第1話近道すれば怪異に当たる

「ください、ください、ください」

 眼前に立つ異形はそう言って距離を詰めてきた。井戸は黙ったまま後じさりし、異形の全身に浮き出た口は文字通りの異口同音に「ください」を連呼する。

 帰路をショートカットしようと住宅街の中にある公園の敷地内を突っ切る途中、半球状の遊具の中から異形は現れた。

 手足のないぶよぶよした黒い棒状の体には無数の口と一対の剥き出しの目玉が浮いている。目玉はぎょろぎょろと絶えず動いていたが、今は井戸に視線を据えていた。

 「ください、ください、ください」

 近づかれた分だけ井戸は後ろへ下がる。返事をしてはいけないのは分かっていた。背を向けて逃げようかとも思ったが、異形を視界から消したら何が起こるかわからない。ショートカットなんてしようとするんじゃなかった。些細な出来心がとんでもない危機に繋がっていた。

 「ください、ください、ください」

 じりじりと後ろに下がり続け、金網フェンスに背が当たる。思わず後ろを見たら、足首を強く引かれてひっくり返った。足首に異形の一部らしき触手のようなものが巻き付いている。金網フェンスに頭を擦り、引っかかった髪が何本も抜けた。スクールバッグと買い物袋が地面に落ちた。

 このまま逆さ吊りにされるのかと思ったが、腰が浮いた辺りで足首を掴む触手の力が抜けた。異形の上半分が前に傾いて落ちる。

 いつの間にか井戸と異形の間に誰か立っていた。暗いので見えにくいが、手に棒状の物を持っている。

 「く、ください、くく、くだ、ください、ください、ください」

 異形の下半分から無数の触手が伸びる。

 誰かが言う。「立てるか? 走って逃げろ」

 足首に異常はない。大した怪我もない。井戸はスクールバッグと買い物袋を掴んで立ち上がり、異形と誰かに背を向けて走る。

 途中、後ろを振り返った。異形の触手と切り結ぶ誰かの背後。切り落とされた異形の上半分からも触手が伸びていた。公園の出口へ向かう足が止まる。

 異形の上半分から伸びる触手は、下半分から生えて誰かと切り結んでいる触手とは様子が違う。もっと細くて妙なぬめりを帯び、離れた場所にある街頭の僅かな灯りを受けて毒々しく光っている。地面の近くでゆらゆらと揺れる様は、虫を誘う食虫植物か、岩陰で獲物を伺う捕食者を思い起こさせた。

 一本の触手が誰かの脚に巻き付き、誰かの動きを邪魔する。そちらに気を取られた一瞬の隙をつき、異形は残った触手を一斉に突き出した。

 スクールバッグと買い物袋を放り出し、井戸は止めていた足を再度動かして走る。公園の出口とは逆の方向へ。

 誰かは棒状の物で触手の大半を切り払い、返す刀で残った数本の触手をさらに受ける。鍔迫り合いのような状況だが、それはおそらくフェイクだ。異形の狙いは上半分から伸びた触手の方にある。音もなく伸び上がる上半分の触手が狙いを定めると同時に、井戸も誰かに体当たりする。誰かは地面に転がり、追撃の触手が側頭部を掠めた。

 「てめっ、何しやが──」

 跳ね起きた誰かは言葉を止めた。

 井戸の首に、異形の上半分から伸びた触手が刺さっている。注射で薬品を注入された時のような痛み。何かが井戸の中に入り込んでくる。

 バシャバシャと水音を立てて異形の体が崩れる。

 げらげらげらげら。げらげらげらげら。黒い水たまりのようになった異形の体に浮く口が一斉に笑い出した。目玉は歓喜に染まっている。 

 「もらった、もらった、もらった、もらった」

 触手の刺さった首筋が強く痛んだ。血管の中で何かが蠢いている。

 「……う、んぐ」

 井戸は痛みに膝をついた。

 歯を食いしばるほどの痛みと異物感は急速に薄れ、すぐに消えた。全身を強張らせていた井戸は首の触手が刺さった部分をさすりながら力を抜く。

 「おい!」

 急に肩を掴まれた。ついさっき突き飛ばした誰かだ。

 「体に異常は!? 違和感はないか!?」

 「最初は刺さった部分が痛みましたが、今は何ともなぅっ」

 話す途中で腹部に内側から殴られたような衝撃と痛み。井戸はたまらず腹を抑えた。

 異形の笑いと「もらった」の輪唱がぴたりと止む。

 痛みの引かない腹部から何かがせり上がってくる。井戸は体を折って何度もえづき、こぶし大のものを吐き出した。

 胃液に濡れててらりと光る黒いそれには、ふたつの目玉とひとつの口が付いている。異形を小さくしたらこんな感じだろう。

 「どうして……どうして……」

 弱々しい声で小さな異形が言う。

 崩れかけた黒い体に棒状の物が突き刺さる。小さな異形はびくりと痙攣すると、喋りも動きもしなくなった。

 「殺したんですか」 

 井戸の言葉には答えず、異形に止めを刺した人物は井戸に向き直る。同年代と思しき青年だった。異形とやり合っている時に怪我をしたのか、頭から左の眉の端を掠めて血がだらだらと流れている。

