ミクスライン
馬頭
第1話
どちらがいいか、ダニエル・スペンサーはいつも迷う。たとえば散歩だ。道を行くにも、右に行こうか左に行こうか、目的がなければどちらとも決めかねる。いや、目的があってもそうだ。道の長さや人の混み具合を始め、関係のない要素に悩まされる。悩むことが嫌いというわけではないが、仕事や人生など、決断が大きく左右する場面では、彼は困ってしまう。その点、プログラミングというのは彼にとっては得意な仕事だ。どんな手段をとるのかは、すでに上から命令されている。あとはそれに従って指を動かすだけでいい。もっとも、それゆえにまとわりつく問題もあるのだが。
「あった……」
やつれた声でため息混じりに、ダンは指を動かした。半角で一つ打つ文字が、一箇所だけ二つ打たれていた。白黒画面のミスを訂正し、プログラムを起動、ようやく正常に動き出す。不具合は解消された。早速ダンは、データをメールに添付して、職場に送る。四角い無機質なバーが現れ、徐々に送信されていく。
催促されていた仕事が終わったかと思えば、また別のプログラムを組まなければならない。データは全てメールの送受信でやり取りを行うため、出社の必要はないが、その代わりに仕事が多いのが難点だ。
「ああ、くそ。頭がパンクしそうだ」
背もたれに大きく体を預け、頬に手を当て、一人なんとなく呟いた。誰がいるわけでもないが、彼はそれが癖だった。ハイスクール時代、在籍中ずっとギークに居座り続けていた彼らしいといえば彼らしい。
コーヒーを淹れるため、席を立ち上がった。キッチンに立つと、彼の住むアパートメントの一室がよく見える。ダンはポットを火にかけながら、気分転換に自分の部屋を眺め、血が詰まったかのような脳を整理した。
壁際にはベッドが置かれ、そのすぐ隣にはデスクとチェア、箱状のコンピュータが置かれている。キッチンのすぐ脇には食事用のテーブル、壁にはハイスクール時代に手がけた写真や絵が飾られていた。
ダンはそれらの絵を一つ一つ見ながら満足気に口を緩める。
「いい部屋だな。贔屓目を差し引いてもそうだ」
プログラマーであり、ギークであった彼を、たいていの人はまず、無粋な合理主義者として線でくくる。しかし、それは誤解だ。
彼は美的センスを大事にしていた。
写真クラブや美術クラブに出入りしては、自分の作品を手がけていたし、それがこうして部屋の壁に飾られている。風景や人物、その種類は多岐にわたっていた。傾向をあげるならば、絵画はサイケデリックな色合いがよく使われている。
ポットが鳴り、お湯が沸いた。インスタントコーヒーをカップに淹れ、ダンはデスクに戻った。キーボードの側にマグカップを置きながら、机の隅に置いたボトルに手を伸ばす。蓋を開け、中から明るい色のサプリメントを取り出し、それを口に放った。健康管理のためだ。たとえプログラミングが得意だとはいえ、四六時中画面を見続けていたら気が狂ってしまう。ほんの数分時間を忘れ、休憩がてら窓から外を眺めた。乱立したアパートメントの合間から青空が見える。ぼやけていたアパートメントの輪郭が、ぐっと角を張って強く見え、青空はいつもより発色を良くしている。空に一羽、鳥が飛んでいた。
もう何年も、ダンは人と話していなかった。たとえ会話をしたとしても、それはイエスかノーか。いくつだ、いくらだ。あっちか、こっちか。損か得かと、そういう選択を迫る会話しかしていない。ダニエル・スペンサーという一個人と話そうという人間はいなかった。
「あの鳥も俺と同じだな。でも、気にすることはないさ。物質的関係とウェブリンクがあればそれでいい。問題はないさ。孤高に飛ぶのもいいじゃないか」
ふっと鼻を鳴らし、彼は自分の言葉に満足気に笑みをこぼしながら、ディスプレイに目を戻した。
送信中のバーはまだ半分ほどしか満たされていない。ダンはカレンダーを見て、三日後の休日がなくなるだろうことを予想した。その怒りをパソコンに向けようとするが、かといって通信速度が早くなるわけではない。頭をかきむしって大きくため息をついた。
「そうだ。カルシウムだ。ストレスやいらだちにはそれが効く」
呟いてマグカップ片手にキッチンへ向かう。まだ少ししか飲んでいないインスタントコーヒーをテーブルに置き、冷蔵庫からミルクのボトルを取り出す。
「ん?」
大型のボトルはほとんどが白色の透明になっていて、底の方に色の濃い白が残っているだけだった。
