第4話 わんわんお!

 内蔵を垂らした犬の怪異。推測でしかないが、高校内にいた怪異の中で一番格上だ。

 周囲には植込みや建物。足元は舗装されておらず、起伏や石がある。夜目が効く阿澄でも動きにくい。何より後ろのお荷物がある。相打ち覚悟で勝率が三割あれば上等だろう。

 阿澄が食い止めながら逃げるしかない。

 「井戸、」

 走って逃げろ、そう言おうとした阿澄に頭から大量の塩がかけられた。幸い目は無事だったが、口の中がとても塩辛い。皿が割れるような音を聞く。

 何事かと思う前に次は酒をかけられた。

 顔を拭いながら目を開けると、首から上がない酒瓶を犬の怪異に投げる井戸がいた。

 「逃げてください」

 それだけ言い置き、井戸は走り出す。

 「来てみろ犬っころ!」

 言葉を理解しているのか、犬の怪異は井戸を追って姿を消した。

 


 井戸の視力は平均。眼鏡いらずで十五歳までこれた。

 だが、それは夜でも平素と同じように見えるわけではない。走る速度は大きく落ち、地面の小さな凹凸にも足を取られる。

 荒い息遣いと足音はすぐ迫る。ガチン!と背中すれすれで犬の顎が閉じられる。上着にしていたパーカーの背中部分を大きく持っていかれた。

 「いったた……」

 転んで起き上がると膝が痛い。擦りむいたらしい。

 再度飛びかかってきた犬の怪異を辛うじて避ける。地面に倒れ込んだ。

 犬の怪異が唸りながら近づいてくる。内臓の血臭が立ち込めていた。

 起き上がれないまま後退するが、逃げ切ることを井戸は半ば諦めていた。左は塀、右と後ろは弓道場とその倉庫。逃げるには正面の犬の怪異を突破するしかない。袋のネズミというやつだ。

 倉庫の壁に手をついて立ち上がる。また飛びかかってきた所を上手く避ければ、また逃げられるかもしれない。元来た道を戻ることになる。阿澄が既に逃げていることを祈ろう。膝が痛い。走れるだろうか。

 大きく吠えて犬の怪異が飛びかかる。顔を狙っているのか高く跳んだ。井戸は身を屈めてその下をくぐる。犬の怪異は勢いそのままに倉庫の壁を大きく破壊した。

 背中を見せたところに追撃されることを恐れて、井戸は立ち上がりながら倉庫を振り返る。探すまでもなく、犬の怪異は倉庫から出てきた。背後で壊された壁が、弓道部の備品が音を立てて落ちる。その中に、びいんと空気を震わせる音。それを聞いた井戸の頭に、ひとつの打開策が浮かんだ。

 破れたパーカーを素早く脱ぐ。牙を突き立てようと裂けんばかりに口を開いて飛びかかってくる犬の怪異の眼前に広げたパーカーを広げて放り出した。

 突然視界を奪われた犬の怪異は着地できず地面に落ちる。それを見もせず、井戸は擦り傷の痛みを堪えて倉庫へと走った。埃が舞う暗闇の中、目を凝らして手を伸ばす。左手が目的の物を掴む。顔にかかったパーカーを振り払った犬の怪異が怒りに満ちた声で吠えた。