 「お前、何者だ」

 「井戸といいます」

 「怪異に入り込まれてどうして無事でいられた」

 「分かりません」

 「分かない訳があるか。ただの人間が怪異にやられて平気な筈がない」

 「そう言われても……分からないことは答えよ、うぇえええ」

 また胃の辺りから何かがせり上がってきて吐いた。黒い液体だった。異形の一部が残っていたらしい。

 げほげほとせき込み荒い呼吸を繰り返す井戸。口の中が嫌な酸っぱさでいっぱいだった。

 「……わか、分からないことは、答えようが、ないです」

 井戸は口の端から垂れた唾液を拭いながら言いかけていたことを繰り返し、それきり黙って息を整える事に専念する。

 青年も立て続けに嘔吐して消耗した相手を問い詰めるのは気が引けるのか、しばらく無言の時間が続いた。

 やにわに場違いなほど明るい電子音が鳴る。青年は怪訝な顔をした。

 「私の携帯です。失礼します」

 井戸は制服のポケットから出した携帯の画面を見る。思った通りの相手だった。

 「もしもし、こんばんは。はい、私です……いえ、日直と買い物で遅くなりました。変なお化けみたいなものに襲われましたが、通りすがりの方に助けていただいたので大丈夫です……はい、怪我もありません」

 「首」

 「あ、すみません、首に何か刺されました。軽い傷なので問題はありません。後で薬を塗っておきます。詳しいことは帰ってから説明します。では失礼します」

 通話を切って携帯をポケットにしまう。

 「私はこれで。助けてくれてありがとうございました」

 「待て待て待て。話何も終わってない」

 「首とか擦り傷とか、早く消毒したいんですけど」

 立ち上がった井戸を青年が引き留める。彼自身も立とうとしたが、顔をしかめて動きを止めた。

 「そちらも早く手当てした方がいいと思うんですが……」

 「ほっとけ」

 「さっき体当たりしてごめんなさい」

 「あれは助かった」

 「……」

 「……」

 「では失礼しま「待て」

 「……妥協点を、探しませんか」

 私は帰って怪我の手当てをしたい、と井戸が言う。そちらは、私から話を聞きたい。落とし所を探しませんか。

 「どうやって」

 「例えば、近くで消毒液とガーゼを買ってきて手当しながら話をするとか」

 「この辺、薬局もドラッグストアもないだろ」

 「私が一度帰って怪我の手当をしてから戻ってくるとか」

 「戻ってくる保障がない」

 「じゃあもう家に来てください。それなら逃げるもなにもないです」

 井戸がそう言うと、青年は狐につままれたような顔をしたが、怪我に響かないようゆっくり立ち上がった。



 「さっきのオバケみたいなやつは、かいいっていうんですか?」

 場所は井戸が借りているアパートの一室。居間として使っている部屋で、井戸と阿澄と名乗った青年はそれぞれ自分の怪我を治療しながら話をしていた。

 「怪しいに異なるで怪異。人や常識とは異なる怪しい奴らって意味だ。霊とか妖怪とか呪いとか色々いるけど、普段は一纏めにして怪異って呼ぶ。そこにいるだけの無害なやつから、積極的に他の生き物を襲う有害なやつまで色々いる」

 「さっきの怪異は?」

 「有害」

 消毒液を染み込ませたガーゼで傷口の汚れを取る阿澄が痛えと顔をしかめた。

 「ここ最近、この町で急速に穢れが濃くなっている。生き物の負の感情から出るもんだ。それ目当てに質の悪い有害な怪異が集まってきている」

 「どうしてですか」

 「わからない。それを調べるために俺が寄越された」

 「お一人でですか」

 「人手不足なんだよ」

 俺のことはいいだろ、と阿澄は鬱陶しそうに手を振った。

 「今度は答えてもらうぞ。お前は何者だ?ただの人間が怪異に入り込まれて平気なんてこと、普通はありえねえ。何かしらの理由があるはずだ」

 「理由って言われても……」

何と答えたものかと考えていると、ピンポーンとドアチャイムが鳴る。インターホンを確認した井戸はあれ?と首を傾げた。

 「すみません。目付け役の方が来ているので、上がってもらっていいですか?」

 「目付け役?」

 「私より説明が上手い人です」

 井戸は返事を聞かずに玄関へ向かう。居留守を使うという考えはないらしい。

 玄関でいくらかやり取りの後、居間で待つ阿澄の耳に「お邪魔します」という声、靴を脱ぐ音が聞こえた。

 


