51人乗り昇降機

 金曜の夜、足早に職場を後にする。タイムカードを押し、事務所を出て、長い階段を下る。路地を左に曲がり、右に曲がりまた階段を下る。遠回りだが、この回り道が鬱々とした帰路を少し楽にする。広場に出る。下層行き昇降機の前に10人ほどの待機列ができている。もっと目抜通りの昇降機だとこうはいかない。乗り込むまでに15分以上待たされることも多い。

 昇降機がきたことを知らせるチャイムが鳴った。ドアが開き、のろのろと人が吸い込まれていく。10脚の並んだ固い椅子、それが5列。私はいつも一番後ろの列の一番端だ。席につき、肘掛部分についたスイッチを見る。0から9の数字。いくつかの数字は早くも表面が剥げてきている。「23」押し間違えたところで問題ないのだが、いつも緊張してしまう。確かめるように2と3を指で撫でた。


 今夜は中等学院時代の友人の「お疲れ様会」だった。

彼女は、中等学院を出て、すぐにとある試験を受けた。「特殊昇降機操作免許一種」固い字面だが、要は「昇降機嬢」になるための試験だ。

 まだバベルが天を衝くほど高くない頃、住人たちの悩み事は毎日の階段の上り下りだった。昇降機もあったが、一部の特権階級にしか乗車は許されていなかった。しかし、時の政府が昇降機を建設、管理するツバメ技術公社を設立すると、階層ごとの自治会は競うように、50人乗りの昇降機を秩序なく建設した。毎日の登山のような階段の行き来から解放された住民はこぞって昇降機に乗りたがった。整列なんてする発想もなく、ドアが開いた瞬間に、我先に席に着こうとなだれ込むその姿は、「情けない都会人」として、報じられ、国中の嘲笑の的となった。「昇降機に平和を」というスローガンで昇降機乗車マナーの改善を求めた公社が採用したのが「昇降機嬢制度」だった。ドアが開いたら整列乗車を促し、乗客の行き先階を聞き、スイッチを押す。発車のチャイムを流す。ドアを閉め、レバーを操作する。新しい職業の誕生だった。昇降機一台一台に昇降機嬢として女性が配置されていった。


 彼女も免許を取得したのち、すぐにツバメ技術公社に入社した。制度がはじまってから2年目のことだ。一見簡単そうな仕事だが、極めて専門的な仕事だと彼女は言っていた。ラッシュ時、乗客は口々に行き先階を伝えてくる。それを適切に聞き分けることは一定の技術を要するし、迷宮と化したバベルの観光案内所の役割もあった。また、安定した発進と停止の技術も必要だった。

 ただ、時代は変わっていった。バベルが高層化していくに連れ、昇降機もまた際限なく増え続けた。襟元にツバメのマークの入った昇降機嬢の濃紺の制服は、女性達の憧れの的であり続けていたし、給料も悪くなかったので、人不足に頭を悩まされることはなかったが、公社のお財布はこれ以上人を抱えられいくらいに穴だらけになっていた。

 2年前、公社は新型を導入し、以後順次刷新を行うと発表した。座席の肘掛部分に0から9のスイッチが埋め込まれ、昇降機嬢に行き先階を言う必要はなくなった。そして昇降機の制御も59階層の中央制御局で一括管理することとなった。

 昇降機嬢の大量解雇は一時社会問題にもなったが、騒いでいたのはむしろ男性であり、当の本人たちは、素早く他の仕事へ転職していった。

 彼女は粘った方だった。彼女はこの仕事を気に入っていたし、他にやりたい仕事も見つからないと語っていた。だが、一ヶ月前、解雇を言い渡され、おそらく今日の17時15分が最終便となった。


 昇降機嬢がいなくなってから、ドアの閉まり方がやけに冷たく感じる。閉まるスピードは以前と同じだが、もうぎりぎりで駆け込んでくる乗客に、優しさをみせる余裕はない。行き先を告げて、それを復唱されることがなくなったので、人々は以前にも増して、険しい顔で肘掛のスイッチを押すようになった。


 23階層についた。ふと思い立ち、上階行きの昇降機へ向かった。せっかくだから市場階層に寄って、少し高めのワインでも買って持って行こう。

 ふと見上げると、別の昇降機がゆっくりとおりてくる。昇降機嬢という職業もいつかは忘れられてしまうのだろうか。朝のラッシュで乗客が口々に行き先を告げる競りのような光景に、すでに懐かしさを覚える。たった2年前のことなのに。この階で止まると思った昇降機はその軽やかなチャイムを響かせることなく通り過ぎ、階下へ落ちていった。食事や風呂の準備のため家々から立ち上る煙の中に消えていくまで、私はその影を静かに見送った。

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バベル幻想譚 井中 鯨 @zikobou12

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