第7話井の中の蛙、井戸から出る

 怪我の治療を終えた阿澄は怪異対策局に報告の電話をかける。日付が変わったばかりの深夜だったが、コール音の後すぐに繋がる。

 穢れの発生源となっていた神社の神は退治した。その際、井戸とオビと呼ばれる存在の協力があったことを伝える。

 怪異対策局からは、数日間町の様子を見ること。有害な怪異を発見したら速やかに退治すること。事態が終息、解決と判断されたら速やかに帰還することと指示を受ける。

 最後、ひとまず治療に専念するようにとありがたいお言葉を頂戴した。

 電話を切ってからぼやく。

 「一日で治せってか」

 無茶を言う。



 真っ暗な空間を漂っている。

 右も左も上も下もない。

 臭いがする。肉を食う獣の臭いだ。

 金色の目が井戸を見ている。

 「お前はまだ私に願っていない」

 声が聞こえる。

 「故にお前自身を寄越せとはまだ言わん」

 生温かい風が吹き付ける。吐息だ。

 「しかしお前は助力を望んだ」

 空間が赤くなる。口腔内だ。ずらりと並ぶ黄ばんだ牙が柵のように周りを取り囲む。

 「使った力の対価を寄越せ」

 何だか熱い。左腕が熱い。

 熱湯の中にあるような。違う。

 熱いのは血液だ。

 皮膚の下で、血管の中で、煮えたつ血液が左腕を内側から焼いている。

 血管が裂ける。肉が割れる。皮が破れて血が溢れる。

 沸騰した血液が腕を流れ、皮膚を焼きながら待ち受ける舌へと落ちていった。

 これが対価だ。力を望んだ代わりに捧げなければならないもの。

 悔いや恨みはないが、とかく熱い。

 熱くて、痛い。



 治療に専念しろと言われたが、結局その日の午前中、阿澄は神社へ行った。オビと井戸を疑う訳ではないが、もう一度自分の目で現場を見なければ納得できない。

 昨日まで体に異常をきたす程の濃度だった穢れは、一晩ですっかり薄まっていた。

 「あれ、阿澄さん」

 ずたぼろの体を引きずって石段を登り終えると、どういう訳か井戸がいた。

 「さぼりか」

 「今日は祝日だから学校は休みです」

 井戸に言われて今日の日付を思い出す。昭和の日だった。祝日や祭日とはあまり縁がない。カレンダー通りのスケジュールで暮らす井戸の言葉を聞いてズレを感じた。

 「阿澄さんは仕事ですか」

 「包帯だらけだけど、出歩いて平気かい?」

 井戸とオビが交互に話す。ばれているなら隠す意味もないのだろう。

 「歩くくらいなら平気だ。もう一回、ここを確認しときたくてな」

 そっちは? と聞くと、花を供えに来たという。

 「僕の希望で」

 ほら、あそこ、とオビが社を指差した。御扉の前に水を入れたペットボトルに生けた花が置いてある。

 「神様相手に簡単すぎて罰当たりかなあって思ったんだけどね。でも本人もういないし。というか僕が燃やしちゃったし。僕がなんとなくやりたかっただけだから、簡単でいいかなーと思って」

 「……いいんじゃないのか」

 あの神なら喜ぶ気もした。

 「阿澄さんの所の……えーと、怪異対策局は何か言ってましたか?」

 「あと何日か様子見。上が終わったって判断したら俺の仕事は終わり」

 「まだ夜の見回りするんですか。大変ですね」

 「寄ってきた怪異がまだ残ってるからな。穢れが薄まったからその内他所に流れてくだろうが、そいつらも見つけたら退治しろってお達しだ」

 「重労働ですね」

 井戸はお疲れさまです、と両手で阿澄を拝む。その左手は包帯で覆われていた。

 「井戸、左手どうした」

 昨日は包帯なんて巻いていなかった筈だ。まさか昨晩、阿澄を寝床へ送った帰りに襲われたのだろうか。表情を強張らせる阿澄に、井戸は「火傷です」とあっさり言う。

 「昨日オビに力を貸してもらったので、火傷してしまったんです。左腕は潰す覚悟だったんですけど、かなり加減してくれました」

 「ほんとは火傷もしないのが理想なんだけどね」

 「それは虫が良すぎる話だよ」

 「……すまない。俺のせいだ」

 阿澄の謝罪を井戸は否定する。

 「違います。この火傷は、私がオビに頼みごとをして、オビが応えてくれた結果です。阿澄さんの所為じゃないし、謝ることじゃありません」

 それより、と井戸は話題を変える。

 「夜の見回りって、今日もやるんですか」

 「そうなる」

 うわブラック、とオビが引いた。

 「私たちもついていった方がいいですか?」

 「そうしてもらえたら正直ありがたい」

 いつもの公園、同じ時間に待ち合わせすることを決め、井戸と別れた。

 一人になった阿澄は神社の境内を隅々まで歩いて回る。昨日は調べる余裕などなかったが、改めて調べても怪しい、危険と思われるものはなかった。社の隣に立て札を見つける。この神社に祀られていた神の名前と由来が書かれていた。

 


