第1章 薬師

      1


 海宮――というのがこの世界の名である。



『都』という伝説の玉都を中央に頂き、ちりばめたような島々を双腕に抱く、深く青い海原。

 海宮を護るは、『都』の美姫。永遠にして不滅の神女『玉響』。

 そんな神話が語り継がれる海の恵みの豊かな惑星である。

 海原に浮かぶ幾多の島々には様々な国があった。様々な暮らしがあった。海宮に生きる人々の暮らしは豊かで活気に溢れていた。

 かつて諸国の王族たちが散り散りの島々に領地を求め、怒濤のごとく海原を駆け巡った戦乱の時代もとうに歴史書の彼方に過ぎ去っており、現在は平和の時代だった。

 風にのって届く微かな波の音は、島々の砂浜で聞くことのできる、神女『玉響』の雅な歌のようだと詩人は云う。

 硝子玉が転がるみたいに、それは懐かしく耳に踊るのだ。

 神女の守護り。

 海辺の邑々も、山野も都市も、穏やかな守りのまどろみの中にあった。そして――たすく少年の邑も。




      2


「へっ、……『お義父さま』のおかげで『宮』に出入りできるくせに。あまり大きな面してるからそういう目に遭うんだよ!」


「ちったぁ懲りるんだな! たすくちゃん」


 少年たちは、口々にいい、薄笑いを浮かべながら路地裏から出ていった。


 ――くそ、何がだよ。お前らはヤキもち焼いてるだけだろうが……。おとといきやがれってんだ。


 たすくは、汚れた塀に背を預けて唇を噛み締めた。束ねた長い黒髪をしごいてみる。泥の滴がぼとぼとと衣を汚した。


 ――髪もぬれちまったよ。あーあ、衣も泥だらけじゃねぇかよ……。


 こんなふうにうらぶれた袋小路に引きずり込まれて暴行を受けることは珍しくなかった。

 けれども――今日は最悪だ。

 ここのところ雨季で、道はどこもかしこもぬかるんでいた。

 そんなところで突き飛ばされたり転ばされたりしたものだから、泥だらけのぐちょぐちょである。

 それだけなら、まだいい。

 刃物、隠し持ってるとは思わなかった。


「……っ、ちくしょうっ」


 くいしばった歯の隙間から、思わず嗄れた声が洩れて、たすくは喉に力をこめる。

 そうでもしなければ、もっと不様な呻き声か、ともすれば叫び声が洩れてしまいそうだったからだ。

 右の利き手が鋭い激痛を訴える。

 たすくは、それを堪えてもう片方の手で、傷つけられた腕を強く押さえた。

 ぬるり、と嫌な感触が掌を濡らした。


 ――まいったな。……こりゃ、けっこう深いや……。


 ずきん、ずきん、ずきん。

 汚れた布しかなかったが、たすくは取り敢えずそれで血を拭って、止血を施した。応急でしかなかったが、その布で、きつく縛り上げて、処置を終えた。


 ――傷口、洗わないとまずいよなぁ……。でも、仕事、あるし……。


 その仕事の先――つまりはたすくの得意先が、問題なのだった。

 これが先刻の少年たちの、嫉妬と羨望を買うのだった。それはたすくもよくよくわかっている。納得もしているつもりである。

 だがしかし。


 ――くそ……。だけどそれは! おれのせいじゃないぞ……!?


 たすくは、路地の隅に投げ捨てられた革袋を拾い上げて、傷のない方の腕で肩から引っ提げた。

 傷の痛みが少しだけ、辛かった。

 何もできない自分が意気地なく思えて、少しだけ、惨めだった。

 こんな風に悪し様に罵られて、殴られたり蹴られたりして、何ひとつやり返せないことは、すこぶる腹のたつことだった。

 けれどもそれが、堪えなくてはいけないことだということもたすくは知っていた。

 だからたすくは、いつも誰にも、何も言わない。言ってはならないのだ。

 十五の少年には、それが辛い。



 泥だらけで現れた薬師には、さしものゆのかも仰天した様子だった。

 たすくは、呆気にとられているゆのかの顔をまともに見るのが、つまりあんまり酷い格好の自分をまじまじ見られるのがたいそう恥ずかしくて、おおあわてで薬の袋を並べた。

 『宮』のゆのかの私室、縁側である。

 『宮』は学問を修めるための国営の施設だった。

 都市や、おおきな邑にひとつは在り、様々な学問を学ぶことができる。たすくの邑にも『宮』はあり、区画整理された邑、行政機関の集まる官庁街外れに位置していた。

 また、国の祭や式典を執り行なう、世襲制の者も修学のために集う。そしてゆのかは、『宮』の寮に居を構え、医学を治める傍ら診療もする若く優秀な医師だった。


「注文の薬は、これね。それと……ここのところの悪天候で、鎮痛の薬蕩は今月いっぱい間に合いそうもないんだよね」

「そう。……どうもご苦労様です」


 草の筋を乾かして作られた粗末な紙の伝票を眺めて、たすくは薬の匂いの染みついた革袋を少女に手渡した。

 明るい青色の瞳をこぼれんばかりに見開くゆのか。彼女は、優秀で有能で、可憐な美しさを備えていた。

 それはけして艶やかな美貌ではなかったけれど、咲き初めの朝の花のような可愛らしい美しさだとたすくは思う。

 対するたすくは、さしておおきい都市でもないけれどそれなりに賑わうこの邑で、薬師として生活を営んでいる少年である。

 歳は十五だ。したがって、体躯も顔つきも見目よくはあったがなかなかに幼い。まだ親元でぬくぬくと養ってもらってよい歳なのだ。

 けれどもしかし、たすくの状況はそこいらの同年輩の子供達とは少しばかり異なっていた。

 たすくには――両親が、いない。

 生まれてすぐに両親を亡くし、放っておけば行きつく人生の終りは野垂れ死に以外のなにものでもなかったところを、拾われたのだった。

 だから、大切に育ててくれた養い主のために、少しずつでも恩を返さなくてはならないと、たすくは心に決めているのだ。

 薬師は、医師や民間人を相手に薬草を商う商売である。

 これは知識と技術を要する稀有な存在だが、たすくの実直で商いに生真面目な姿と陽気な人柄、それに整った面差し――こればかりはみも知らぬ両親に感謝すべきだろう――は評判で、商売はまあまあ軌道に乗っている。

