第三話 赤色の歯車

故郷の土地を売り払い、ほぼとんぼ返りでマンチェスターに戻ってきた。

喧嘩する気はなかったのに、フレッドとあんな別れ方をしたことが未だに尾を引き摺り身体が重い。

やはり何も言わずに去ったのはいけなかったのだ。でもフレッドの顔を見れば決意が揺らぐ。それに彼はきっと出稼ぎ労働を止めただろう。そして一緒に牧畜を続けようと提案してくるに違いない。

だが、それはイアンの男としてのプライドが許さなかった。家族同然に育ってきたはずなのに、成長と共に一丁前に主張してきたプライドのせいで最後の最後で関係を崩してしまったのだ。

関係修復を試みて故郷へ足を運んだのに、結局また同じことを繰り返した。

 イアンは今自分がいる工場の休憩室を見渡す。

皆俯き、仮眠を取る者、食事をする者様々だ。違う服装なのに同じようにボロボロになり、お揃いの汚れを纏っている。

「理想的な都会」とは言い難いマンチェスター。それを知らないフレッドに、やはり見栄を張ってしまったイアンがまた深くため息をつく。

「最後の家族なのに……。」

昔、草原を駆け回って笑いあった思い出を、イアンはミルクティーと共に工場の休憩所で身体の奥に押し込んだ。

カップを置くと頭上に影が落ち、横に男が座り手を差し出してきた。

その手は豆だらけで、来ている服もあちこちほつれ、身体からは異臭がする。

だが、それはイアンも同じだ。

もう気にならなくなったその臭いを放つ男の手にシュガーとミルクの入った瓶を渡す。

「お疲れ様。」

相棒のバッカスはそれを受け取り、イアンと同じく、カップにその二つを並々と注ぎ一気に飲み干す。

「バッカス、いつもよりシュガーの量が多くないか?」

「この後肉体労働控えているからな、エネルギー補給だよ。ところで故郷はどうだった? 向こうではゆっくり紅茶を楽しめただろ?」

視線を落としカップの欠けた部分を指でなぞるイアン。

「こっちの癖が抜けなくてさ……。変な目で見られたよ。」

このミルクティーも、フレッドには良いように言ったが、これこそまさに劣悪な労働下の象徴のようなものだ。

ここの労働者の休憩時間は20分しかない。その短い時間で身体を休めるならゆっくり食事をとる暇などない。いかに早く労働に必要なエネルギーを摂取するか、その結果がこの肌色の飲み物なのだ。

「そらそうだろな。呑気に時間を気にしなくていい田舎者は、こんな高カロリーなものを短時間で胃袋に流す必要はない。」

時間だってそう。時計など今まで必要無かった。

窓から差し込む眩しい朝日に起こされ、羊の声を聞きながら日向ぼっこ。夜は自家製のチーズや山を下りた麓の村で買ったパンを食べる。食後の紅茶はじっくり茶葉を蒸らし、冷たくなるまで堪能していた。

そしてフレッドと語り合うのだ。

「ここは、時間に追われているようだ。」

工業化によって資本主義が確立した今、どの工場も大量生産の為、労働者を秒単位で動かしている。陽が昇らぬうちに起き、馬車馬の如く働く。そして陽が落ちて、月も傾きかけた頃、出稼ぎ労働者が押し込まれている借家へと帰るのだ。

太陽の陽を浴びる事ない生活。

繁栄の光が照らす街に本物の光は当たらない。

 固く閉ざされた天井を見つめるイアンに、バッカスが重たい声色で話しかける。

「そういえば、奥のレーンの爺さん、とうとう寝坊して賃金半分カットだとよ。」

「それは悲惨だね。」

「時計の針を少し早めるが吉だな。」

数秒の遅刻でも大幅な賃金カット、そんな見えない時間との戦いがこの都市には溢れている。フレッドにプレゼントした時計は労働者にとって味方でもあり敵でもあるのだ。

「それは酷だね。僕も貯金が底をついたから身を粉にして働かないと。」

「交通費で消えたのか?」

「それもだけど……。大切な人にプレゼントを買ってしまってね。」

「故郷に女残してきてんのかよ。」

「……。家族だよ。」

「喜んでくれたか?」

イアンの曇った表情にバッカスは気まずそうにミルクティーを口に含んだ。

「本当に、こいつは敵か味方か分からないよ。」

フレッドは喜んではくれなかった。それどころか彼の怒りをかってしまった。

時間という概念が生まれた今、同じ時を刻みたくて渡したのに、それは彼にとって皮肉にしかならなかった。

自分の古びた時計で時間を確認する。

「もういかないと。」

時計の曲がった針が、始業に迫っていた。

バッカスに挨拶をして自分の持ち場へと向かう。


「集合!」

紡績機が列をなすレーンの一角でイアン達の班の点呼が始まる。鞭を持った監督が睨みを効かせ、みな背筋を伸ばす。

気になるものが視界に入り、視線をずらした瞬間、

「おい!」

罵声に、ビシッという撓る激しい音とイアンの太腿に焼けつくような痛みが走る。

「すみません!」

体勢を保ちながら謝罪する。イアンの他にも監督の後ろで運ばれていくものに目を奪われた労働者が次々と鞭の餌食になっていく。ようやく監督も異変に気が付き後ろを振り向く。

「またか。」

ため息をつきながら自分の後ろを通過する血の滴る担架を見やる。

「また孤児を補充せんといかんな。おいお前、名前は?」

「イアンです。」

「名前なんてどうでもいいか…お前、あの死体の代わりの業務につけ。」

周囲の人間が息を呑むのが空気を伝って身体に教えてくれる。

そしてイアン自身も身体の内側から凍るように震えだす。

その震えを抑え、返事を絞り出す。

「はい!」

拒否は出来ない。嫌な顔も出来ない。ポーカーフェイスを気取ってあの担架の布の下で横たわる死体の業務の代わりに徹するのみだ。


歯車が噛み合う紡績機の中に身体を入れ込み、絡まる糸くずを丁寧に解いていく。チラリと赤黒い染みが目に入ったが見ないようにする。機械に絡まる糸の処理は子ども、この工場ではどこからか連れてこられた孤児の仕事だ。狭い空間、小さな子どもでさえ巻き込まれて体の一部や運悪く全てを失うものがいるのに成人のイアンともなると数ミリの身動きが命取りになる。カタンカタン、ガタガタと軋む歯車は死へ誘う死神の声にも聞こえる。

「フレッド……。」

今ここで自分が死ねば、彼は悲しんでくれるだろうか。そんな悲観的な考えが頭をよぎる。フレッドを忘れた事は一日もなかった。仕事中でもこうやって思い出している?────でも、今は思い出してはいけなかった。心を揺さぶる男を想い、手元が狂ってしまう。

「うわああああああ!!!!」

工場に、歯車をも震わす叫び声が響き渡る。


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