 神社の神が消えてから数日。

 井戸が夕飯を食べていると、阿澄から電話がかかってきた。

 怪異対策局の上層部が、町で起きた事態は解決したと判断したという。

 「阿澄さん頑張ってましたもんね」

 ここ数日、阿澄は傷の癒えきらない体に鞭打って夜の見回りを行い、残った怪異を退治していた。

 『俺は明日か明後日には怪異対策局に戻る。俺の調査に同行するっていうお前の役目も終わりだそうだ。世話になった』

 「分かりました。連絡ありがとうございます」

 色々あったが、終わってしまえば呆気ないとさえ思う。喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつだろうか。

 一方、怪異対策局では土地神に呪いをかけるという事件にてんてこ舞いだという。

 『……あー、それでだな』

 「はい?」

 『……うーん……」

 他にも何かあるのかと思ったが、なぜか阿澄の歯切れが悪い。

 「何かありましたか?」

 『いや……』

 「私の実家から文句言われたりいちゃもんつけられたりしましたか?」

 『俺が知ってる限りじゃそういうことはない……三村さんから連絡とか来てないか?』

 「来てないです」

 『そうか……じきに三村さんから連絡が来ると思うから、そっちから話を聞いた方がいい。じゃあな』

 そそくさと通話が切れた。井戸には何のことかさっぱりわからない。

 そのまま三村に電話をかけた。

 『こんばんは、お嬢さん。定時連絡の時間ではありませんが、何かありましたか?』

 「こんばんは。阿澄さんから、三村さんから連絡が来るって言われました。私かオビに何か用があるんでしょうか」

 三村は束の間言いよどんだが、すぐにいつもの淡々とした口調で、井戸が怪異対策局に行くことになったと告げた。

 『当主と怪異対策局の間で取引があったようです。阿澄さんが戻られるのに合わせて、一緒に怪異対策局に行くようにと当主から連絡がありました』

 「そうですか」

 独特なしきたりや慣習のある古い家だ。叩けば埃も出るだろう。後ろ暗い行いを見逃す代わりに、自分とオビを賄賂かモルモットとして差し出したのだろうと当たりを付けた。

 『お嬢さんは当座の着替え、貴重品などの荷物を持って、阿澄さんに同行してください。冬服や必要な家具などは、新しい住居が決まったら送ります』

 「引っ越しですか。学校はどうなるんでしょう」

 『中退という形になります』

 「このアパートは」

 『解約です』

 「諸々の手続きは」

 『こちらで済ませますのでお気になさらず。対策局に行かれてからは定時連絡も必要ありません』

 「……よろしくお願いします」

 三村との通話を終えた井戸は阿澄に電話をかける。出発の日程を相談しなければならない。場合によっては、今日は深夜まで荷造りに費やすことになるだろう。

 『……もしもし。井戸か』

 「井戸です。三村さんから話を聞きました。またよろしくお願いします」

 出発は明日になった。



 三番線に列車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。三番線に列車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください。

 駅員のアナウンスを聞きながら、井戸は待合室で時刻表を眺めていた。荷物は貴重品を入れたカバンと大きめのスーツケースがひとつ。平日の真昼間は利用者も少ない。待合室にいるのは井戸だけだった。

 阿澄との待ち合わせの時間まであと十分。最寄りのこの駅から市内に出て、新幹線に乗り換える。そういえば行先も聞いていなかった。昨日は阿澄が随分疲れていたようなので、集合時間だけ決めて電話を終えてしまった。おそらく県外なのだろうと思っているが、どの地方かも分からない。

 ガラス張りになっている待合室の壁がノックされる。阿澄がいた。

 「阿澄さん。おはようございます」

 井戸はスーツケースを引いて待合室を出る。

 「切符買ったか」

 「市内までの切符は買いました」

 「わかった。乗り換え分は時間に余裕があるから後で買う」

 二番線に列車が参ります、とアナウンス。井戸たちが乗る電車だ。

 電車に乗り込んだ後、阿澄に怪異対策局はどこにあるのか聞く。

 「本部は東京。日本の何ヶ所かに支部がある。俺らは一旦本部に行く」

 都会の代名詞ともいえる東京。物見遊山ではないと分かっていても浮き足立ってしまう。

 「観光してる時間はないぞ」

 釘を刺された。

 「そういえば、井戸って何歳だ」

 「今年で十六歳です」

 「やっぱタメか」

 「タメって……阿澄さんも十六歳ですか」

 「驚くことか?」

 「十八、九歳かと思ってました」

 同い年の子供が命をかけて怪異と戦っている。やはり世界は知らないことばかりだ。

 「俺の方が偉いわけでもないし、さん付けも敬語もいらない。かしこまられても困る」

 井戸に特別かしこまっているつもりはない。幼い頃から、オビを除いて関わるのは三村を始めとしたごく少数の大人ばかりだった。ほぼ全員が井戸に敬語で接するものだから、井戸も自然と敬語ばかり使うようになった。学校では意識して砕けた口調で話していたが、気疲れするしうっかりすると敬語が出る。過去に真面目振っていると無用な反感を買ったこともあるし、慣れるには良い機会かもしれない。

 「……頑張ってはみる」

 オビと話す時と同じ感覚でいけばいいのだ。うん、と井戸は密かに決意を込めて頷いた。

 電車は揺れながら井戸たちを乗せて進んでいく。すでに車窓の外は井戸が見たことのない知らない世界だ。

 窓の外を見ながら井戸は思う。

 実家という井戸から出て、対策局という新しい井戸に移された。これから自分の世界は変わっていく。

 多かれ少なかれ、良かれ悪かれ。どうなるかは分からなくとも、それは確かなことなのだ。

 

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井の中のかわづ @yomuyomuman

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