頁参拾捌

 渉律さんの家は、町の隅にある大きな洋館でした。


「父が医者でしてね。この屋敷も、部下達の住み込み用にと作ったものなんですよ」


「そうなんですか……。今、ご家族は?」


「……父は亡くなり、母も後を追うように。病院も潰れて……今は僕一人ですよ」


「あっ、すみません……」


 聞いてはいけない事を聞いてしまったのだと思い頭を下げると、彼は苦笑しながら手を振りました。


「いいんですよ。それに実は最近、妻を取りましてね」


 渉律さんが部屋の扉を開けると、そこには優雅に紅茶を飲む貴婦人がいました。

 結った黒髪と、切れ長の目。瞳の色は濃い藍色で、同じ色の着物が彼女の肌の白さを際立たせていました。


「紹介します。妻の歌雫夜かなよです」


「歌雫夜です。渉律さん、そのお方は?」


「明哉春成さんだ。旅の人で、今追っているあの件に関わっているらしい。それでお呼びした次第だ。寛いでいるところを悪いが、茶を頼んでいいかな? あれを出してくれ」


「分かりました。すぐご用意いたします」


 一礼して、歌雫夜さんはゆっくりと去っていきました。


「綺麗な人ですね」


「ありがとうございます。……気恥ずかしいのですが、僕の自慢の妻なんですよ」


 穏やかに微笑むその様子から、彼が心から妻を愛している事が心から伝わりました。

 席に着いて互いの情報を交換していると、歌雫夜さんがティーセットを持ってやってきました。


 それは、注がずとも分かるほどの甘い香りをした紅茶でした。……そうですね、例えるなら林檎とニッキでしょうか。

 へえ……今はシナモンと言うのですか? なるほど……と、話が逸れかけましたね。


「変わった香りですね」


「ああ、気に障りましたか?」


「いえ、とても良い香りだと思いますよ」


「良かった。これは我が家に伝わる、秘伝の紅茶なんです。ぜひ飲んでください」


「はい、いただきます」


 勧められるままその紅茶に口をつけると、ぐらりと目の前が揺らぎました。

 眩暈……とは違います。お酒を飲んだ時と同じ酩酊感と言いますか、不思議と不快感のない揺らぎでした。


「どうかしましたか?」


「……大丈夫です。美味しいですね」


「お口に合ったようで何よりです。それで、貴方の旅の同行者が首にリボンを巻いているんですね?」


「はい、そうです。彼女は……白咲さんは、赤いリボンをしています」


「赤いリボン、ですか……」


 その時、渉律さんの目が鋭く光ったように見えました。それが不死者の情報を聞いた時の白咲さんに似ていて気になったのですが、あまりにも一瞬の事だったので気のせいだと片づけてしまいました。


