頁参拾陸

 明るい声から一転、深く恐怖に満ちた声で告げると、透無虚鵺とうむからやは白咲さんの右肩に手を置きました。



「おすわり」



 そして、子犬に優しく言い聞かせるような言葉一つで、彼女を地面に座らせてしまったのです。

 いや、あれは白咲さんが自分からそうしてしまったように見えました。

 透無虚鵺とうむからやには、無条件で他人を従わせる力があったのでしょう。そうでなければ、あの重圧は説明できません。


「な──」


「なんだ、これくらいは振り払えると思ったのに。拍子抜けだなあ。……そうだ、今ここであれを分解すれば出来るかな?」


 何処にそんな怪力があったのか、透無虚鵺とうむからやは片手で僕の首を掴んで持ち上げると、またナイフを構えました。

 するとナイフの刃が嫌な音を立てながら、禍々しい形へと姿を変えたのです。


「かっ、は……」


「ゆっくり解体するから、しっかり目に焼き付けるんだよ?」


「めて……」


「聞こえないよ、なんて言ったの?」


「彼は関係ないでしょう……やめて……」


「止めてほしいなら簡単だよ。君が握ってるその銃で、ボクの頭を撃てばいいんだから。……ああ。でも、その状況なら無理か。無理言ってごめんね」


 段々、僕の首を掴む透無虚鵺とうむからやの力が強くなり、窒息死しそうになっていました。その前に、首の骨が折れる方が早いでしょうか。

 気が遠くなりそうな中で、僕は白咲さんの事が心配でたまりませんでした。


「……やめ、ろぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 突如決死の表情で叫ぶと、白咲さんは腰に隠していた短刀を抜きました。

 逸弥さんから託された、肌を掠めただけで不死者を殺せるという例の短刀です。


 そのまま懐に飛び込もうとしましたが、透無虚鵺とうむからやが何かしたのか、地面に座り込んでしまいました。


「やっぱり。やれば出来るじゃないか。凄い凄い。こんな事で限界を超えられるなら、もこうしていれば良かったな」


 まるで飽きたおもちゃを捨てるかように僕を放り出すと、透無虚鵺とうむからやは白咲さんの手から落ちた短刀をまじまじと観察し始めました。


「ふうん。刀身が全部銀で出来ているのか。この形状、ヘンクリッドが作った物に似てるけど、あいつは百年前に殺したから君に接点があるはず……。いや、他の誰かから貰ったのか。誰だろう……ん?」


 違和感に気付いたのか、透無虚鵺とうむからやは観察の対象を白咲さんに変えました。


「なるほど。威圧が効きにくかったのは魔法使いの加護のせいか。どうりでさっきも振り払えた訳だ。まあ、弱すぎてとっくに効力が切れてしまったようだけど。向こうのは起動すらしていない。ボクが相手なら仕方ない事だけど。……ああ、分かったよ。この加護はハヤミがかけたものだね?」


 合点がいった様子で、透無虚鵺とうむからやは愉快そうに笑いました。


「まさか、あのハヤミが君に力を貸すなんてなあ! とてつもない臆病者だから、こちらから行かなければ絶対に手出ししてこないと思ったんだけど。まさかこんな形で抵抗するなんて思ってもみなかった。今度、に行かなくちゃ」


 白咲さんの前に短刀を置くと、透無虚鵺とうむからやは彼女に微笑みかけました。


「でも、残念だったね。ボクはとっくの昔に銀を克服したんだ。だからね、どうやってもボクは殺せないよ」


「……ああ、あ、ああっ」


 十年前を思い出したのか、白咲さんは傍目で分かるほど震えていました。

 怯える彼女を見たのは、後にも先にもここだけで、それほどまでに透無虚鵺とうむからやという存在は恐怖そのものだったのです。


「所詮、道具は道具。この程度か。…………でも、それでもボクを殺したいのなら、東に行くといい。君が辿り着く日まで、今の工房で待ってるからさ」


 白咲さんの頭を撫でると、透無虚鵺とうむからやは手を振りながら去っていきました。


「じゃあね、ばいばい」


 その一言が合図だったのか、桜吹雪が彼を包み、そして彼は消えました。


──────


 透無虚鵺とうむからやが去って、およそ三分は経った頃でしょうか。

 ようやく動けるようになった僕は、未だに震える足を引きずりながら白咲さんの元へと向かいました。


 魂が抜け、人形のように座り込んだままの彼女が心配だったからです。


「大丈夫、ですか。白咲さ」


「──ぁぁああああああああああああああああああああああああ!!」


 いきなり叫ぶと、白咲さんは右手を地面に何度も叩き付け始めました。


「白咲、さん」


「殺せなかった! 殺せなかった! あいつが目の前にいたのに!!」


 次第に、手袋に血が滲み出してきました。それが、とても痛々しくて。


「……私には、殺せなかった……っ!!」


「白咲さん」


 とても見ていられず、僕は白咲さんの手を掴み、そっと下ろしました。


「かず、くん」


 泣きそうな目で見つめる彼女を安心させるために、僕はなるべく優しい声を出すように話しかけました。


「宿屋に戻りましょう白咲さん。右手、痛いでしょう。手当てしないと」


「春君、わたし」


「大丈夫ですよ。白咲さんは絶対にあいつに勝てます。もう負けたりしません」


 それは根拠のない希望論でしたが、こんな形でしか、彼女を立ち直させるための言葉が出てきませんでした。


「……ごめんなさい」


「何も謝る事なんてありませんよ。白咲さんは悪くありません」


「けれど、貴方を危険にさらしてしまった」


「僕は勝手に白咲さんについてきた立場ですから。これも僕の責任です。貴女は何も悪くない」


「春君」


「はい。何ですか、白咲さん」


「……ありがとう」


 小さな声に、僕は笑顔で答えました。


「それを言うのは僕の方ですよ。白咲さん、いつも助けてくれてありがとうございます」


 深呼吸をすると、彼女はすっと立ち上がりました。


「行きましょう、春君」


「はい」


 その時には、いつもの白咲さんに戻っていました。


 ……結局、白咲さんは最後まで泣きませんでした。僕にはそれが、とても脆く見えて。


 再び降り出した桜の花びらの中で僕は、「もしも出来る事なら、これ以上彼女に傷付いてほしくない」と、そう思ったのでした。

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