第6話 手遅れの神
やっぱりな、と阿澄は擦り切れそうな意識の中で自嘲する。
死角からの奇襲は意味をなさなかった。最初から防戦一方で、切り札の呪毒を刻んだナイフはあっけなく弾かれた。
阿澄が仕掛けてから人型は動いてすらいない。負った傷は全て人型に巻き付く百足にやられた。百足は切った端から再生し、それどころかどんなに小さな欠片でも途端に一メートルほどの長さになって向かってくるから手に負えない。
今の阿澄は散々に甚振られ、百足に腕や足を貫かれて地面に縫い留められている。
さてここからどうなるか。踊り食いか活造りか。どうなるにせよ、怪異の気分次第だ。できるだけ苦しまずに終わってほしい。
身動きできない阿澄を人型が上からのぞき込む。見下ろしてくる目は濁っていて、何も読み取ることはできなかった。
百足がキチチ、キチチ、と鳴いて揺れる。
「人。人。殺す殺そう」
意識が朦朧としているせいで痛みすら曖昧だった。
自分がここで死ぬのは仕方ないが、恩師に尻拭いを押し付けてしまうであろうことが申し訳ない。散々世話になったのに、ろくに恩返しもできなかった。
人型がゆっくりと手を伸ばしてくる。その腕にも百足が巻き付いていた。ずっと人型が本体だと思っていたが、もしやこの百足の方が主導権を持っていたのだろうか。
人型の手が阿澄の眼球に触れる寸前で炎が人型と百足を呑みこんだ。人型は仰け反り、百足は金切り声を上げる。飛び込んできた人影が百足もろとも人型を蹴り飛ばした。
「阿澄は生きてるかな? 生きてるか。なら重畳!」
阿澄は茫然と自分を振り返る人物を見る。逆光気味だが、炎の灯りで顔が分かった。
「……井戸?」
「生憎違う。まあ詳しい話は後だ後」
姿は今日も会った少女だが、本人だという確信が持てない。雰囲気や表情が全く違う。井戸の姿をした何者かは笑っていた。この状況で、子供のように。
「っぐ、ああ!」
阿澄を拘束していた百足が手足から抜け出し、何者かへ向かう。傷口を内側から抉られて呻いた。意識がはっきりすると痛みまで鮮明になって嫌になる。
小柄な体に牙を突き立てようとした百足たちは、触れることさえなく炎に包まれ燃え尽きた。
「今はこっちをどうにかしないと」
ふう、と息を吐いて何者かは前に向き直る。吐息の中に火の粉が舞った。
何者かは起き上がった人型に近づき、右手で人型の肩や腕をそっと払っていく。まるで服に着いた汚れや埃を払うように、何者かの手が触れた箇所から焦げた樹皮のような物が落ちていく。
「やめろ! やめろ!」
人型に巻き付く百足が叫ぶ。地面から飛び出した太く長い百足が地中から現れ、声を出す間もなく何者かを拘束する。人型と百足は背を向けて逃げ出した。
「ふうん、虫にしては頭が回る。褒めてあげようじゃないか」
何者かは自身に巻き付く百足を焼き、山へ分け入っていく人型の背に向けて手に持っていた弓を引く。弦を引く手に灯った火が矢の形を作る。
「当たれ」
放たれた矢は過たず人型の背に張り付く百足に命中した。矢から広がった炎が人型に巻き付く百足だけを焼いていく。百足は悲鳴をあげて苦痛に身をよじる。
「何だお前! 何だお前、何だお前!」
「--名すら持たぬ木っ端の呪いがそれを問うのか」
何者かの声が怒気を孕む。聞いているだけの阿澄でも背筋が冷えた。
「その無礼、百度死しても償なえないものと知れ」
百足を包む炎が勢いを増す。既に声を上げることもできず、百足はばらばらになって燃え尽きた。
「さーて、やっと本命だ」
何者かは倒れ伏す人型に歩み寄る。
体に残った百足の残骸を払うと、人型が炎に包まれた。炎と何者かの手が焦げた樹皮のようなものを落としては燃やしていく。
「こんな呪いと穢れを背負わされてさぞ辛かったろうに。よく耐えたものだよ」