「彼女は今何処に?」


「二人で手分けして情報収集していたので、まだ町中にいるか、もしくはもう宿に戻っているかもしれません」


「そうですか……。その宿の場所は?」


「町の中ほどにある……」


 次第に渉律さんの質問が警察の尋問のようになってきました。

 しかしその事に対して、特に疑問を感じませんでした。紅茶の香りが判断力を鈍らせていたのです。


「なるほど、分かりました。あとで彼女──白咲さん、という人も招待しますね。歌雫夜に招待状を持たせたので、すぐに来ると思いますよ」


「う……」


 その頃には、僕は意識が朦朧としていて、意識を保つのがやっとの程でした。


「春成さん?」


「すみ、ません。少し、気分が……」


「それは大変だ。空部屋で休んでください。さあ、こちらへ……」


 渉律さんに手を引かれて僕は歩きました。しかしいくら歩いても部屋には辿り着かず、段々と渉律さんの姿がぼやけてきました。


 それでも疑問を持たずにふらふらと歩いていると、紅茶の香りに混じって、変な臭いがしてきました。

 それは、腐った卵のような臭いです。……やはり気付きましたか。


 温泉地に腐った卵のような臭い──そう、硫黄です。


 いつの間にか、僕は硫黄ガスの吹き出る岩山まで一人で来ていたのです。

 屋敷を歩いているのも、目の前を行く渉律さんも、全て幻覚でした。


 そうとも知らず、僕は進み続けました。

 そのままだと、おそらくガス中毒で死んでいたでしょう。


 ですが、そうはなりませんでした。

 何故なら、突然幻覚が解けたからです。

 別に、紅茶の香りが打ち消されてしまったからではありません。


 頭の中で大きくバチンッと何かが弾ける音がして、ぼやけていた意識がはっきりとしたのです。


「春君!!」


 下から白咲さんの声がして、僕は急いで山を下りました。


 安全な場所まで来て新鮮な空気を吸っていると、本物の白咲さんが現われました。


「春君、大丈夫?」


「は、はい……。白咲さんは、どうしてここに……?」


「ふらふらと立ち入り禁止区域へ向かう貴方の姿が見えたから……。何があったの?」


「実、は……」


「いえ、今はとにかく病院に行きましょう。中毒が心配だわ」


「はい……」


 白咲さんに連れられて、僕は病院に行きました。しかし特に異常は無く、病院のベッドで少し休むとすぐに体調が戻りました。

 安心して宿に戻ると、僕は白咲さんに事の顛末を話しました。

 

──────


 話を全て聞き終わると、白咲さんは怒りを含んだ声で僕に言いました。


「本当に、少しは人を疑う事を覚えなさい。あと少しで死ぬところだったのよ?」


「返す言葉も無いです……」


「……でも、貴方が無事で良かった」


「白咲さん……」


「春君」


 その言葉に感動していると、注意するように呼ばれて僕は背筋を伸ばしました。


「本当にその人物は弓季と名乗ったのね?」


「あ、はい……。まさか」


「不死者ではないわ。おそらくは。昔、同じ術師名を持つ呪術師がいたらしいの」


「呪術師?」


「不死者化の術式を他人に行う人間の事を、私達はそう呼ぶの。本人はただの人間である事が多いわ。けれど、例えただの人間であっても、彼らは不死者と同じように危険と判断される。だから」


「ころ、……消される、と」


「そういう事。彼には医者の父親がいたのでしょう? きっと、その父親とやらが呪術師だったのね。だけれど、弓季がそういう術も使えるとは聞いた事が無いし、それに……」


「目の色、ですか?」


「ええ。そこが不可解なのよね……」


 これも何度も言っているので分かると思いますが、目の色は魂の色です。

 具体的には、『魂の色をおもてに出せるほどの力を持った人間』の目の色が、そのように出るのです。


 魂の色は人によって違います。例え同じ色に見えても、僅かに色味が違うのです。

 世の中には、魂の色が茶色や黒の人もいるでしょう。ですがそれは本当に稀です。

 故に、多くいる彼らの色は『錬金術の才能が無い』と切り捨てられるのです。


「……あっ」


「何か心当たりが?」


「奥さん……歌雫夜さんかもしれません」


「歌雫夜さん?」


「はい、確か彼女の目の色は──」


 ふと、僕は窓に目を向けました。すると、そこには歌雫夜さんがいたのです。

 僕と目が合ったのに気付いたのか、歌雫夜さんは驚いた顔をするとすぐに去ってしまいました。


「春君?」


「今、その歌雫夜さんが外にいました。すぐに行ってしまいましたが……」


「そう。なら決まりね。彼女が貴方を危険に曝した張本人にして」


「不死者、だと?」


「余程の事がない限りはそうでしょう。春君はここにいて。私一人で行くわ」


「白咲さん、だけど……」


「また危ない目に遭ってもいいの?」


 きつい彼女の目線に喉を詰まらせながら、それでも僕は言いました。


「確かに怖いですけど……、せめて道案内をさせてください。それに、もしかしたら渉律さんは僕と同じように操られているだけかもしれません。だったら助けないと」


「そう思う根拠は?」


「それは……」


 言い淀む僕に対してため息を付きながら、白咲さんは立ち上がりました。


「……分かったわよ。そこまで言うのなら、好きにしなさい。ただし、自分の身は自分で守る事。いいわね?」


「はい!」

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