第5話

 翌朝、ダンは自分の部屋から、ユーを隣のアパートメントまで送り届けてきた。ユーは引きつったような笑顔を浮かべながら、ダンに手を振って、自分の住居へ帰っていった。

 未練がましく、彼女が去った後も突っ立っていると、郵便配達員に白い目で見られ、そそくさと自分の部屋へ帰った。窓際を見ると、手紙が置かれている。昨晩から窓は開けていない。彼女が去り際に置いていったのだろうか。ダンは鼻歌交じりに封を切った。

《さぞ仲がよろしいようですね。そう、私ではなかったのですね……貴方が楽しみにしていた人とは、私ではなく……私ではなく!》

 最初、ダンは無意味に字を追った。文字は記号ですらない。ただのインクだった。何回か読み返して、ようやく文字の羅列は文となり、意味を取り戻した。同時に、筆跡の乱れも見られ、いつしかダンの手は震えていた。

 手紙の相手は、ユーではない。

「嘘、だろ」

 ダンはうろたえた。しかし、落ち着かなければならない。サプリメントを十数錠出して、水で流し込む。混乱していた脳みそが引き締まるような思いがした。まずは身の安全を確保すること。そして、ユーにこの事実を伝えることが先決だった。相手は部屋に入り込んで手紙を置いていくような人物だ。狂っている。それもかなりだ。もしかしたら、この手紙の主は嫉妬のあまり、ユーを殺してしまうかもしれない。

「ユー……!」

 脳裏に血みどろになった彼女の姿が浮かぶ。ユーはまだ窓から顔を出していない。ダンは家を飛び出し、隣のアパートメントへ急いだ。四階まで駆け上がり、クレア・パーレイの表札を探す。

「そんな……馬鹿な」

 しかし、パーレイという名の表札はどこにもなかった。四階のそれらしき部屋は、表札のない空き部屋になっている。階を間違えたのだろうかと、念のため、上下の階を見て回ったが、やはりない。どもりながら住人に聞いてみる。「ここに肌の真っ白な東洋人の女性は住んでいないか」と。答えは決まって「ノー。知らないね」だった。

 エッジの効いた世界で、脳は猛スピードで空回りを始める。状況を理解しなければならない。しかし現状を頭の中で整理しようとするほど、それらは絡まって思考の流れを詰まらせた。部屋に戻り、窓を見やる。やはり目の前の部屋は四階だ。空き部屋だったはずだ。けれどそこには、ユーが窓枠に肘を突き、煙草をふかしていた。

「ユー……」

「やあ、ダン。ずいぶんと汗をかいてるじゃないのさ」

「君は……君はなんなんだ? いったい君は誰なんだ? 本当の名前は? クレア・パーレイは偽名なのか? い、いや、それよりも、一緒に」

「質問が多いよ。一度にたくさん言われると、重くなるじゃないのさ」

「重く……なる?」

「ああ、重く、ね」

 ユーは濃い煙を吐き、ダンに向かって指を鳴らした。呼応するように、高い電子音が鳴る。ダンは振り返る。コンピュータだ。ファンが回り、低い音を響かせて、勝手に起動している。ディスプレイにプログラミング画面が現れ、白いカーソルが点滅し、ひとりでに文字が入力されていく。


I am Claire Purley.

Everybody call me U.

Claire Purley = U.

C.P.=U.

I am C.P.U.

…Yes, I am your device.


 白黒の画面がちらついて、スノーノイズを起こす。大量の蟻が蠢いているかのような画面が、うぞうぞと波打って、人の顔を作り出す。窓の外でタバコをふかしていたにいた彼女は消え、ユーは今、ダンの目の前にいた。

「君は……」

 コンピュータなのか、そう口にしようとすると、背後で何かが落ちる音がした。

 すぐさま振り返る。絵画だ。時計の隣に飾っていた、あの人物画が落ちた。そしてその、カンバスの裏地にダンは目を奪われる。布を張られた木製の枠には、アンティークな封筒がびっしりと挟まれている。

 差出人は全て、ダニエル・スペンサー。

 紙の音がする。手紙に使っていた便箋が、ひとりでに動き出した。ペンも宙を浮き、窓を閉めて紙にその先端を滑らせる。鋭い動きでペンはしばらく字を書いた後、壁に便箋を突き刺して、その粗い筆跡を見せつけた。


