第十六話『人の境界線』

頁肆拾玖

 おはようございます。……まさか、本当にこんな早くに来るとは……。

 いえ、僕は特に問題ありませんよ。いつもこの時間には起きていますから。でも貴方はそうでもないでしょう?

 別に平気、ですか? そういうのは、目の下の隈を隠してから言う事ですよ。

 ははっ、それでは早速話しましょうか。


 この旅の終わりの重要な分岐点となった、彼との出会いについて。


──────


「ごほっ」


 その頃の白咲さんは、よく咳をするようになっていました。普通の風邪とは違います。咳以外に症状はありませんでしたし、本人も別段苦しい様子もなかったようですから。

 それでも僕は心配で、「一度でいいから、病院に行きませんか?」と提案しました。


「別に心配しなくても大丈夫よ。それより、早く帝都に行かないと……」


「大丈夫じゃないですよ。もしも途中で倒れたりしたらどうするんですか」


「こう見えて、体は丈夫な方だから。病気も昔ほどしなくなったし……」


「白咲さんっ!」


 全然取り合わない彼女に業を煮やし、僕はやや語気を荒くしました。


「そうやって油断している人から先に死んでいくんです。知らないんですか? ……あの病気も、最初はそうだったんですよ」


弥畜利村やかうとむら病の事?」


「はい」


 弥畜利村やかうとむら病は、軽い咳から始まります。

 そして次第に咳は激しくなり、喀血もするようになります。その頃にはすでに動けなくなっていて、熱や皮膚のただれなど他の症状も出始め、最終的に苦しみながら死を迎える事になるのです。

 だから、僕は人より咳が怖く感じるようになってしまいました。……両親の事を、思い出すからです。


「……はあ、分かったわよ。次の町で病院を探してみましょう。旅人を受け入れてくれるような、奇特な病院をね」


 はい。旅人と言えば、各地を渡り歩く者。その土地には無い病原体を持っている可能性があります。なので、旅人は病院などの医療機関で敬遠されがちでした。辛うじて、個人の診療所が地元の人より少し高い値段で診てくれる程度です。


 ですが──


「旅の途中で咳が出て困ってる? それなら李戸杉りとすぎ先生に診てもらえばいいよ。あんたらみたいのならタダだしな」


「タダ……無料って事ですか!?」


「ああ」


 町の人に尋ねると、必ずそのような答えが返ってきました。……まあ、今は完全に違法でしょうが、当時はそんな診療所もあったのです。

 主に貧民窟の住民に開かれているもので、中にはお金持ちは絶対に診ないと決めている場所もありました。それ故に、わざとみすぼらしい格好をして掛かる人もいたという話もあったほどです。


「白咲さん、ちょうどいいじゃないですか。そこに行きましょう!」


「そうね。少し心配だけれど……背に腹は、代えられないわよね」


 白咲さんは無料という言葉を聞いて、やや疑心暗鬼になっているようでした。ですが、旅人としてはこの上なくありがたい事です。

 なので、半ば彼女を引っ張る形で言われた場所へと向かいました。


──────


 そこは白いコンクリート造の二階建てで、両開きの扉の横には大きく『李戸杉診療所』の看板が掲げられていました。


「ここがそう?」


「みたいですね。ごめんください」


「はーい」


 扉を開けて呼びかけると、奥からパタパタと足音がしました。

 そして、出てきた人物は──


「どうされました? 怪我でしょうか、病気でしょうか?」


「「────」」


 透無虚鵺とうむからやに酷似していたのです。特に髪と目は、全く同じ色でした。いくつか違う点を挙げるなら、髪を伸ばして後ろで束ねているのと、透無虚鵺とうむからや本人より五、六歳ほど年上に見える事でしょうか。

 あまりの衝撃に硬直している僕達に、彼は首を傾げました。


「あの……」


「あっ、あの。ここなら、旅人も診てくれると聞いて来たんですが!」


 はっと我に返った僕が苦し紛れに言うと、彼は笑って答えました。


「はい。お代も結構です。李戸杉診療所は、元華族の李戸杉三重郎さんじゅうろう先生が私財を用いて開設したものですから、完全無料でも大丈夫なんです。さあ、奥へどうぞ。……申し遅れました。私は先生の助手の七羽与形しつうよがたです」


「僕は明哉春成。こちらは同行者の白咲立華です。……白咲さん。白咲さんっ」


 何度か肩を揺さぶると、白咲さんはやっと我に返りました。


「──はい、私が白咲……ごほっ、ごっ」


「症状は咳、ですか?」


「そうです。お願いできますか?」


「もちろん。すぐにご案内出来ますよ。明哉さん、付き添いますか?」


 横目で白咲さんを見ると、彼女は首を横に振りました。


「いえ、診察が終わるのを待ちます」


「そうですか。……では、こちらの待合室へどうぞ。白咲さんは奥の診察室へ」


 白咲さんが奥に消えていくのを見送ると、僕は目の前の七羽さんを観察しました。

 髪と目の色以外は、ごく普通の人物に見えました。透無虚鵺とうむからやが持っていた尋常でない威圧感も無く、むしろ安心出来るくらい。

 ……もしも、透無虚鵺とうむからやが狂気に囚われる事無く、普通の人生を歩んでいたのなら、彼のようになっていたのではないかと。

 そう思ってしまいました。


「お待たせしました。どうぞ、緑茶です」


「あ、はい。ありがとうございます……」


 お茶を飲んで一息ついていると、


「……あの、先程から私を見て動揺しているようですが……何処かでお会いした事がありましたか?」


 七羽さんの方からそう切り出されました。


「えっ、いや、その……」


「何か無礼をしてしまったのなら謝ります。だから……」


「違うんです。違うんですが、その……実は探している人に、貴方が似ていまして」


「似ている、ですか?」


「はい。白い髪と赤い目の──」


「私と、同じ色をした人物が!?」


 それを聞いた途端、七羽さんは駆け寄ると僕の手を取りました。


「教えてください! その人は一体、どんな方なんですか!? 私、今まで同じ見た目の人に出会った事がなくて……。だから、知りたいんです! お願いします!!」


「そ、それは……」


 どう言っていいのか迷っていると、診察室から白咲さんが出てきました。


「お待たせ、春君」


「白咲さん!」


「粉薬を処方してもらったわ。これで、もう大丈夫。行きましょう」


「あ、でも……」


 七羽さんの方を見ると、彼は少し残念そうに笑いました。


「私の事はいいんです。お大事に」

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