第5話 穢れの大元
井戸が神社に行くと既に阿澄は到着していた。井戸に気づくと、座っていた神社へ続く石段から腰を上げる。
「こんにちは。怪我は大丈夫ですか?」
明るい場所で見る阿澄の顔は疲労の色が濃い。昼夜問わずの調査が体に堪えているのだろうか。
「あんまり大丈夫じゃないな。けどやるしかない」
阿澄が皮肉気に笑ったように見えた。おや、と思ったがすぐ石段の先へと顔を向けたので表情は分からなくなる。
「上から強い穢れが流れてくる。原因はきっとこの先だ」
阿澄の後に続いて石段を登っていく。三分の一程度の石段を登った辺りで、不意に周りの空気が冷えたように感じた。思わず両腕をさする。
「気づいたか」
「……なんだか寒いですね」
「何かあったらすぐ逃げろ。俺のことは無視しろ」
無性に嫌な予感がする。無視してはいけない類の予感だ。
鳥居の建つ入口に一歩一歩近づくたび、肌を粟立たせる悪寒が強まる。
入口のすぐ近くまで来て、オオオオオオ、と叫び声のような音が消えてきた。
「大丈夫か?」
阿澄が小声で聞いてくる。その顔はいつも通りで動揺などは見受けられない。流石プロといったところなのだろうか。
「……とりあえず、大丈夫です」
驚いたが取り乱すほどではない。昨日、いないと思っていたら阿澄がいた時の方が驚いたと思い出す余裕もある。
阿澄はそうかと頷き、鳥居の陰に隠れて神社の中を窺う。井戸もそれに倣う。
井戸は自分の目と視界を疑った。咄嗟に口を覆い、声を抑える。
境内の中は黒い煙か靄のようなものが充満し、黒く曇っていた。その中で動くものがある。これまた黒い人型の何かだ。服は着ているようだが、全身に焼け焦げた樹皮のようなものが張り付いているため、人型、長いざんばら髪ということしかわからない。
良くないものだと理屈抜きに思った。ひどく不吉で、良くないものだ。
「阿澄さん、あれは……阿澄さん?」
呼びかけても返事がない。どころか反応もない。
阿澄は魂を抜かれたように、人型を凝視していた。
◆
間違いない。あの人型が今回の事態を引き起こした元凶だと阿澄は直感する。境内に満ち満ちた穢れは今の世ではあり得ないほどに濃い。体の弱い者があの空気を吸えば、それだけで倒れかねない。
それで、どうする。対応を考えなければ。既に猶予がない。あの人型から発せられた穢れは町に広がり、人心を荒ませ弱らせている。
対策を、対応策を練らなければ。
自分一人で相手取れるか?
応援を呼ぶべきか?
そもそもあれはなんだ?
妖怪の類か、悪霊か。どれとも違う何かなのか。
思考がまとまらない。考えれば考えるほど意識が崩れていく。境内の黒い靄が視界に染み込んでくる。視線を逸らそうとしてもできない。不明瞭な音を発する人型から目を離したら、次の瞬間には喉をへし折られそうな恐怖がある。
「阿澄さん」
抑えた声と、肩に触れた軽い感触で我に返る。
「井戸?」
後ろに立つ少女を振り返る。意識すれば人型から視線を外せた。
「ぼーっとしてましたけど、大丈夫ですか?」
「……ああ。一度戻ろう。あれは今すぐどうこうできるものじゃない」
人型は積極的に神社の外に出ようとはしないようだ。
阿澄と井戸は足音を殺して石段を降りていった。
◆
待ち合わせ場所に使っていた公園に着き、やっと阿澄は僅かに気を緩めることができた。
日は既に暮れ、周囲は薄暗い。
「町に急速に広がった穢れは、あの人型が原因だ」
「……私もそう思います」
暗い表情で井戸が同意する。これまで怪異との関わりが殆んどなくとも、あの異様さは分かるのだろう。
「……阿澄さんはどうするつもりなんですか?」
「対策局に応援を頼む。俺一人じゃ太刀打ちできないだろうな」
神社から公園までの間に考えて出した結論だ。
夜の見回りは終わりだ、と阿澄は言う。
「井戸は家にいた方がいい。いくら実家から俺の手伝いをしろって言われてても、怪異と殺し合うのが分かってる時まで付いてくる事ないだろ。前に渡した清め塩、まだ残ってるか?」