 三村と申します、とその女性は折り目正しく頭を下げた。

 「お嬢さんの目付け役をしております。先ほどはお嬢さんを助けて頂いたとのことで。どうもありがとうございました」

 「いや、こちらこそ……」

 年上の人間に丁寧な対応をされた阿澄は戸惑う。橋渡しを期待した井戸はお茶を入れると台所へ立ってしまった。

 「大体の事情はお嬢さんから聞いています。阿澄さんが知りたいのは、怪異に襲われたお嬢さんが無事な理由、ということでよろしいでしょうか?」

 「はい」

 「家の決まりのため、詳しくは申し上げられないのですが、お嬢さんの中には強い力を持った方がいらっしゃいます。その方がお嬢さんをお守りしてくださったのでしょう」

 「……強い力?」

 「人では及ばないくらいの力を持った方です。すみません、これ以上は言えません」

 三村は口を噤む。阿澄は内心の困惑を隠しきれなかった。

 井戸が無事だった理由は分かったが、その大元については何も分からないままだ。強い力を持った方とは誰なのか。そもそも、井戸は何者なのかという疑問はそのまま残っている。

 「そんなに凄いわけでもないんだけどね」

 井戸でも三村でもない声だ。はっと顔を上げると、盆に湯気の立つ急須を乗せた井戸が立っていた。

 「僕はただの居候だよ」

 「……は?」

 井戸ではないと感じた。今しがたまでの無気力な表情とは違い、困ったような顔で笑っている。

 三村の強い力を持った者が中にいるという発言からして、二重人格というやつだろうか。

 「温かいお茶でよかったですか?」

 気づいた時には、井戸の声と表情はもとに戻っていた。

 「……阿澄さん、お聞きしたいことがあります。あなたは怪異対策局という組織から派遣されたとのことですが、今晩のことは報告されるのでしょうか」

 「報告します。何ならここで電話させてもらってもいいぐらいです」

 「それは……いいお考えですね」

 向こうの都合とやらで詳しい事情を話さない三村へのささやかな皮肉のつもりだったのだが、意に反して三村の反応は肯定的だった。

 「私もお嬢さんのご実家に連絡しなければなりません。報連相は鮮度が命。お互い今連絡するのがいいでしょう」

 では早速、と三村は自身のスマホを取り出し、部屋の隅に移ってどこかへ電話をかけ始めた。

 井戸を見るが、我関せずといった様子でお茶を飲んでいる。

 自分がおかしいのかと内申で首をひねりながら、阿澄も支給されているスマホで怪異対策局の番号をタップした。

 公園で遭遇した怪異、井戸について。先程までのことを一通り報告して電話を切る。三村の方も話は終わったらしく、スマホをしまっていた。

 「報告も終わったんで、俺は失礼します」

 これ以上の情報は探れそうにない。期待の持てない場所にいつまでもいるのは時間の無駄だ。阿澄は出されたお茶を飲み干して立ち上がる。

 「さようなら。お大事に」

 「お気をつけて。おやすみなさい」

 井戸と三村に軽く頭を下げてアパートを後にした。調査に戻るため夜道を歩いていると、マナーモードにしていたスマホが震える。さっき報告をした怪異対策局からだ。

 「阿澄です……はい。 …………はい? ……はあ!?」

 相手からの通話が切れた後、阿澄はスマホを持ったまま呆然と立ち尽くす。風で飛ばされたビニール袋の音に我に返ると、歩いてきた道を駆け戻った。

 

 

 「どういう、ことだ」

 井戸が住む部屋のドアチャイムを鳴らした阿澄は、ドアを開けて顔を覗かせた井戸に開口一番に問いただした。

 「何がですか」

 「ついさっき、対策局から連絡が入った。今回の件の調査に、お前を同行させろって話だ。お前かお前の実家が何かしたのか」

 「私は何もしていません。その話も初めて聞きました。何かしたなら、実家の方です」

 井戸は室内を振り返り、三村さーん、と目付け役を呼んだ。

 「阿澄さんの調査に私が同行することになっているそうなんですが、三村さんはご存知ですか?」

 「いえ、私の方にも……」

 三村が否定しかけたところに、シンプルな音が割って入る。三村のスマホが鳴っていた。

 「失礼します。 ……はい。ええ、……はい、承知いたしました。お嬢さんにお伝えします。 ……はい、では失礼いたします」

 通話を切った三村は、「今、連絡が来ました」と井戸と阿澄を順に見る。

 「お嬢さんを阿澄さんの調査に同行、協力させるようにとのことです。 お嬢さんのご実家、阿澄さんが所属されている怪異対策局、双方の合意によるものだそうです」

 井戸は頷き、阿澄は信じられないとばかりに瞠目した。

 「危険すぎる。三村さん、あなたは納得するんですか。俺は井戸の命の保障なんてできませんよ。井戸もなんか言え、自分のことだぞ!」

 「私は口を挟める立場ではありません。それに、当主がお決めになったことなら何を言っても覆りはしないでしょう」

 「特に文句はないです」

 薄すぎる反応に阿澄は頭を抱えたくなった。

 「……命の保証もされないぞ」

 「はい。足手纏いになったら見捨ててください」

 わかっているのかいないのか判然としないが、断念させるのは難しそうだ。

 「今日から同行したほうがいいですか?」

 井戸の問いかけに弱く首を横に振る。

 「俺もお前も怪我してるし、今日は俺だけにさせてくれ……万一、二人で共倒れになったら目も当てられねえよ」

 阿澄は肩を落として大きな溜息を吐く。こちらが折れるしかなさそうだった。

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