第三十五階の映画館

 吹きすさぶ冷たい北風から逃れるために私は映画館に入った。その映画館は半地下構造で、緩やかな階段を下りていく必要があった。まるで鯨の胃袋のように暗く地下へと続いている階段を下りていくのは少しばかし勇気のいるものだった。ピノキオになったつもりで下りていくと暖かな照明に包まれた空間が現れた。チケットカウンターに人影はなく、何の映画の上映情報も掲示されていない。時間を潰そうという目論見が一気に崩れてしまった。そもそも映画をやっていない映画館などあるだろうか。すると、背後から老人の声がした。からからの雑巾から絞り出したような声だった。

「ここは暇をつぶすには不適切だぞ。仮になんらかの正当な理由があるんだったら別だがな」

 老人はワインレッドの外套をまとっていた。ちょうど、絨毯の色と同じであった。

「そうですか、じゃあ他を当たります。この街に他に映画館はありますか?」

「ない。この街に残った映画館はここだけだ。ちなみに三十五階層には映画館なんぞひとつもないぞ。まぁ、も少し上がるか下ればちらほら残っているがな」

「ここでは映画を上映してないんですか」

「もちろんしてるとも。だが今日はその日じゃないんだ」

「どんな映画を上映しているんですか?」

「うーん、その質問は難しい。極めて個人的な映画もあるし極めて商業的な映画もやる。最近流したのは・・」

 そう言って老人は勝手にカウンターのキャビネットから一枚のチラシを取り出した。そのチラシには

『ある青年と北風雁の越冬についての考察』

 と書かれていた。

「記録映画ですか、これは」

「ある意味においてはそうであり、ある意味においては違う。君に見る覚悟があるのなら入ってみたらどうだい」


 座席は思いの外柔らかく、深く身を沈めると有袋類の赤ん坊にでもなったような心地がした。私は老人が座席に着く前に「上映中は鍵をかけるからな」と言った真意について考えた。しかし、答えは見つからずそうこうしているうちにブザーがなり、扉は閉められた。そして、鍵をかける音が聞こえた。暗闇の中で目を凝らすと、前方にいくつかの人影が見えた。なんだ、客がほかにもいるじゃないか、と少し安堵した。


 青年が灯台の近くに立っていた。そこから少し歩いて、海岸に達する。すると、カメラは空を映し、北風雁が横切っていく。そのあとにタイトルが出る。映画のナレーションは低く暗い男の声で、北風雁と北限諸島の島を通り抜ける北風の関係を説明していた。カメラが北風雁にクローズアップしたところで急に映像が乱れた。

 次の瞬間映し出されたのは、いくつもの女の裸体や、死屍累々たる戦場の様子であった。あるいは斧を振りかざし、人を襲っていく仮面姿の男の映像や暗い部屋で交わる男女の画だ。私は当然ながら困惑した。後ろを振り向けど、何も見えず、ただ映写機から発せられる一筋の光が見えるだけであった。鍵も閉められているのだったら、しょうがない。私はその垂れ流される卑猥で狂気の映像群をただ見つめることにした。


 どれくらい時が経っただろうか。不意に映画は終わった。最後は裸婦がねそべるソファの横でトラが吠える映像だった。場内が明るくなり、鍵が解かれる音がした。前方にいた人影はどうやら老人たちのようで、彼らは一様に満足げな表情を浮かべて去っていった。


 ロビーに出ると、ワインレッドの外套の老人が私を待っていたかのように立っていた。

「どうだった。実に素晴らしかっただろう。悩める青年と北風雁の慎ましい生活が」

「それはもう、少々私には刺激的なくらい」

「どうだい、次回も来るかい?」

「えぇ、そりゃ。次回の映画は何ですか?」

「次は・・そうだなぁ。考えておくよ。この階の下の倉庫にはまだたくさんの映画が残っているからね」


 映画館を出ると、相変わらず北風は吹きすさんでいた。しかし、気のせいか心臓の鼓動は早い。じんわりと首元に汗をかいていたようで、風が吹くと少し冷たい。私はいずれまた近いうちにこの映画館を訪ねるにちがいない。すっかりと暗くなった街は、私の興奮から目を背けるように硬く冷たく、ただそこにあるだけだった。

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