焦げた樹皮のようなものが全て燃える。
傷を抑えて起き上がった阿澄は、人型の本来の、とでもいうべき姿を見た。
地面に流れる黒い髪と格調高い着物。時代が時代なら貴人とでも呼ばれるような姿があった。
何者かに助け起こされてた人型は、呆然と自分の手を見つめる。
「私は……戻れたのか?」
少しだけ、と何者かが短く返す。
「……そうか、十分だ。終わりの時は、私は私であれるのだ」
人型は何者かを見て何か言いかけたが、何者かがそれを止めた。「僕のことはどうでもいいのさ」
自力で立ち上がった人型はゆっくりと阿澄に近づいてきた。
「私の名前は葉沢弓狩尊。この神社に祀られていた神だ。あなたの名前を教えてほしい」
神の声には芯が通り、目には力がある。体や髪の所々に汚れが残り憔悴の色も濃いが、先程までの穢れに覆われた姿とはかけ離れていた。
「阿澄桂介です」
「阿澄桂介、私のせいであなたにひどい怪我を負わせた。許せとは言わない……だが、謝罪させてほしい」
眼前で膝をつく神を阿澄は慌てて止める。
「……止めてください、神様に謝罪されるなんて恐れ多い。生きてるから、別にいいです」
阿澄は一呼吸置き、気を引き締める。
「俺は怪異対策局という集団に属すものです。この土地で急に穢れが濃くなり、人を襲う霊や妖怪が集まっていたため、調査に来ていました。なぜあなたはあれほどまで穢れに侵されていたのか、どうかお聞かせ願えませんか」
「わかることはすべて話そう……といっても、多くはないが」
「構いません」
阿澄は勢い込んで頷く。分かっているのは結果ばかりで、原因は殆んど判明していない。
「一月ほど前か、何者かにあの百足の卵を産み付けられた。誰かも分からん。孵化した後は知っての様だ。操られる……とは少し違う。あの百足は私の意志と力を奪っていた。私が私でなくなるのは恐ろしい、解放された今でも怖気が走る。……私から話せるのはこのくらいだ。すまないな、力になれなくて」
「……いえ、あなたが謝ることではありません。嫌な記憶なのに、話していただいてありがとうございます」
ありがとう、と神は表情を和らげた。
「外と関わらなくなって久しいが、最後に会ったのがあなた達でよかった」
神は立ち上がると阿澄の横を通り抜け、出入り口のへと歩いていく。鳥居の下に立つと、夜の町を見渡した。
「ああ、よかった。私はこの町を滅ぼさずに済んだ。誰一人として殺めることはなかった。礼を言わせてくれ、何処かより来た術師と現の夢よ」
振り向いた神の顔には涙が流れていた。
「そなた、最後に一つ、哀れな神の願いを叶えてくれないか」
ひたと神に見据えられた何者かは笑って頷いた。
「できる範囲でなら何なりと」
その答えを受けた神も笑う。
「私を燃やしてくれ……気づいているだろうが、私はもう手遅れだ。たとえ死んでも、骸が残れば良くないものを引き寄せる。灰すら残さず燃やしてくれ」
それを聞いて阿澄も気づく。夜闇に紛れて見えにくいが、神の足元からは黒い煙のような穢れが湧き上がっている。神自身が言う通り手遅れだ。
「分かった。一筋の穢れだって残さない。全部綺麗に雪いでしまおう」
神の全身が炎に包まれる。肩が、指先が、脇腹が、神の体が徐々に焼け崩れて消えていく。
最後に残った頭が石畳の道に落ちた。何者かが拾い、持ち上げてもう一度町を見せる。
「ほら、君が守った町だ」
「嬉しいことを……言ってくれる……。最後に月の光を見られようとは……月も太陽も変わらない。あの、頃、から……」
神の頭が崩れ、地面に落ちて散らばる。暫く燃えていたが、やがて火も弱まり消えていった。
神が燃え尽きた場所を見ていた何者かが振り返る。