「はい。まだ残ってます」
「部屋の四隅で盛塩にしておけば、ある程度穢れを防げる。怪異がうろついててもおかしくないから、暗い内は外に出るなよ」
「……阿澄さん」
「何だ」
「死なないでくださいね」
「努力はする」
◆
公園で井戸と別れた阿澄は寝床へと向かった。帰路の途中、家々の灯りは点いていたが往来に人気はない。ここ最近は町の治安が悪くなっているから、住民もできるだけ外出を控えているのだろう。
簡単な夕食と仮眠をとった阿澄は黙々と支度をする。時刻は二十一時を回り、とっくに夜の帳が降りていた。
結局、怪異対策局からの応援は来ない。昨今はどこも人手不足で、怪異対策局も例外ではない。
一人であの人型の怪異と渡り合えるだろうか。捨て身で挑んだとしても勝てる可能性は限りなく薄いだろうというのが阿澄の見立てだが、仕方ない。勝てない戦いなんて誰だってやりたくないだろう。けれど、いざとなったら犬死にするまでが阿澄たちの仕事だ。自分たちが死ぬことで上に敵の脅威を伝える。そうして、次は適切な戦力を寄越してくれることを期待するしかない。
スマホを取り出し井戸に電話をかけた。数回のコール音の後、通話になる。
怪異対策局からの応援が来ないこと、自分一人で神社に向かうことを簡潔に言う。
『……阿澄さんは大丈夫なんですか。神様の相手なんて、人の手に余るのでは……』
「なんであの人型が神だと思うんだ?」
おかしなことを言う。あのおどろおどろしい人型が、仮にもかつて人に祀られた神だとは到底思えない。
怪異対策局の上層部も、あの人型は神の消えた神社に棲み着いた怪異だと判断した。
『……神社にいたので、神様なんだと思ってました』
「確かにそう思うだろうな。けど、あの人型は他の怪異だ。妖怪か悪霊かまでは分からないが」
井戸はまだ納得していないようだったが、とにかく、と阿澄は本題に入る。
「できるなら、朝になったらこの町を離れろ。三村さんに連絡を取った方がいい。もし俺が失敗して人型を刺激するだけの結果になったら、この町はもっとまずい状態になる」
井戸が一瞬黙った所に「じゃあな」といって通話を切る。
もう一度武器や道具の確認をして寝床を出た。もう一度戻る可能性は低い。証拠の始末は済ませてある。
小走りで神社へ向かう途中、我が物顔で道を歩く怪異に何度も遭遇した。どいつも阿澄の姿を認めると、喜色を浮かべて寄ってくる。不漁の最中に間抜けな獲物がやってきたように見えるのだろう。まともに相手をせず、塩や符などの道具で応戦する。できるだけ体力を温存しておきたい。
夕方も来た神社へ続く石段に着く。夜が更けた今、近くまで来てはっきり分かった。上の神社から溢れた穢れが町へと広がっている。
できれば昼間に来たかった。日が高い内は怪異の力は弱まる。だが住民に異常を知られる可能性がある。怪異対策局は、怪異によって引き起こされる異常事態の解決と隠匿を何より重んじる。お上の意向に逆らえない末端は悲しいものだ。
ふと右肩をぐるりと回す。一部分が妙に温かいというか、熱を帯びている。石段で人型を見て凍り付いていた際、井戸が阿澄を呼んで叩いた箇所だ。
不可解だが、害もなさそうなので放っておくことにする。次に会った時、覚えていれば聞けばいい。
会う機会ももうないだろうが。
◆
阿澄からの通話が切れた。
井戸は通話時間が表示される画面を見つめると、携帯を閉じずに違う番号に電話をかける。
『はい、三村です。なにかありましたか、お嬢さん』
「……もしもし、井戸です。三村さん、少しお時間いいですか? 町で起きている事件の原因、分かりました」
◆
自分が暮らす部屋の中で、三村は椅子に座ってスマホの画面を見るともなしに見つめていた。通話時間と相手が表示されていた画面はホーム画面に戻っている。
つい先ほどの、数分にも満たない短い会話を思い返す。