《貴方のことは、私のほうがよく知っているのに……貴方の好きなもの、嫌いなもの、全て知っています。大学で苦労して、勉強を続けたことも知っている。進路で葛藤し、就職に悩んだことも知っています。結局貴方は芸術を作ることから離れてしまいましたが、それでも、一人暮らしをすることになって、この家に連れてきてくれた時は……どんなに嬉しかったことか……。そんな貴方にも、恋人ができ、妻ができ、家庭を持つようになる。それは覚悟していました。私と貴方では、どう頑張っても一緒にはなれないのですから……けれど、貴方が選ぼうとしているのは、人間ですらない……そう、人間ではない! 白く無機質な、あの女よ! 私にも権利があるはずだわ! どうして……どうして私を、選んでくださらないの? 私は、貴方をずっと、ずっと想い慕ってきたのに!》


 床に落ちたカンバスが震えだす。裏地に挟まれた手紙を落としながら、それはゆっくりと起き上がっていく。指が、腕が、長く美しい髪が、布地から這い出てくる。サイケデリックなドレスを着た女が、カンバスから上半身を乗り出していた。

「ダン、私よ……エルよ。覚えているでしょう?」

 エルは両手で床を這い、ダンに近づいてくる。木枠が床を擦る音が、ダンには自分の首を締める縄の音に聞こえた。彼はなにも口にできない。ただ恐れ、窓際に後退るだけだ。

 今度はキーボードが落ちた。ディスプレイから、白い腕が飛び出してくる。デスクに手をつき、長く艶やかな黒髪が見える。ユーの上半身が、ディスプレイから這い出てきた。

「昔の女はさっさと失せな。ダンが怖がっているじゃないのさ」

「『今の』女よ。貴女が出てくる幕はないわ。私のほうが、ダンとの付き合いは長いのよ」

「ハッ、付き合い?」

 ユーをエルはキツく睨みつけた。ユーは構わず、引きつったような笑みを返す。はっきりと、侮蔑の意味を込めて、嘲笑った。ディスプレイに手をかけ、ユーの体が完全に外に出た。彼女はポケットから出した煙草に火を付け、濃い煙を吐く。

 そのまま彼女は、エルの額縁にブーツをかけて揺らした。

「ちょっと、やめて!」

 もがいて脚を払おうとするエルを、ユーは煙草の火で牽制しながらぐらぐらと動かす。

「馬鹿ね、アタシはダンがプログラミングを始めた時からいるのよ。四六時中、いつだってダンと向かい合ってきた。一緒に仕事をしてきた。この生活を作ったのは誰さ。他でもない、アタシとダンよ。アンタは大人しく、壁にかかっている方がお似合いだわ。時計と仲良くヤってりゃいいじゃないの、さ」

 言いながらユーはエルの額縁を蹴飛ばす。エルは悲鳴を上げて倒されてしまった。思わず手を伸ばしたダンに、ユーは腰を揺らしながら近寄ってくる。

「ね? そうだろ、ダン? アタシこそが、アンタのパートナーだ……昨日だって、あんなに、したじゃないのさ……」

 体をすり寄せ、煙草をダンに吸わせようとする。それを見るやいなや、エルは荒々しく体を起き上がらせ、素早く這い寄ってその煙草を弾き飛ばした。舌打ちをするユーの頬を、エルが返す手で強く叩く。

「そんなもの、ダンに吸わせないで!」

「なにすんのさ、焼かれたいの?」

「いいから、ダンから離れて。仕事仲間が勘違いも甚だしいわ」

「ハッ、勘違い? アンタこそ、勝手に恋してそれがかなわないからって、みっともなく騒いでんじゃないわよ。ただ飾られているだけで、貴方を見守っています? 笑わせるじゃないのさ。そんなんだから、半分しか出て来られないんだよ。ねぇ、ダン? 断然アタシだろう? 選ぶならさ」

「ダン、騙されないで。私を見て、私が、私こそが貴方のことをわかっているわ。ねえ、目を覚まして? こんな尻軽、きっと貴方を裏切るに決まっているわ。ねぇ、私を、私を選んでくれるわよね?」

