第2章 翼羽
第二章 翼羽
1
――ふう。やっぱ商売にはなんねぇよな。……店閉めようかな。
たすくは、店番がてら読んでいた薬草の本をぱふんと閉じた。
店の奥からうかがえる通りは、人の流れが激しい。
いつもならここは人通りは少ないのだけれど、やはり『大巫』ということもあって、祭りの準備に忙しい。ややもすると気の早い連中の間には無礼講が漂っているのだから困ったものだ。
毎年のことだが、害を被らないうちにとっとと店仕舞いしておとなしくしていたほうが得策というものだろう。
本を手に、もう一度ため息。
――と、そのときふいに影が落ちた。
「――?」
目を上げる。
そしてたすくは、思いがけない人を見た。
「こんにちは」
そこにはゆのかが、柔らかな笑みを湛えていた。海の色の瞳が明るい。
――玉響の海……。
「突然、ごめんなさい。きょうから祭の準備でお暇が出たものだから、具合を診にきたの。……もう、いい具合かしら……?」
そんなことを聞かれても困る。そんな、わかりきった瞳で、わかりきってるだろうことを聞かれても困ってしまう。たすくは、自分の胸の奥で動悸が早くなるのを感じていた。
どき。どき。どき……。
目の前の少女は、都の貴人。
昨日までの少女との距離が、すっかり崩れてしまったようで、たすくはどうしてよいかわからなかった。今こうして向かい合っているのがまるで自分の知らない誰かでしかないのではないかと思ったら、どうしたことか泣きたくなってしまった。
手で、触れられなくなったあやふやなもの。
硝子細工の置物。
高価な物。触れない物。
何と答えればよいのだろう。曖昧に微笑んで、首を傾げることが、精一杯だ。
「おれ……あの……」
ゆのかは、それなのにいつもと変わらぬ清々しい笑顔。
「傷の具合がよいのなら、ちょっと出掛けましょう。こうあわただしいのでは、薬屋は仕事にならないでしょう?」
くすくす、と悪戯っぽく笑う。そんなしぐさがとても愛らしくて、初めて見た所作だったから、たすくはどきりと胸を躍らせた。
2
「あら。とまや様、そんなことを?」
からからとゆのかが笑った。あれか結局のところ、ここ数日は毎度の祭りのように開店休業にも等しいということで、たすくは店を閉め、ゆのかの誘いで邑外れを流れる川べりの土手へやってきた。
さざ波。少し海からの潮風がある。河口が近いのだ。ここ数日の雨と、満潮もあって川は増水していた。ふたりは、川の流れを見下ろしながら堤防をゆるゆると歩く。
「じゃあ、ほんとに」
「そんなに、びっくりしないでいいのよ。私は、役人ではないし。貴族待遇なんてされてないしされたくもないわ。わたしがただの邑医者だということは、たすくも知っているはずでしょうに」
困惑の声で、ゆのかはいう。
ゆのかを見返す変わりに、昨日傷つけられていた自らの腕を眺め、しかしたすくは重ねて問うた。
「でも。こういうふうな治し方ってそうざらにできるもんじゃないんだろ? 人の医師は」
「……それは……そうね」
ああ、まずい。ゆうべのとまやといいまあ、宮の連中のことは喋らずにすんだから、よかったけど、これは余計な詮索の域に入り込んでしまう問いなのだと、たすくは感じた。
何かがあるのだ。
するとまたゆのかの笑顔にあの微かな陰りがさしたようにみえ、それがなぜなのか全然わからなかったけれどたすくは硬くなった。ゆのかの静かで深い瞳が、淡く波立っているようだった。
言葉がとぎれて、沈黙が流れた。
と――その時のことだ。
たすくの目の前を、ふっ――と、何か羽虫のようなものが横切った。
まったく突然だったので、たすくが驚き瞠目してその軌跡を追うと。
それは、あはははは、とけたたましいほどの笑い声を発した。
「……んだっ!?」
鈴をいっぱい束にして転がしたようなその、どちらかというと甲高く耳に障るほどの声がその羽虫のようなものの声なのだと、たすくは悟った。
いや、これは羽虫などではない。
軽い羽音。有翼の小人。それは――。
「……もう」
ゆのかの声は咎める響きだったが、仄かに笑みを含んでもいた。
「きみ……翼羽……」
「そう。華乃由だよ」
感嘆するたすくの鼻先で、それは小さいくせに胸をそらせてひどく自慢げな格好になった。
ゆのかが、肩を竦める。
これでも彼女はゆのかの一部なのだ。
少なくとも話には「都人と翼羽は一つの魂を共有する存在」と聞いていたたすくは、面食らってしまった。だってこれは、あまりにゆのかと違い過ぎる。