「しかたがないな。買いに行こう」
残り少しのミルクをコーヒーに注ぐ。少し足りないが、熱いコーヒーを冷まし、ミルクは渦巻いて、コーヒーをモカ色に変えていった。それを飲み干して水につけると、他にもストックが切れてしまっているものはないかと探しまわる。結局、玉ねぎとケチャップ、マスタードに歯磨き粉がないことがわかった。
「なんだよ、思わぬ出費だ……参ったな」
ぶつくさと呟きながら、ダンは買うものをメモにとり、財布をポケットに入れて外へと出た。
アパートメントの正面には、マーケットがある。品揃えはあまり良くないが、生活していく上では困らない。三ブロック先までなら、店のカートに入れたまま、家まで運んでいいというのが大量の買い物には好都合だ。
独り言を漏らさないように注意しつつ、メモを確認して歩道に出る。車の通りはないが、一応左右を確認する。すると、隣のアパートメントの入口で、妙な女が道路に向かって座っていた。その女は入口の階段に座りながら、細い指で挟んだ煙草をふかしていた。指だけでなく、体の線が全体的に細い。肌は白く、服は黒い。鼻筋は高いが、目元が切れ長だ。長い黒髪を背中まで伸ばしている。
「東洋系か」
ダンは小さく呟いたつもりだったが、その女には聞こえていたらしい。切り揃えた前髪の下で、彼女は目だけを動かし、横顔のまま彼を見た。まずいことをいったとダンは後悔し、因縁をつけられる前にとマーケットへ足を向ける。
しかし、彼女がそれを許さない。素早くキビキビとした動作でダンの前へと回り込み、引きつったような笑みを浮かべた。
「兄さん、買い物?」
ダンは息を呑んだ。横からは見えなかった顔には、刺々しいピアスが、耳と、鼻と、唇に付けられていた。しかしその一方で、まつ毛が長く印象的でもあった。
「ねえ、兄さん」
女は返答を求めて再度聞いた。
「あ、え、は、はは、はい。か、かかか、かっ、買い物」
ダンは口どもった。普段独り言を口走る割には、いざ他人と顔を合わせて話そうとすると、舌も唇もうまく動かない。女は口元をニヤつかせていた。
「そう」
彼女は短くいって、またアパートメントの入口に腰掛け、煙草を口にした。綺麗な反射光が、長い髪に何重にもかかっている。女の肌は透き通るようで、むしろ青白かった。ここまで白いのは、白人でもそういない。少々病的な外見の彼女を置いて、ダンは逃げるようにマーケットへ入っていった。
買い物中も、彼女があの場所から離れることはなかった。ダンは時々ちらりと彼女の方に目を向けると、彼女は決まってダンを見ていた。
「なんでいるんだよ……」
なんとか出かけるなり、アパートメントに引っ込むなりしてくれないかと、既に買うものが全て乗ったカートを押す。ダンはマーケットを一回り二回りするが、彼女の足元にも吸い殻が一本二本と増えていく。とうとうダンは観念し、キャッシュカウンターを抜けてカートを押していく。
アパートメントに帰れば当然彼女が視界に入るのだが、無視してカートの荷物を紙袋に詰め直していく。
「兄さん、それ、どこに運ぶのさ」
隣から彼女が話しかけてくる。妙に声が近い気がした。ふとダンが顔を向けると、無表情な顔をしたまま、彼女はほんの数センチ隣に立っていた。鋭い三白眼が、彼を捉えて離さない。ダンが答えに困っていても、彼女は微動だにせず、その口から答えが出るのを待っていた。
「ど、どこ、どこどこにって、自分、の、部屋」
「部屋って、どこ?」
「よ、四階、四階だ。隣の、四階。七番部屋で表札はダニエル・スペンサーで角の部屋だ」
ようやくまともに口が動いたかと思うと、今度は余計なことまでべらべらと喋ってしまう。思い通りに動かない舌に苛立ちつつ、表情に出さないようにして女を見やる。
女は煙草の灰を落とし、アパートメントを見上げた。視線を追っていくと、四階の辺りを見ている。彼女はそのまま煙草を思い切り吸って煙を吐き出すと、吸殻をブーツで踏んでもみ消した。黒髪を揺らして視線を戻した彼女は、カートからひょいひょいと品物を取り出していく。
「運ぶよ、ダン。手伝う」
「えっ……あ、ああ。そうしてくれると、助かる」
ダンはひとまず、女よりも少しだけ荷物を多く持とうとするが、彼女は重いミルクボトルに大きめの紙袋を抱えて階段を登り始めてしまう。ダンが持てたのは同じ大きさの紙袋一つだ。それにしたって重いのに、女は軽々と上がっていく。見た目に反して、ダンよりも力があるようだった。