 井戸が背後に向き直る。犬の怪異は牙を剥き出しにして吠えながら地面を蹴った。

 構えも何も知らないまま、井戸は左手に持った練習用の弓を鳴らす。

 びいん、と弦が空気を震わせ、音に撃たれたように犬の怪異はギャンと鳴いて弾かれ地面に転がった。

 鳴弦。矢をつがえずに弓の弦を引いて鳴らす邪気祓いのまじないだ。

 道具も使い手もあり合わせ極まる見様見真似ですらないやり方だったが、曲がりなりにも効果はあるようだった。

 井戸はもう一度、より強く弦を引いて音を鳴らす。犬の怪異はびくりと痙攣してまた鳴いた。

 三度、四度と繰り返す。怪異を弱らせることはできても、倒すことはできないようだ。

 荒い呼吸を落ち着けながら考える。ひとまず逃げよう。鳴弦を続けていれば、他の怪異も寄ってこないかもしれない。

 擦りむいた足を庇いながら立ち上がる。犬の怪異から視線を外さずに歩いていると何かにぶつかる。壁ではない。酒臭い。

 「井戸? 無事か!?」

 「……阿澄さん?」

 あとほんの少し阿澄と分かるのが遅ければ悲鳴を上げていた。

 「怪異は?」

 「そこにいます」

 両手が塞がっているため、顎で地面に転がる犬を示す。起き上がろうとしていたため、引いていた弦を離して音を鳴らす。

 阿澄が倒れた犬の怪異の首を切った。犬の怪異の体から力が抜ける。

 絶命を確認した阿澄が振り返る。

 「さっきから音がすると思ったが、今のは鳴弦か?」

 「……一応」

 素人芸もいいところなので、堂々と鳴弦ですとは言えない。

 「お前の中にいる、強い力持った誰かのお陰か?」

 「違います」

 井戸は首を横に振って否定する。井戸自身が助けてくれと頼めば出てくるだろうが、半殺し程度にされるまで呼ぶつもりはなかった。

 「練習とか何もしたことなかったので一か八かだったんですけど、上手くいくものなんですね。ビギナーズラックでしょうか」

 目前の危機が去ったので、井戸は弓と弦を引いていた手を下ろす。腰が抜けそうになったが堪えた。

 「鳴弦、まだできるか?」

 「鳴らすだけなら。効果があるかはわかりません」

 「それでいい。高校を出るまで鳴らし続けてくれ」

 パーカーの残骸を拾い、井戸と阿澄は歩き出す。鳴弦の効果か阿澄が粗方の怪異を退治したお陰か、新たな怪異には出会わなかった。

 「……あ、すみません」

 「どうした」

 「ちょっと心残りがあって。阿澄さん、先に学校から出ていてもらえませんか」

 「心残り? なんだそれ‐‐」

 「すぐ戻ります」

 校門の目前まで来た井戸は身を翻し、膝の痛みを堪えて校舎へと小走りで急ぐ。理由を話しても止められるだろうから言わなかった。気休めの鳴弦は生徒用玄関で止め、渡り廊下へ向かう。

 「……、…………、……」

 背を向けて非常灯の下に蹲る怪異は井戸が近づいても反応しない。耳を澄まして聞き取れるかどうかという小声で何事かを呟き続けている。

 「こんばんは」

 話しかけると怪異は肩越しに振り向いた。穴のような目が井戸を見る。

 「どこに帰りたいんですか?」

 この怪異はくらい、こわい以外に、かえりたいとも言っていた。それがどうにも気にかかる。このまま帰っても、もやもやした疑問と未練を引きずるだろう。

 「…………いえ」

 少しの沈黙を挟んで、怪異はぼそぼそと答えた。

 「どうして帰らないんですか?」

 「……くらい、こわいから……かえれない」

 井戸は持っていた懐中電灯のスイッチを入れた。井戸の手元からパッと光が広がる。怪異の視線が、井戸の持つ懐中電灯に釘づけになった。

 「これ、あげます」

 井戸が懐中電灯を差し出すと、怪異は恐々とそれを受け取った。手に持った懐中電灯を眺めまわしながら、あかるい、と呟く。

 「懐中電灯があれば、帰れますか?」

 怪異はもう一度井戸を見上げて頷いた。

 「かえれる」

 「もう遅い時間だから、早く帰った方がいいですよ」

 怪異がこっくり頷き、輪郭が崩れていく。

 泥だまりのようになった怪異は懐中電灯を飲み込んで消えていった。全て消えるまで見届けてから、井戸は渡り廊下を後にする。すぐ戻ると言ったが思いのほか時間がかかってしまった。どうやって阿澄をごまかそうかと思っていたら阿澄がいた。

