第四話 灰色の都市
イアンにあんなひどい事を言うつもりではなかった。彼の性格上、何も言わずに去るのは分かっていた───家族同然なのだから。だからイアンがフレッドに心配をかけさせまいといつもやせ我慢している事も知っている。
もしマンチェスターから戻ってきたら「おかえり。」と一言言って出迎えるつもりだったのに、急な帰郷にそれは叶わず、工業化で変わってしまったイアンに八つ当たりにも近い事をしてしまった。普通ならあそこまで怒る必要はないのにそうなってしまうのは自分の知らないイアンに嫉妬をしてしまったのだ。
いつも隣にいた彼が遠くに行ってしまい、置いて行かれた自分を認めたくなかった。
昔は二人で転げる様に駆け下りた畦道も最近では一人でゆっくりと下りて行く。
そしていつもの馴染みのパン屋へと今日も一人で行くのだ。
「よお、フレッド。」
「失礼するよ。いつもの、いただけるかい?」
「あいよ。」
パン屋の親父が棚のパンを木のカウンターに並べる。月に二回、フレッドは丘を降りて街で買い物をする。その時、このパン屋の親父から世の中の情報も仕入れるのだ。
「最近は何か変わったことはあったかい?」
「街外れの農家の坊主がマンチェスターに出稼ぎだとよ。」
イアンの旅立ちもこの親父から聞いた。
「マンチェスターといや、イアンもだな。あいつも出て行ったきり一度も帰って来やしねえ。」
あの日、彼が自分の所へ一目散に来たことが分かり、嬉しいやら悔しいやら複雑な気持ちになる。
「それだけ都会の住み心地がいいんだろ。今のイギリスの繁栄を象徴する場所だ。こんな田舎見限ったんじゃないか?」
「おい馬鹿言っちゃいけねえぜ。お前さんは丘で世俗と離れてるから知らねえだろうが、あっちはとんでもないことになってるぞ。」
「とんでもない事?」
「変な疫病が蔓延して死人のオンパレード。」
パンを品定めしていると、親父が一枚の羊皮紙を差し出してきた。そこには工業化したイギリスを痛烈に批判する絵や言葉が並んでいた。鞭で打たれる青年、炭鉱で蹲る子ども、そして煉瓦の上で横たわる人間にカラス。
「あそこはかなりやばいらしいぞ。」
言われずとも風刺画からそれは伝わる。
だが親父の言葉には風刺画以上の何かを孕んでいた。
「溢れた出稼ぎで借家はパンパン、その借家も一部屋にようやっと寝転がれるスペースしか確保できないくらい詰め込まれてるらしいじゃねえか。」
見送ることが出来なかったイアンの背中がちらつく。
「何百人に対して便所は一つだから、みんな自分の汚物を窓から外にポンッ!町中、脱糞や屎尿だらけ……。おっと失礼。」
パン屋にあるまじき単語に、客の一人が眉間に皺を寄せ、親父を睨んでいた。
「そのちいと汚い物のせいで謎の感染症が流行ってるんだと。一日に桶何杯分もの下…水みたいなアレを出して、そのまま脱水で逝っちまうらしい。」
「病院は?」
肩をすくめる親父。借家の話から推察すればどんな状況かなんて聞かなくても想像にたやすい。
「溢れた患者で、もう空き部屋はねえ。そこらへんに転がすしかねえ状況らしい。治す方法も見つからねえ……。完璧にお手上げ状態。」
親父の顔が青ざめ、フレッドも胸騒ぎがし始める。
「まさかイアンも。」
震える親父の声が鼓膜に届く前に、フレッドは駆けだしていた。
「おいっフレッド! お前まで感染しちまう!」
親父の話を最後まで聞かずに店を飛び出し、工業化の闇に覆われた都市へ走り出す。
呼吸をするのも忘れ、唇を噛みしめる。
「くそっ!」
時代に取り残され無知なことが、どれほど恐ろしいか痛感してしまった。最先端を行く都市は繁栄の象徴などではなかったのだ。知っていれば、きっとあの日、怒鳴らずにイアンを引き止めていただろう。
家族を危険地帯に送り出す人間などいない。
怒鳴って送り出した事、何も知らなかった自分を恥じて涙と汗で顔が濡れる。
「すまない、イアン。」
時代に逆らうことで自分を貫くことが出来るかもしれない、しかし大切な人を守ることは出来ないのだ。
「まだ間に合う! 今からでも遅くないはずだ。次はきっと……。」
────笑顔で君を迎えよう。
澄んだ空気に慣れた鼻孔に突き刺さる異臭で顔全体を顰める。鼻を摘まんでしまいたくなる臭いの出どころは分からない。なぜならその原因はそこいらに散らばっているからだ。
道端、石や煉瓦の壁には異臭の原因がこびりついていて、それはパン屋の親父が言っていた物だろう。それをどうにか避けようと通り過ぎる人の中には踵の高い靴を履いている人もいる。
「ここも違う。」
マンチェスターに到着し、これで三つ目の紡績工場だ。しかしここにもイアンはいなかった。ため息を吐く為に息を吸い込み嗚咽が漏れる。堪らなくなり空を見上げる。
「空が遠い。」
建物と建物に挟まれて窮屈な空は、いつもよりはるか頭上。日の光が入らず湿った路地、まるで地下のような空間では時間が分からない。あまり頼りたくはないが、ポケットに忍ばせていた懐中時計に手を伸ばす。蓋を開けば、きちんと時を刻んでいて、苦笑いが零れた。
「俺も駄目なやつだな。」
イアンがこれを送ったあの日、彼が家を去りすぐに竜頭を回した。それから欠かさず同じ時間に毎日。もちろんその決められた時刻を教えてくれるのはこのシルバーの懐中時計。針が皆に共通な数字を示しているのを見ると、自分とイアンが同じ時間の中で生きていることを教えてくれるのだ。冷たい金属を撫でると背中の部分が何やら凹んでいる事に気が付く。
「リング技師時計店。」
彫られていた文字を読み上げる。一つの案が浮かび、暗い路地に現れた一筋の光を追いかける様に再び前を向いて歩き出した。
リング技師時計店は人がごった返す広場にあった。テント張りの露店やテーブルだけで店舗を構える店もある中、その時計屋はレンガとガラス窓が美しい小奇麗な店だった。
店に足を踏み入れると、小さなルーペを片目につけた白髪の老人がカウンターにいた。すぐさまイアンの事を尋ねると、なんと老人は彼を覚えていた。
「覚えとるよ。出稼ぎ労働者の癖に高い時計なんぞ買うからからかってやったわい。」
「……。」
イアンの悪口を言われ、少し気分が悪くなる。反論したかったが、今はそんなことに付き合っている暇はない。
「ご主人、彼がどこの工場で働いているかは知っているだろうか?」
「ああ、確か……。」
時計屋の主人に聞いた第三工場地区の紡績工場へ向かう。イアンがくれた高価な時計を握りしめたまま。
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