第五話 黒色の恐怖
リング技師が教えてくれた工場は溝の臭いが立ち込めるクリークに囲まれていた。
ここにイアンがいるだなんて信じたくはなかった。
しかし彼はここにいるのだ。
工場の入り口をうろついていた従業員らしき男を捕まえる。
「イアン?」
彼はイアンを知らない様子だ。
「ここにいるのは間違いないのだが。」
「忙しいんだ。悪いけど……。あっ、ちょっとお前!」
困り果てた従業員が、別の従業員を呼び止める。
「こいつの相手頼むわ。俺、急がねえと遅れちまう。」
ここの規則を知らないフレッドからしたら何をあんなに慌てているのか不思議でならない。そして、こちらを見向きもせず駆け足で行ってしまった従業員に変わり、新しくきた男と向き合う。この男も少し動きが忙しない。
顔はこっちを向いているが、視線と身体は工場の方へ傾いている。
意識を向けてもらおうと、フレッドは先ほどより大きな声を出した。
「イアン・サックマンという男を知らないか? ここにいるはずだ!」
その名に男の顔色が変わる。
「まさかイアンの家族か?」
男はイアンとは似ても似つかぬフレッドを上から下まで眺める。
見ればわかる。二人は家族ではない。
しかし、ここにイアンを迎えに来たフレッドは強く頷いた。
「……そうだ。イアンはここに?」
彼の顔色と「家族」という言葉に、嫌な汗が額だけでなく、背中にも伝う。
「いや、ここにはいない。……借家にいる。」
「それはどこに?」
「あんた本当に家族か? あんたが何者かしらねえが行かない方が良い。」
「すまない。どうしても会いたいんだ。教えてくれないだろうか。」
どうして行かない方が良いのかは聞かない。この男もなぜフレッドがこんなに会いたがっているのか尋ねない。しかしフレッドから熱い想いを感じ取り、重々しく口を開き借家の場所を教えてくれた。
「恩に着る。」
「良いってことよ。イアンによろしく伝えてくれ、俺はバッカスだ。」
「伝えておく。では失礼する。」
泣きそうな顔を見せるバッカスを残し、いよいよフレッドはイアンの元へと辿り着く手がかりを得た。
イアンの借家はフレッドの家より狭かった。窮屈な階段を登り、鍵のかかっていない安っぽい木の扉を開く。外よりもさらに漂う異臭に目が染み、奥に痛みを伴う。ゆっくり目を開けると、荷物が散乱する部屋の隅に男が横たわっていた。痩せこけた頬、擦れた袖から覗く腕は骨と皮だけだ。上下する胸は荒々しく呼吸をしている。
「イアン!」
それがイアンだと分かったのは、彼が故郷を出た時と同じ恰好をしていたからだ。
他の荷物を踏みつけながら彼の元に走り寄り身体に触れようとして、その手が止まる。
「……。」
固く閉じられた目、唇は乾燥し白く粉を吹いている。まるで死んでいるかのようなその表情にどうすればいいのか分からない。意を決して肉のついていない手を握る。
「イアン……。」
ゆっくりと、微かな天窓からの光に目を細めながらイアンは瞼を上げた。
「イアン。」
耳に届く声に、残りの力を振り絞ってイアンの目が見開く。しかしその瞳に生気は宿っていない。
「…レッド……。」
久しぶりに声を発するのか、しゃがれている。
「ああ、俺だ。会いに来たんだ。」
「どうして。」
「お前を連れて帰る。俺の家にいろ、もうこんなところで働くな。」
力なく微笑むフレッド。
「僕は君と一緒に過ごせない。君に酷い事を言った。羊が人を食う……。ハハハ、僕の方こそ食われてしまいそうだよ。……時代に。」
もう一方の手を天窓から差す光を掴む様に伸ばす。その手を見て息を呑むフレッド。
掌だけが五本の歯車を失って伸びていた。
「指、なくなっちまったよ…その時から毎日下痢も止まらない。病院はいっぱいだ。」
「疫病か。」
床と動かした頭が擦れてジャリっと音がする。イアンは傷口から疫病に感染していた。
「そんな悪いところまで時代に乗る必要ないのにね。」
ゆっくり息を吐きながらイアンの瞳孔が開く。
「待て!逝くな!」
どうにか迫りくる死神から彼を取り戻そうと必死に言葉をかける。
「ほらイアンから貰った時計だ。」
シルバーの懐中時計をイアンの健在の手に握らせる。
「毎日欠かさず巻いている。これからはお前がこの竜頭を回してくれ、だから、だから……。」
懐中時計を握る手にフレッドは額を擦りつて必死に祈った。
「お願いだ! 生きてくれ!」
祈りを響かせ顔を上げると、イアンは今までにないくらい優しく微笑んだ。
「ありがとう。君と同じ時を刻んでいたかったんだ。」
「ああ。これからはずっと一緒だ。だから、帰ろう。俺たちの故郷へ。」
文明に残された熱い腕が文明を謳歌した冷たい身体を抱きしめる。
どこにも行かせないと。
故郷へ連れて帰ると。
しかし腕の中で、軽いイアンの身体が重たくなる。
「一緒だ。これで……。一緒に居られる。」
最後の力を振り絞って懐中時計を握りしめるイアン。
共に時を刻み、イアンの身代わりは、彼の手の中で一定のリズムを今も刻んでいる。
それとは逆に最後の願いを果たせたイアンの鼓動は秒針から遅れだす。
────イアンをこの世に繋ぎ止めるものはなくなったのだ。
震えながらゆっくりと、その工業化を支えた労働者という名の歯車を軋みだす。
「ありがとう。」
そう言って時計を握っていた手が重力任せに散る。
地に落ちた手が鳴らしたのは、まさに工業化の音だった。
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