 「うわっ、うわああ」

 どうしてここに阿澄がいるのか、などと考える余裕もないくらい単純に驚いた。

 「……そんなに大きい声出せたんだな」

 「ここ数年で一番の大声ですね……」

 井戸はばこんばこんと跳ねる心臓を抑える。こんなに驚いたのはいつ振りだろうか。初めてかもしれない。

 阿澄は井戸の背後、渡り廊下の方を見る。

 「さっきの怪異か」

 「はい」

 「どうした」

 「懐中電灯を渡しました。家に帰るそうです」

 「……帰れるのか」

 「本人は帰る気でした」

 「そうか」

 阿澄はそれ以上追及せず、校門に向かって歩き出した。きつく問い詰められるかと思っていた井戸は面食らってしまう。

 「……怒らないんですか?」

 「怒る筋合いじゃない。ただ、注意はしろ。憐れっぽい振舞いで油断させてくる怪異もごまんといる」

 「ご忠告ありがとうございます。阿澄さん、ひとつお願いがあるんですが」

 「何だ?」

 「いまのこと、できれば内緒にしておいてください」

 「……まあ、いいけどな」

 校門を出て柵を閉めると、どちらからということもなくお互い深く息を吐いた。

 「正直に言うと阿澄さんか私のどっちかが死ぬかと思ってました」

 「井戸の同行を受け入れた自分を呪ってた」

 「あははははは」

 「はははははは」

 やけっぱちな笑い声が虚しく響く。

 はあ、と井戸は二度目の溜息を吐く。

 「そういえば、この町の穢れってまだ濃くなってるんですか?」

 「日に日にな。学校で体調不良者が多いって話を聞いたが、穢れの影響もあるだろうな」

 井戸は山の方を見てぼやく。

 「町がこんな状態なのに、神様は何もしないのか」

 放任主義なのかもしれないが、縄張りを散々に荒らされても関与しないというのがどうにも腑に落ちない。もしくは、もう消えてしまっていないのか。

 「井戸、今のどういう意味だ」

 「はい?」

 「神様は何もしないっていうの、どういう意味だ」

 「どういう意味っていっても……そのままの意味ですよ? 北の山にある神社、この土地の神様を祀ってると思うんですけど、そこの神様は、こんな異常事態なのに何も手を打たないのかなあと不思議に思って」

 戸惑いながら井戸が答えると、阿澄は俯いて黙り込む。

 「……盲点だった」

 やや間を置いて、阿澄がぼそりと呟いた。

 「神社の境内は神域だ。怪異もまず近づかないし、神を刺激したくないから俺も最初から調査対象から外してた。 ……だが、もし神社に祀られている神が消えているとすれば話は別だ。もう境内は神域じゃない。隠れ蓑にはうってつけだ」

 「そう言われると怪しいですね。でも阿澄さん」

 「なんだ?」

 「今日はもう休んだ方がいいと思います。少なくとも私は無理です」

 「……そうだな」

 意見が一致したところでその日はお開きになった。



 翌日、井戸が登校すると、高校は騒然とした空気に包まれていた。生徒の話題は弓道場の倉庫が壊された、不審者が夜中に校内に侵入した、という内容で持ち切りだった。酒瓶の破片が落ちていたから、犯人は酔っていたのではないか、と話している。

 ホームルームの前に緊急の全校集会があると体育館に全校生徒が集められる。教頭の話は生徒の話題と同じものだったが、倉庫周辺は立ち入り禁止、警察が調査しにくるという追加情報に井戸の血の気が引いた。弓道場の倉庫から自分の毛髪や指紋が検出されたらどうしよう。毛髪はともかく、弓を探すために倉庫の中をべたべた触った。指紋は確実に残っている。

 町中での喧嘩、暴力事件が頻発している。当面部活を中止し、授業が終わった後は速やかに帰宅、無用な外出はしないように、という連絡はロクに頭に入ってこなかった。

 教室では、昨日からさらに二人が欠席していた。お調子者があと何人か休んだら学級閉鎖と軽口をたたいて注意を受ける。

 昼休み、携帯を開くと阿澄からメールの着信があった。

 『学校の様子はどうだ』

 大分漠然とした質問だ。昼食のパンを食べながら返信を打つ。

 弓道場の倉庫が壊れたのは飲酒で酔った不審者の仕業になった。警察が調べに来る。欠席者、体調不良者が増えている、と伝えることを一通り列挙してメールを送信。返信は午後の授業中に来た。

 『放課後、神社に集合』

 授業が終わったら速やかに帰宅するようにと言われているのだが。

 ホームルームの終わった教室で、仕方ないかと頷きながら井戸は携帯をたたんだ。

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