第2話

 なにかが落ちる音で目が覚めた。ベッドの上で足を大きく上げ、反動で起き上がる。目をこすりながら見てみると、壁にかけてあった油絵が落ちていた。一番大切にしている絵だが、よく落ちる。定期的に埃が落ちて掃除の手間が省けるのだが、大切なものが落ちていい気分はしない。

 ベッドから降り、絵を拾った。頬を風が撫でる。ダンは窓を開けて寝ていたのを思い出した。おそらく、部屋に入り込んだ風で落ちてしまったのだろう。ダンは窓を閉めながら、絵を軽く払って、壁に戻した。

 キッチンで簡単な朝食を済ませ、デスクに戻る。休んでいる暇はない。サプリメント数粒飲んだら作業開始だ。コンピュータのパワーボタンを押し込み、起動を待つ。少し脚を伸ばすと、がさりと乾いた音がした。

「ん?」

 違和感を覚えてデスクの下を見やる。手紙があった。昨日と同じ、シーリングワックスを使った古風な手紙だ。机に放ったのが落ちたのかと、拾って座り直すと、机には手紙がもう一通ある。それは、昨日と同じ場所に置かれていて、少しだけ埃が被っていた。

「新しい……手紙?」

 ダンは首をひねりながら、蝋の封を切った。中には昨日と同じく、古めかしい便箋が一枚。しかしインクは濃く、比較的最近に書かれていたものだ。

《お仕事、ご苦労様です。昨日は失礼しました。突然のお手紙、きっと驚かれましたね。私は何もできませんが、いつもあなたを見守っております。それでは》

 背筋が凍りついた。誰かがあの手紙のことを知っている。いや、それだけならまだしも、誰かが自分の生活を見ている。ストーカーを知らないわけではないが、まさか自分が被害者になるとは、ダンは微塵にも思っていなかった。しかし、ストーカーを無意味に刺激すると、それは自分に危険を及ぼすらしいということも聞いていた。ダンはひとまず、すぐにでも捨てたいその手紙を、丁寧に封筒に戻して昨日の手紙と同じ場所に重ねた。

「……仕事しよう」

 まとわりつく悪寒から逃れるかのように、画面に目を向けてキーボードを叩く。ひたすらに上からの命令だけを頭に入れ、指を動かすようにした。

 とはいえ、目の前にそんな手紙があって、集中などできるものではない。ものの数十分もすれば、いつの間にか画面から手紙の方に目がいっている。それすらも見られているかもしれない。気味が悪かった。ダンは頭をかきむしり、ふらりと立ち上がる。

「外、行こう」

 こうなっては、家の中にいるのが不気味で仕方がない。ちょうど昼食時でもあった。服を着替えて、サプリメントを数粒噛み砕き、ポケットに財布を突っ込んで外に出る。

 隣のアパートメントには、ユーがいた。昨日と同じように、階段に座って煙草をふかしている。どう声をかけたものか、ダンは困った。自分の部屋で話した時と同じく、余裕を持った態度が取れればいいのだが、どうにもそうはいかないらしい。

 ダンは、ろくに女と話したことがない。あるとすれば昨日の特例か、幼いころ、まだ六歳にも満たないころに、幼稚園の女の子と無邪気に話したくらいだ。

 ユーは、女だ。間違いなく。あの艷やかな髪と、長いまつ毛、神秘的な顔立ちはそうあるものじゃない。生殖機能も最盛期を迎えている、生物的に見てもイイ女だ。今日は妙に意識してしまう。なぜだ。ダンは自分に問いかける。答えは帰ってこなかった。

「仕方がない」

 反対側を通っても、住宅街しかない。昼食を食べるのにわざわざ彼女を避けるのも馬鹿らしい気がした。何の気なしに、目の前を通り過ぎればいいだけだ。ダンは両手をポケットに突っ込んで、そそくさと足を進めた。ちょうどユーの目の前にさしかかろうという瞬間、突然ユーが体を飛び出させ、ダンの前に直立した。