 二人がダンに迫ってくる。答えを求め、詰め寄ってくる。ダンはじりじりと窓際に追いやられていく。

「アタシだろ、ダン」

「私でしょう、ダン」

 ダンは、答えなければならない。しかし、答えることができない。好きかどうかで言えば、恋しているのはユーだ。だが、エルに思い入れがないわけではない。しかし、どちらか片方が選ばれれば、殺し合いになりかねない。いいや、二人は間違いなく、殺し合い、そしてダンの命すらも奪いあうだろう。二人の目は血走っていた。自らの存在価値の全てを、ダンの選択に委ねている。

「ダン、どうしたんだい」

「早く決めてみて」

「簡単じゃないのさ」

「ほら、素直に言えばいいだけ」

 答えを催促される。首を左右に振ることすら許されない。二人の口調は強くなる。

「早くしなよ」

「どうして悩むの」

「もう答えはわかっているはずさ」

「あとは言葉にするだけじゃない」

「ほら」

「早く」

「ほら!」

 ダンの頭の中で、二人の声が反響する。もう誰のものだかわからない声すら、頭蓋の中を跳ね回っていた。永遠と名前を呼ばれ、答えを求められる。答えを、出さなければならない。しかも今すぐ。悩む時間はない。しかし答えはない。そんな中だった。

 ダンはひとつだけ、答えを導き出した。ここにいるから、答えを求められる。こんな問題、すぐに答えが出るはずがない。そうだ、逃げるしかない。外に出よう、と。

 ダンは逃げ道を探す。すぐ後ろに、窓がある。ダンは窓を開け放ち、桟に足をかけて飛び出した。

「あ」

 今更すぎる後悔が、彼の口から出てきた。一人の男が、四階からアスファルトに叩きつけられた。



 ダンは病室のベッドで横になっていた。首と右腕、右足にギプスをつけている。枕元では、紺色の制服に身を包んだ、恰幅のいい男が座っていた。左腕には、警察のエンブレムが光っている。

「あー……怪我人にあんまり言いたくはないのだがな。ダニエル・スペンサー。お前を幻覚剤LSD所持、薬物規制法違反で逮捕する」

 ダンの目の前に、いつも口にしていたサプリメントのボトルが見せられる。ダンは頷いた。

「違法なことは知っていたな?」

 ダンはもう一度頷く。

「なぜ持っていた」

「捨てるタイミングを失ったというか、精神安定剤として、ばれなければいいか、と」

「まったく……よく聞く言葉だ。その怪我では連行はできないが、しばらくは警察の監視下に置くぞ。治ったらすぐに裁判だ」

「はい」

 警察の冷たい視線にすら、ダンは安堵していた。刑務所ぐらしだろうと、なんだっていい。ただのサプリメントだと、自分に言い訳をして逃げ続けていたLSD。今でこそこうして離れて見ることができる。もう頼まれたって飲みたくない。ダンは苦笑した。裁判や刑務所暮らしは辛いだろうが、自分に迫ってきたあの二人が、LSDの見せていた幻覚だったということが、ダンには救いだった。

「ああ、よかった」

 ダンが呟くと、警察官は怪訝そうに視線を向けたが、薬のことだろうと納得したのか、また視線を外し、思い出した様に手を叩いた。

「そうそう。お前、煙草の不始末には気をつけろ。部屋がほとんど燃えていたぞ?」

「煙草…………煙草だって!?」

 ダンは体を跳ね上がらせ、痛みに悶えて縮こまる。警察官は呆れた様子で肩をすくめた。

「火事はお前の部屋だけですんだがな」

「どうして、煙草なんて」

「部屋の隅で見つかったそうだ。ちゃんと火も消さずに投げ捨てるなんて正気か? あるいは、そこに水溜りでも見ていたのか? おい……まさか、他に仲間がいたんじゃないだろうな? 手荒な真似ができないわけでは」

 ダンの姿を見て、警察は目を鋭くして問い詰めた。だが、その声はダンの耳には届かない。彼は一人、ベッドを汗で濡らしていた。


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ミクスライン 馬頭 @ba-to

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