ダンの手にする紙袋にしても、マスタードとケチャップの瓶に、食材がいくつか入っていてかなり重かった。男の自分がこんなに苦労するのに、目の前の尻の小さなこの女はなぜこんなに軽々と動いているのだろうか。ダンは荷物を抱えながら、目の前で左右に揺れる細い腰を眺めながら考えた。
「どこ見てんのさ、ダン」
不意に彼女が振り返る。
「ご、ごめん」
「ふふん」
引きつったような、得意げなような、読めない笑みを浮かべて、彼女は登っていく。
二人で四階にたどり着くと、ひとまずダンの部屋に入った。食事用のテーブルに紙袋を置いて、ダンは大きく息をつく。
「ありがとう、おかげで助かったよ。ここの階段は傾斜がきつくてさ、何往復かしないといけないと思っていたんだ。あ、いや。君は大変そうじゃなかったね」
部屋の中に入れば、水を得たようにダンの口はうまく回り出す。先ほどまでどもっていたのが嘘のようで、今は軽い余裕すら生まれていた。
「君、名前は?」
「クレア。クレア・パーレイ。みんなは、ユーって、呼ぶね」
「ユー? どうしてまた」
ユーは長い髪を手でかき上げ、首筋を見せた。白い肌にはタトゥーが彫られている。頭の方から胸元にかけて『Uision』と刻まれていた。
「これは……ユイジョン? いや、ウィジョンか?」
「正しいのは『Vision』さ。彫った奴がトチ狂ってね。おかげでこの有様さ。金も巻き上げられたし、これはこれで気に入っているけど」
ユーはまた引きつった笑みを浮かべた。表情はともかくとして、笑顔としてみていいようだ。運び込んだ荷物を、冷蔵庫や戸棚にしまいながら、ダンはキッチンに立つ。
「それは残念だったね……。そうだ、ユー。せっかく手伝ってくれたんだ。なにか飲み物でも飲んでいきなよ」
「ミルクを頂戴? 今、運んだ奴」
「まだ冷えていないぞ?」
ユーは構わないといって、テーブルについた。ミルクは冷えていた方が美味い。ダンはそう思う。しかし、彼女が言うというなら、文句をいう必要はないだろう。自分が飲むわけでもない。来客用のグラスを戸棚の奥から探し、念のため洗って綺麗にする。曇り一つないグラスに、冷蔵庫に入れたばかりの生暖かいミルクを注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユーはグラスを掴み、一気に底を天井に向けて仰いだ。細い喉を上下させて、そう時間をかけずに飲み干してしまった。上唇の回りの肌が一層白くなったが、彼女はそれを舌で舐めとった。呆然とするダンを、彼女はまっすぐに見つめて上下にだけ視線を動かす。頭の天辺から爪先まで舐めるように見回し、そして、ユーは引きつった笑みを浮かべる。
「ありがとう、ダン」
ダンが答える前に、ユーはするりと立ち上がった。黒い髪が肩から細かく流れ、揺れる。艶やかな黒い線は一本一本が軽やかで細く、空気中の酸素や二酸化炭素の粒子にすら引っかかっているかのようで、ダンはそれに見とれていた。
気がつけば、彼女は既にドアの前だった。
「じゃあね、ダン。また」
軽く手を振り、ユーは帰っていく。部屋にはダンが一人残された。ダンはしばらく、玄関のドアを眺めていた。
コンピュータから音が鳴る。ようやくメールが送信されたようだ。まだ次の仕事にかからなければならない。ダンはコーヒーを入れて、デスクについた。
サプリメントを口に放ってちらりとだけ窓の外を見ると、青い空ではなく窓の桟に目が奪われる。キツイエッジで視界に浮かんだそれを取る。手紙だった。古い紙の封筒が使われていて、赤いシーリングワックスで閉じられている。中を開くと、同じくらい古い紙が三つ折で入っていた。
《こんにちは。お元気ですか?》
文章はこれだけ。綺麗な筆跡のイタリック体で書かれている。シーリングワックスを使うような、手の込んだ手紙にしてはあまりに短い。封筒にも、本文にも、差出人は書かれていない。当然、ダンが書いたものでもなかった。
「なんだ……?」
疑問は感じる。しかし、催促するようにコンピュータから音がなった。次の仕事の指示が来ていた。ダンは手紙を机に放り、キーボードを叩いた。
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