけた言葉を放った。

「ただ、理由を探しているだけだよ」

 あたしは理解が出来なかった。それと同時に理解出来ないことが腹立たしくもなった。理解したいのに出来ない。あたしは思わず悪態をつくようにわざと汚い言葉を選んだ。

「理由ぅ? 何それ? 意味わかんない」

 それでも、零は穏やかな様子で言った。全てを理解しているような包み込む声だった。

「わからなくて良いんだよ。僕にもわかってないんだから」

 零は話をしながらも、手を止めることをせずに、天使を描いていった。天使を描き終えると、次は角と尻尾のある悪魔を描き始めた。あたしのデッサンは林檎を一つ描いたところで止まっていた。

 放課後の美術室は静まり返っていた。キャンバスに線を引く音だけが空間を支配していた。

 情報化が進んで、ほとんどの人が運動することを怠け始めていった。

 仮想世界で運動を競い、オシャレもその世界で楽しむ。ワイヤレス・イヤホンは、携帯、ラジオ、音楽プレーヤーの代わりとなり、電子コンタクトレンズは、インターネット、メール、テレビの代わりになった。パソコンは電子パネルに代わり、ほとんどの人がそういった電子機器に順応していった。

 それでも、あたしや、零、おじいちゃんみたいな少数派の人もいて、パソコンや、携帯電話の需要もある。

 その証拠にあたしも未だに携帯電話を使っている。

 自分の目で見て、自分の耳で聞かないと絵だって描けないし、何よりも楽しくない。だからって便利と言われているもの全てを否定するわけじゃない。

 けど、なるべく自分で出来ることは自分でやりたいと思っている。

 零も多分同じような気持ちなんだろう。

 美術室の窓は開け放っていた。秋の香りが漂ってきた。紅葉した紅葉が風に運ばれて教室へと入ってきた。

 カーテンがバサバサと音を立てて舞う。こういう時、電波から解放されている感覚を味わえた。誰にも邪魔されたくない時間だ。

 静かな美術室には、あたしと零の気配だけが残っていた。零は、キャンバスにじっと向かっていた。

 時折、鉛筆を持った掌をじっと見つめている。癖なのだろうか。描いているのを見る度、その仕草を見ていた。あたしは訊ねてみた。

「零って絵を描くとき、掌を見つめるよね。それって癖なの?」

 零は少し照れ臭そうに笑いながら言った。

「え、ああ、そんなところまで見られてたんだ。……うん。癖かな。なんだか落ち着くんだ」

「落ち着く…って?」

 斜め上の宙を眺めるように考えて言った。

「僕は生きてるんだなぁってね。でも、よくわからなくなる。僕は僕であって、僕ではないのかもしれないね」

 あたしは頭がこんがらがってしまった。少なくともあたしの頭の中の許容を越える発言だった。

「どういう意味だかわかんない」

 零は、絵を描く手を休めずに答えた。

「だから、わからなくて良いんだよ。僕もそれを理解したいと思ってるんだから」

 零のキャンバスを覗くと、悪魔の絵が完成していた。続いて、天使と悪魔が共存しているキャンバスに、人間の絵を描き始めた。人間の心を模したものを描き始めたのだ。

 零の絵はデッサンとか関係なく、人を惹く。零の心に潜むものがそうさせるのだろうか。あたしはその一端を覗いた気がしていた。

 不意に美術室のドアが開いた。あたしは思わず身体が跳ねてしまった。

「まだ残ってたんだ。良かったー」

 倉持那智が立っていた。あたしの零以外の唯一の友達だった。

「那智。来てくれたんだー。ありがとー」

「だって、二人でどこかに消えちゃうんだもん。同じクラスなんだからもうちょっと仲良くしてくれても良いのに」

 那智は口を膨らませて拗ねてしまった。

「倉持さん、ごめんね。僕が蓮のこと独り占めしちゃって」

 那智は零をキッと睨んだ。

「ホントだよ。零君って気が遣えないよね。女の子同士で話したいこともいっぱいあるのに」

 あたしは慌てて仲裁に入った。そっと零に耳打ちをした。

「ごめんね、零。那智、零のこと敵視してて」