先程の百足に対する気迫を思い出し、阿澄は蛇に睨まれた蛙のような気持になった。
「悪いね、阿澄。ずっとほったらかしにしてしまった。すぐ病院に行こう。救急車呼んだ方がいいかな?」
「……いや、いい」
敵ではないだろうと分かってはいたが、思っていたよりも友好的な態度に面食らう。だが病院や救急車は駄目だ。
「強がりはよくないよ。人間は血を失いすぎると死んでしまう」
近づいてきた何者かは遠慮のない仕草で肩の傷を突いた。
「痛ってえ!」
「ほら見ろ、痛いんじゃないか。早く病院に行くぞ」
「事情を聞かれても話せない。百足の化け物にやられたって言って、相手は信じるか?」
「それはまあ、難しいね」
「戻れば治療の道具があるから自分でやる。そもそも、いま保険証持ってないんだ」
そう言うと何者かはあっさり引き下がった。代わりに軽々と背負われる。
「じゃあ早く帰ろう。なーに気にするな、アフターサービスってやつさ。君が死んだら僕と河津が出張った意味がない」
何者かに背負われて石段を下る中、阿澄は知らない名前らしき単語に引っかかる。
「かわず……?」
「この体の持ち主だよ。ここ最近君と一緒にいたじゃないか」
「井戸のことか」
「そうそう、井戸河津。あーそうか、苗字しか名乗ってなかったね。河津は自分の名前が嫌いだから」
「井の中の蛙なんて名前、好きになれない」
唐突に井戸の声がした。
「井戸か? どこにいる?」
「ずっとここにいるよ」
答えたのは何者かだった。
「今は僕が表に出てるだけで、河津はずっとここにいた。僕と同じものを見聞きしてる」
「……アンタは、誰だ」
井戸の体を動かす何者か。敵ではないと思うし命を救われたが、完全に味方とも思えない。
「僕はオビ。訳あって井戸の体に居候させてもらってるんだ」
井戸と初めて会った日のアパートで、わずかな間だけ井戸が別人に見えたことを思い出す。あの時も、自身を居候と言っていた。
「二重人格……」
「ではないね。僕も詳しくないけど、二重人格って、どっちか片方しか出てこられないんでしょ? そもそも僕は後付けで完全に違う存在だし……あ、君の家ってどっち?」
◆
阿澄の案内で夜の町を歩く中、ごめんなさい、と井戸の声がした。
「……何がだよ」
「神社の神様、私がもっと止めてれば、阿澄さんがそんな大怪我しなかったかもしれません」
「……お前の話を真面目に聞かなかったのは俺だ。そうか、井戸は気づいてたんだな」
「僕からもごめんね。河津はあいつが危ないって気づいてても、詳しく言えなかったんだよ。僕のことも言わなきゃいけなくなるから。僕のことは門外不出、絶対に口外しちゃいけない決まりなんだ。河津を怒らないでやってほしい」
「三村さんが言ってた家の決まりってのはそういうことか」
「はい」
「うん」
しばらく無言が続いた。オビの足音だけが聞こえる。
「……それなら仕方ないだろ。それに昨日も今日も助けられた。怒ってない」
井戸もオビも、壊せない
程なくして寝床に着いた。こうしてまた戻ってくるとは思っていなかった。
「君ここで寝てるの? 風邪引かない?」
「虫とか凄そう」
阿澄の寝床である空き家の物置を前に、オビと井戸は各々勝手な感想を述べた。
「うるせーほっとけ。そっちも早く帰れよ、まだ怪異はうろついてるだろうから」
「はいはい。お疲れ様でした。養生しなよ」
「おやすみなさい」
井戸とオビが帰って一人になり、阿澄は体の状態を確かめる。
体のあちこちで穴が開いたり肉が抉れたりしている。満身創痍とまではいかないが、近い状態だろう。
だが生きている。五体満足。傷が治ればまた動ける。戦える。
十分だ。
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