「どこ、いくのさ?」

 ダンが驚いた声を上げるよりも早く、ユーは至近距離で彼を見つめて口にした。危うく煙草の火が触れるところだったが、彼女は気にする様子もなく、口角を上げている。ダンは慌てふためきながら、まくし立てた。

「な、なに、何をっ、考えているんだ! あぶ、危ないじゃないか! 火傷をするところだったぞ!」

「いいじゃないのさ。当たらなかったんだ」

 悪びれる様子もなく、ユーは煙を吸い、唇から吐く。薄灰色の煙が二人を包んでいき、彼女は指で灰を弾き落としながらダンを見つめた。

「で、どこいくのさ?」

 もっとまくしたててやるべきだろうか。ダンは少し息を吸って言葉を溜めたが、やめた。罵る言葉が彼のボキャブラリーには少なすぎた。それに気づくと、抗議する気持ちすらしぼんでいく。結局、彼が情けなく口にしたのは、

「ち、昼食を、食べに、いくんだ」

 という言葉だけだった。ユーは煙草をふかしてふぅんと唸る。

「ねえ、ダン」

「え、あ、なに?」

「アタシも一緒にいっていいかい?」

「あ、うん、うんっ、よ、よかったら」

「そう」

 ユーは少し間を置いてから笑った。引きつってはいるが、昨日よりはいくらか柔らかい印象を持つ。ユーはダンに近づくと、彼の手を握り、指を絡めた。

「煙草、吸う?」

「す、吸わないことは、ない、けれど」

 忙しなく視線を動かすダンに、ユーは自分が口にした煙草を、そっとダンの唇に挟ませた。フィルターが生暖かく、甘い味がする。吸うと爽快なメンソールが肺に満たされた。今まで吸った煙の中では、一番、美味い。いつまでも吸っていたいと、ダンは思った。何かから開放されたような気持ちさえした。

 ほとんど彼女に引っ張られるようにしながらも、ダンが案内してファーストフードの店に入った。ここは田舎だから、大して人も入っていない。客は二人だけだった。揃ってホットドックを頼み、席につく。

 ユーはじっとホットドックを見つめた後、少し観察してから口にした。無表情のままだが、気に入ったのだろう。彼女はそのまま無言で食べ続けていた。ダンもその姿を見ながらちびちびと食べていく。

「ダンは、何してるのさ」

 もう半分ほど食べ終えてしまったユーが、口の中を水で流し込んで聞く。

「何って?」

「仕事。部屋にコンピュータなんてあったから」

「ああ。プログラマーだよ」

「へぇ。最先端ね。絵とか写真とかあるから、もっと違うのかと思った」

「あれはハイスクールの時の趣味だよ」

「でもアタシ、好きよ、プログラマーって」

 口に運ぼうとしたホットドックが止まる。ユーがじっと見つめてきていた。三白眼だが、よく見ると猫のようで可愛らしい。ぞくりと、背筋が凍るような感覚がした。しかしダンは、それに不快を覚えなかった。それどころか、心地いい。魅力的だった。ダンは混乱した。この女は、俺に気があるのだろうかと。彼女に確かめる勇気があればいいのだが、ダンの懐にはそんなものはなかった。

 店を出て、二人は帰る。ユーは足取りが軽いように見えた。そして彼女は、ダンの手を握って離さなかった。口元には、引きつったような笑みを浮かべて。

 軽く別れを告げて、お互いの部屋に戻る。さっそくダンは、キーボードに手を置いて、仕事を始めた。彼の意識からは、すっかり朝の手紙は消えている。

 不意に、歌声が聞こえてきた。外から、若い女の歌声がする。窓の外を見やると、隣のアパートメントの、目の前の階にユーの横顔が見えた。外見とは裏腹に、穏やかな歌を口にしている。ダンは窓を開け、その歌を聞きながら仕事をした。さながら、彼はピアニストだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る