頁伍拾
宿屋の少し広めの部屋で、僕は白咲さんと互いに何があったのかを話し合いました。
「とりあえず、結果から言うとこの咳は
「そうですか、良かった……」
「そもそも、あの病気は五年前に根絶されたでしょう? 根絶というより、突然消えたと言う方が正しいのかもしれないけれど」
「はい……」
今現在、
大正四年から流行し始め大正九年に終わるまで、
なので、原因や根本的な治療法も探る事が出来ず、
「では、その咳は一体……」
「単に軽い風邪ですって。この粉薬を三日間飲めば治るそうよ」
「そうですか……。でも、無理は禁物です。薬を飲み終わる間は、安静にした方がいいのでは?」
「……そうね。この町での情報収集や補給は貴方に任せるわ」
「はい、お任せください」
僕は、いつもの恩を返すいい機会だと張り切りました。そのせいで、とてつもない過ちを犯してしまうとも知らずに。
──────
次の日、僕は一人で町に出ていました。
情報収集のために町の人達と会話したり、買い物をしたりしていると、ふと誰かに上着の裾を引っ張られました。
「?」
振り向くと、十代の半ばほどの少年がいました。坊主頭でやや汚れた格好をした彼は、貧民窟の住民のようでした。
「あんた、旅人だな? 昨日、あの診療所にいたっていう」
「はい、そうですが……」
「話がある。来てくれ」
そう言うと、彼は返事も聞かずにさっさと進んでいってしまったので、僕は慌てて追いかけました。
そして互いに無言のまま、僕達は貧民窟に辿り着きました。……今は、スラムと言うのでしたっけ。
現在は再開発されているそうですが、当時のそこは不衛生で悪臭に満ちており、住処も家と呼ぶには粗末なものばかり。狭い路地の左右から、嫉妬とも羨望ともつかない視線を感じました。
「その鞄、しっかり握っておけよ。盗まれても俺の責任じゃないからな」
思わず鞄の肩紐を強く握りしめていると、彼はとある一つの家の前で足を止めました。それも周りと同じく、……少し言い方は酷いかと思いますが。本当に人が住んでいるのか怪しいもので、僕はそう言った意味でも自分の視野は狭いのだと、そして今までの自分はとても恵まれていたのだと実感しました。
「入ってくれ。別に寛げはしないだろうが、少なくとも見咎められる事もないだろう」
「……はい」
言われた通り中に入ると、今度は座るように促されました。
軋む床の上に腰を下ろすと、彼も向かいに座り、じっと僕を睨みつけました。
「……あんた、あの診療所をどう思った?」
「どう、と言われても……。旅人でも無料で診察を受けられるなんて良い所だな、と」
「本当にそれだけか? 他には?」
「はい。他に、と言われても……」
「奴を見ただろう。どうだった? 李戸杉は悪人に見えたか? もしくは助手の他にこき使われる奴を見たとか……」
「……?」
あまり要領を得ない問いに首を傾げると、彼は苛立ったように指で床を叩きました。
「早く答えろ。奴はお前にとって善人か? そうとしか見えなかったのか?」
「いえ、僕はその、医師の方とはお会いしてないので……」
「それじゃあ何で行ったんだ。診療所で医者と顔を合わせないなんて有り得ないだろ」
「診察を受けたのは、僕じゃなくて白、……同行者なんです。僕は待っていただけで」
「チッ。そうだったのか……。声かける相手を間違えたな」
「あの、先程から一体何の話ですか? ……まさか、あの診療所に何か……」
「あるとも。俺の妹は、あそこに行ったきり帰ってこない。妹だけじゃねえ。弟も親も、兄貴も。家族全員、向こうに行っちまった。……『不老不死になれる研究』なんて妄言を信じたばっかりにな」
「──!」
僕は息を呑みました。まさか、こんな所で不老不死──不死者に関係がありそうな情報を得られるとは思わなかったからです。
「その話、詳しく聞かせてください」
「ああ。あれは、五年前の事だった……」
彼の話を要約すると、李戸杉診療所が臨床試験と称して貧民窟の住民を集め始めたのは当時から五年前。
内容はあまり知らされなかったものの、『不老不死になれる』という噂と、試験中の衣食住が保証されるというとても魅力的な話に釣られ、彼らは次々と参加したそうです。
建物が小さいので、参加者が招かれるのは一回につき四、五名ほどだったそうですが。……はい、一回につきです。
次第に彼らが異変に気付いたのは、参加者を募る知らせが五回目になる辺りでした。
誰一人、診療所から帰ってこないのです。それなのに参加者応募の知らせだけが届く訳ですから。誰でもおかしいと思うでしょう。
直接、李戸杉医師の助手である七羽さんに問い詰めた人もいたそうですが、どうやってもはぐらかされるばかり。
本来なら、その時点で誰かが通報していたでしょう。……ですが、彼らには出来ませんでした。
何故なら、貧民窟の住民であり怪我や病気をしやすい彼らにとって、李戸杉診療所以外に頼れる場所がなかったのです。他の診療所や病院ではお金が必要になる上に、そもそも貧民窟の住民など診てくれません。
人によっては、口減らしと言わんばかりに子供を参加させる事もあったそうです。
「俺の家族もそうだったよ。最初は末の弟、まだ四歳だった。次に、俺の一つ上の兄貴が行った。親父とお袋は俺達が寝てる間に出ていって、一番上の兄貴は『二人も実験に参加したはずだ、連れ戻してくる』と行ったきり帰ってこなかった。……妹が、これ以上俺に面倒かけねえようにって泣きながら参加したのは一か月前だ」
「…………それは」
「憐れんでほしいからこんな話をしたんじゃない。少しでもいいから、家族の情報が欲しかっただけだ。だから下手な慰めは言うな。……奴らは、別に誰でもいいみたいだった。それこそ、爺婆から赤ん坊まで残らず連れて行かれたさ。町の奴らは、俺達を疎んでいるから見て見ぬ振り……もうたくさんだ」
うずくまる彼に何も言えずにいると、入口から老婆が顔を出しました。
「おうい、また知らせが来たよ。これでもう二十三回目だ。お前、どうするんだい?」
「婆さんこそどうするんだよ。爺さんはもう行っちまっただろう?」
「そうさなあ……。あたしも、そろそろ後を追うべきかね。お前も、考えておきなさい。知らせの紙はここに置いておくから」
老婆が去ると、彼はその紙を一瞥もせずに握り締めました。
「……誰が行くかよ、あんな底なし地獄に」
「あの」
その姿を見た僕は、決意しました。
「なんだよ」
「その紙、見せてもらってもいいですか?」
僕が、彼らを助けようと。
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