勝ち気そうな黄金の眼に睨まれ、怯みながらそう思う。
小さい『彼女』はそんなことには頓着せずに、じろりとたすくを見上げてにやりと唇を歪めた。いっちょまえにえらく整った顔立ちをしている。
「あんた。翼羽に興味あるんでしょ。ああ、あたしって親切っ。……ちょっと。そうじろじろ見なくてもいいの。珍しいもんじゃないんだから!」
十分珍しいんだが、といいかけてたすくは止めた。
「……なぁに? 文句あるの?」
「いや。ない。……けど」
「あたしにお目にかかれるなんて眼福なのよ。そこんとこわかってる?」
大きな黄金の瞳がくるくると色を変えて、笑ったり突っ張ったり、とても忙しい。
いってることが支離滅裂だよ――とたすくは思ったが、それも口に出すことはしなかった。こういう類は、何か『術』をもっているから何をされるかわかったものではない、と――ゆのかには悪いが、たすくは思う。そのあたりは小市民なのである。
それに、凄く気位が高そうで。この小さな躰から周囲に撒き散らしている威圧感は、たすくの錯覚ではあるまい。ちょっと触ってみたい、などという好奇心も失せるというものだ。穏やかで物静かなゆのかの、これがもうひとつの姿……なのだろうか。
「ゆのかは本当は『力』を使えないんだよ」
「……はぁ」
「けど、ああいうのはほっとくと熱がでちゃうしね。ゆのかはあんたが心配で、ほっとけなかったのよね」
にっ、と笑って翼羽がたすくにいった。たすくはたじろいだ。
意味深長な笑い。
「華乃由」
冷やかすような響きを汲み取ったのか、ゆのかが少し大きな声を上げた。たすくにはわけがわからなかったので、きょとんとしていたけれど、軽く咳払いなどしてみせたりして。
「たすくはそのへんのことにはまったくずぼらですから。それに、医師の勤めです、怪我人の手当ては」
「あら、そう?」
「……ごめん。迷惑だった……よね?」
「そんな! そんな事いってるんじゃないわ、わたしはただ……その……」
「あっら。意外……と鈍いのね」
ぼそ、と小声で翼羽が洩らしたそれを聞きのがさずに、ゆのかは怖い目でじろりと睨みつけてやった。
「……華乃由っ」
彼女が肩を竦めて黙る。
ゆのかは、気を取り直したようにたすくの方へ向き直った。
調子が狂う、とでもいいたげに首を傾げる。
「傷は、もうよくなったのでしょう?」
「うん……まぁ、ゆのかのおかげで」
「そんなことはいいの。迷惑なら手当てはしません。それより、祭りのことなの」
「祭り? 大巫の祭り?」
ゆのかは頷いた。
「私、お暇をいただたっていったでしょ。それで、そういうことってはじめてだからわからなくて、ご一緒して貰えたらいいなと思って……」
俯きがちに見上げられたとき、たすくはどきりとした。
(……お、おれと!?)
聞きまちがいではないだろうか。
だってゆのかには取り巻きの学徒たちが山のようにいるのに、なんだってこの自分に?
素直に嬉しかったが、たすくは翼羽がいったようにすこぶる疎い少年だった。
自分が誰かを想うことはあっても、誰かから想われるなどということはまったく考えたりしないのだ。
だから、ただ驚く。
「……おれ?」
「ええ」
自分で自分に指を向けてみる。
ゆのかがいま一度頷くと、たすくは妙な顔になって首を傾げた。立ち止まると、昨晩の通り雨が残した水溜まりに足を取られた。
「わ……うわっ」
「ほんと意外。鈍いうえに、阿呆」
転びそうになって、なにをやってんだかとたすくは水溜まりから上がる。それから両手を手を上げて、ゆのかを見やった。ゆのかの肩に腰かけて、翼羽が笑いを堪えている。
「ふ……く……、くくくくっ」
やがて翼羽は、堪えきれずに吹き出すと、涙まで浮かべ、足をばたばたさせて、晴れ渡った空に響き渡るほどに大声で笑ってくれた。
「あははははっ、は、はーっ、くるしーっ」
「……なんだよ……」
そんなに凄いことをしたつもりは、たすくにはなかった。それなのにそんな大爆笑してくれなくてもいいではないか。……ゆのかの翼羽のくせして。
「だってだってだってさぁぁっ」
「……華乃由……もう……」
ゆのかの優しいため息。
「……たすく?」
答えを待つ呼びかけに、たすくはあわててゆのかに振り向いた。
「だ、ためかしら……。予定、ある?」
ぎくりとした。そんな、何だかわからないけど悲しそうな眼で見つめられたら大声で否定したくなってしまうたすくだ。
「あの、ゆのか。……ええと。その日は。そりゃ、暇だけど……」