三村が面倒を見てきた子供、井戸から電話がかかってきた。毎日の定時連絡以外、井戸から連絡が来ることはまずなかったから驚いた。数日前から、井戸は彼女が住む町で起きた異常を調べにきた怪異対策局という組織の人間とある程度行動を共にしている。その関係かと思っていたら、やはりそうだった。
井戸は町の異常事態の原因が分かったと言い、神社で異様な人型を見たこと、人型がおそらく土地の神であることを三村に話す。
『どうしてかは分かりませんが、あの神様はおかしくなっていました。そのせいで穢れを発していたことが、いま町の穢れが濃くなって怪異が集まっている原因だと思います』
「そうですか……わざわざ連絡ありがとうございます。それで、阿澄さんでしたか、怪異対策局の方はどうすると?」
『応援が来ないから、一人で神様を倒しに行くそうです』
「……それは、」
阿澄の取った行動に三村は絶句した。いくら小さな神といえど、ただの人間が一人で立ち向かうなど愚かでしかない。
どうかしている、という言葉が口から漏れた。
「正気ですか、あの方は」
『阿澄さんたちは、あれが神様だって気づいていません。 ……私は気づいてたけど、言わなかった』
「…………」
そうだろう。井戸が神社の人型が土地の神であると気づいた原因は、彼女が実家から固く口止めされている事柄と深くかかわっている。
『このままじゃ、阿澄さんはきっと死にます。あの神様は人を殺してもっと酷いことになります』
「そうでしょうね……それを言うために、連絡してくれたんですか?」
お前たちのせいで人が死に、神は人を殺してさらに穢れを背負うと遠回しに責めているのだろうか。もしそうであるなら、それはそれで喜ばしいような気もする。
三村の考えに反して、井戸はいいえ、と否定する。
『すみません、本題はここからなんです。三村さんに謝りたくて』
「……どういうことですか?」
『私が何かしないせいで人が死ぬのは嫌なので、阿澄さんを助けて、神様を何とかできないか試してみようと思います。きっと色々ばれるし沢山迷惑かけるので、先に三村さんには謝っておきたかったんです。という訳で、ごめんなさい。お叱りは後でいくらでも受けます』
失礼します、と通話が切られる。通話時間は呆気ないほど短くて、三村は今の会話が現実に起きた事かすぐには信じられなかった。
三村は椅子に座ったまま背を丸め、携帯を押し抱くように持って額に当てた。
自分の意志を持たない子供だった。
そう仕向けられて育った。
たった一つの願いすら持っていなかった。
三村の役目は、生まれ育った家を離れても変わらず井戸が自分の意志を持たないように見張ることだった。
しかし、ただ都合のいい人形であれ、扱いやすい器であれと育てられてきた子供に芽生えた意志を潰すことはできなかった。
あれから数年。家の決まりから逸脱することも厭わず、井戸は自分の意思で動いた。人形でも器でもない人間として。三村にとってはそれが何より嬉しい。
「いってらっしゃい、お嬢さん」
◆
携帯をポケットに押し込み上着に腕を通した。部屋の鍵を持って玄関に向かう。
「という訳なんだけど、聞いてた?」
「聞いてた。阿澄を助けて、神社の神を何とかする」
靴に足を突っ込み玄関を出る。鍵を閉めて歩き出す。
「できるかな」
「阿澄は本人が生きてるかによる。神の方は……やれるだけやってみるよ。あれは見ていて辛い。憐れだし、自分のもしもを見ているみたいだ」
「体は好きに使って。神様が相手だし、片腕くらいは潰していいから」
「太っ腹だねえ。あ、いや、比喩だよ」
「比喩でも事実でもいいから、早くして」
「はーいはい。それじゃあ急ぐとしますか」
井戸たちは入れ替わる。呼吸と同じくらい自然なことだから、特別な動作も必要ない。
次の瞬間には、井戸の体は別の何かが使っていた。
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