 零は優しく微笑んで耳打ちを返してきた。

「わかってるよ。倉持さんの気持ちもね」

 あたしは頭にハテナが浮かんだ。

「あー、私に内緒で何こそこそ話してるのよ」

 那智はあたし達を指差して大袈裟に言った。

「ごめんって。もうすぐ部活終わるから、その後一緒に帰ろう」

「うん。じゃあここで座って待ってるね」

 なんだか落ち着かない感じもするけど、昇降口で待ってもらうのもなんだか悪い気がした。あたしと零は作業を進めた。

 というより、零は那智が来ても手を休めることがなかった。集中しているわけではないと思うけど、どこかストイックというか、無頓着というか、そんな感じがした。

 零は周りで何が起きても冷静でいられる。それは一種の才能なのかもしれない。

「二人とも別々の活動してるのね」

 那智が口を開いた。那智の疑問は当然だった。あたしも零も互いの絵は見るけど、互いに何かを共作する、ということは全くない。

「うん。技術にも差があるし、描きたいものも違うしね」

「蓮はどんな絵を描くの?」

「あたしはまだデッサンをしているところだよ」

 納得したのか、してないのか、ふーんと言ってまた訊ねてきた。

「じゃあ、零君は?」

「零はまだ下書きをしてるよ」

 またも彼女は、ふーんと言った。そして、机に顔を突っ伏して話しかけてきた。

「私も絵描こっかなー」

 あたしは、今からでも出来るんじゃない?という言葉が喉から出かかったが、言うのを止めた。この部屋はあたしと零が繋がっていられる空間なんだと、深く感じているからだ。

 この空間は例え那智でも邪魔されたくはなかった。

 すると、那智はあたしにこそっと話しかけてきた。

「ごめんね。零君と一緒にいたかったんでしょ?」

 あたしは耳の裏まで熱くなるのを感じた。頬も赤くなっているんじゃないかと心配になるほどその言葉があたしを刺激した。

「そんなことないってば」

 小さく話していたつもりが結構な声になっていた。

「隠さなくても良いよ。ちょっとイジワルしにきただけだから」

 那智はおどけた仕草でかばんを手に取り、美術室のドアに手をかけた。

「じゃあ、私帰るね。あ、蓮、お昼くらいは一緒に取ろうね」

 那智はドアを開けて、美術室から出ていった。

 まるで台風のようだった。あたしよりも小さな身体で、あれだけのパワーを持っているんだ。でも去った後に残ったのは凪いだ雰囲気だった。

 那智は、イジワル、なんて言っていたが、あたしと零の間には柔らかい雰囲気が残っていた。

 台風が去った後に残る、爽やかさのような空間が広がっていた。やっぱり那智は台風のようだった。

「倉持さんと帰らなくて良かったの?」

 零が訊ねてきた。その言葉に他意は込められていなかった。

「うん、今日は零と一緒に絵を描く日だから」

「倉持さんに気を遣わせちゃって悪かったね」

「それは大丈夫だと思う。多分、那智はわかってると思うから」

 零はくすっと笑って言った。不意に見せる笑顔だった。可愛らしくもあり、愛しくもある微笑みだった。

「友達のことはなんでもわかるんだね」

「別に……そんな……」

 あたしは不意の言葉に狼狽した。零はなんでも見通せる瞳を持っているみたいだ。その瞳に掛かればあたしの気持ちなんか、すぐにわかってしまう。

 零に嘘は吐けないんだと感覚でわかった。

「僕にはわからないから、少し羨ましいな」

 あたしは表情から笑顔が消えてしまった。確かに零の周りに友達がいるのを見たことはなかった。零の周りには取り巻きの女子生徒がいるのをよく見るくらいだった。

「零って友達いないんだっけ?」

「うん。だから、蓮や倉持さんと話すのは楽しいよ」

 零は特別気にしているようには見えなかった。当たり前のように受け入れているようにも見えた。

「そっか……。友達、出来ると良いね」

 あたしと零はキャンバスに向かって絵を描いた。

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