赤面しながら、おずおずと答える。
碧空を転がってゆく笑い声が、恥ずかしいったらなかった。
けれど、ゆのかの顔がぱっと明るくなったので、それはそれで嬉しかった。
「本当!?」
「うん」
「じゃあ、決まりね。夕の刻の三に、宮の門でいいかしら」
「……うん」
濡れてしまった足を、照れ隠しに振ってみたりする。翼羽はまだまだたりないというふうにけたたましく笑い続けており、そこまで笑うかよ、とたすくは口の中だけで不満げに呟いた。
なにがそんなに可笑しいのだろうか。
たすくは自分の足元を眺め、それを見て、また翼羽は笑う。
みっともないのはわかるから――さらに頬に朱が散る。
なんだというのだ――まったく。
ややあって、やっと笑いをおさめた翼羽にひとつ、いってやろうと――顔を上げると。
刹那。
それは。空に小さな小さな躰を滑り込ませて消えていくところだった。そこには、視えない水面があるみたいだった。たすくに片手を上げたのは挨拶のつもりだろうか。
ふわりと残ったのは消えてゆく純白の軌跡。ゆのかの困惑顔。それって――反則。
たすくの喉元に詰まっていた言葉は、出口を失った。
3
その日の夕暮れ。
緩やかに黄昏色の幕が下りてくる夕方の市場。宿屋や酒場がきつい感じで軒を並べる界隈は、喧騒に満ちている。
人の波は、宵も深まるまで絶えず、荷を背負った商人や、楽師たち――賑やかなことだ。
たすくは、そのうちの店の一軒の軒下に置かれた木箱の上に腰かけて往来を眺めていた。毎度毎度、祭りの前というのは楽しい気分である。
そして、祭が終れば虚脱と寂寞の朝がやってくるのだけれど、
たすくはこの浮き立つような街の空気が好きだった。
今年は特にそれが強いかもしれない。
ふと自覚して、ひとり赤くなる。
思いがけないゆのかの誘いは、本当に意外だった。
(……でも、どうしておれなんだろう……?)
人の心に疎い少年は、生真面目に考える。
(ゆ、ゆのかの秘密……識っちゃったから……かな? ゆのか、怒ってるのかな……?)
しかし、昼間のゆのかはそんな素振りではなかった。ゆのかは、機嫌の悪い時はもっとはっきりきっぱり核心をついた物言いをする。
素直で優しい少女だから、意地の悪いことやまわりくどいことなどしないのだ。
てんで検討外したことを悩みながら、それでもたすくは嬉しくなってしまう自分を否定できなかった。そんなことが『宮』の連中に知れたらそれこそどんな陰険な仕打ちを受けるかしれなかったが、大したことではないように思えた。
ゆのかと一緒にいられるのだということが、穏やかな笑顔を少しの間でも独占できるのだということが、ただ心躍る約束だった。
どのぐらいぼうっとしていただろうか。
たすくは人波に、青い瞳の楽師たちが行商人にまじってゆくのを見た。ゆのかと同じ瞳だった。
(……あれは……?)
三人ほどの若い男たちの楽師団だった。簡素な旅装束だったがそれぞれ鮮やかな空色の衣装で、食うや食わずの旅芸人などとは雲泥の差が見て取れた。長い黒髪も、遠目にも艶やかなほど香油で手入れして結い上げてある。いまは夕日がそれを橙に染めていた。
都人だ、とたすくは目を瞠った。
宮が彼らを召したのだろうか。自分の記憶では、都の、ましてや楽師などこの邑に訪れたことはないはずだった。いや、昨日までたすくは都人など見たこともなかったのだ。お伽話のようにさえ、思っていた。ゆのかのことがなかったらば、今だってそう思っていたかもしれない。
それにしても……。
ここでの暮らしは長いつもりだが、祭の楽師は、いつも決まっていたのではなかったっか。けれど、どうみてもあの――楽器の包みを抱えた独特のいでたちは楽師だし、いまごろ邑に入ってくる、ということはこの邑に逗留、ということだろう。
(都の、楽師……)
また今年の大巫の祭は盛大なことだな、とたすくはその後ろ姿を見送った。
何年かに一度はこういうことがあるのかもしれない。
彼等は混雑を避けるように宿へ入って行った。
「……お」
それから目をそらすと見慣れた後ろ姿があった。長い髪は後ろで束ね、大きな買い物袋を抱えたまま、馴染みの青果店の主人と話込んでいる青年は、たすくの養い主だ。
もうそんな時間か、とたすくは店の木箱から下りて、駆け出した。
青年が振り向いて。
そして、いつものように、柔らかく微笑んだ。
「とまや!」
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