 とまやのはからいで、おかかえの薬師として『宮』からも薬の注文を請け負っており、今は、ゆのかの専属薬師でもあった。

 これが同輩の、『宮』の学徒たちの勘に触ってしまうらしいのだが……。

 それでなくてもこれだけ可憐な少女である。同じ学び舎の少年たちが放っておくわけがない。

 たすくでさえ、可愛らしい少女だと思う。声を聞けば耳に心地好いとも思うし、こうやって泥にまみれた姿を見られれば居所なくも思う。

 そう。

 たすくも、この可愛い医師を憎からず想ってはいるのだった。

 ゆのかのことは、けれどよく知らない。何年か前からこの邑の宮に住んでいるのだが、何処からきたのかはわからない。


「でも大丈夫。薬蕩はまだあるの」


 ゆのかは袋を取り上げて薬棚の脇へ置き、代金の袋を差し出した。

 毎度、とたすくが受け取る、いつものやり取り。

 けれどゆのかはたすくが手を引っ込めることを許さなかった。たすくの腕をつかんで引き戻す。


「わっ」


 ちっ、と舌打ちすると、少しばかり厳しい顔でゆのかがたすくを睨んだ。


「……」


 たすくは肩を竦めた。

 たすくの右の手の、手首から肘の辺りまでに、ゆのかにはどう考えても間に合わせとしか思えないだろう布切れがきつく巻きつけられており、ところどころに血が滲んでいるのだから。

 心優しい医師、ゆのかが見逃すはずはない。

 きり、とたすくを見上げて。


「……これはどうしたの?」

「いやべつに、何でもないよ。――お……やめろって。なんでもないって……っ」

「いけません。こういう杜撰な手当ては」


 ゆのかは、たすくには頓着せずに、布を無理やり剥ぎ取った。

 止血帯を解くと、絞られていた傷が緩みいっきに血が巡る。

 開いた傷口から滴った鮮血が、板張りの縁を汚した。


「……っ」


 たすくは痛みに眉を寄せる。


「まったく、こんな汚れた布でっ! よくほっとく気になるものね。あなたのお義父さま……とまやさまも宮の医師でしょう? 診てもらえばいいのに、呆れるほどに隠しごとするのね、たすくは」


 いいながら肩口を縛り上げ直し、たすくを座らせる。そうしてゆのかは、奥の棚から幾つか薬をとって再び縁側へ出てきた。


「人聞き悪いなぁ。そうじゃなくて……あの人には心配とか迷惑とか、かけられないじゃないか」

「……それは……ちがうでしょう?」

「なにが」

「……」


 ゆのかは、たすくの問い返しに答えることはしなかった。

 その心の内側を読み取りにくい表情で手早く手当てを進める。

 消毒のための液汁が刺激臭を鼻孔に突き刺した。

 原料になる植物の、あまりに独特すぎるにおいがたちこめる。


「それにしてもどうしてこんな傷をつくったの? 刃物傷ね」


 面を上げてそのうっすらと海原いろの瞳で覗き込まれると、たすくは顔を背けることができなかった。

 渋々、といった体で白状してしまう。


「いや……さっき、そこの路地裏で……ね。宮の、医学士の連中とね」


 そう聞くや、ゆのかはたっぷりと大仰に嘆息した。


「……そんなことだろうとは思ったわよ。……いいかげん、ああいう子供達と関わるの、お止めなさい」

「子供ったっておれらと同い年だぜ?」


 たすくが苦くいうと、ゆのかはどこかむっとしたようだった。


「あなたは! ……立派にやってるわ。あの『宮』の学士達はどれも頭ばかりで……医学士の師範は、とまや様じゃないの? やだ、どうして黙っていらっしゃるの?」

「は……ぁ?」


 途中で話が何処かへいってしまった。

 ゆのかはたったいま気がついた、とでもいうように目を瞠って、たすくの腕をぴしゃりと叩いて。

 たすくは悲鳴をぎゅっと捩じ伏せた。


「……そういうわけ。とまや様には何も話してないわけね? まぁ、――まああ、なんてことでしょう!」


 白くて真新しい包帯を取り出してぴんと張り、けれどゆのかは、その先を続けなかった。

 ゆのかにも、たすくの健気な気持ちが分かるのだろう。

 たすくを拾って育て、独り立ちさせてくれた養い主は『義父』と呼ぶにはとてつもなく若すぎるのだ。

 彼は師範で、評議会にも出席できない若造で、そして上には上がいる。そんな彼が問題児を抱えるわけにはゆかないではないか。 

 何やら悲しそうなゆのかの瞳は、たすくにうしろめたさを感じさせ、胸にかすかな棘を刺す。優しい少女だ。

 その気遣いは嬉しかったが、たすくは平気と首を横に振ってみせた。

 白い包帯の下で、己の鼓動に呼応する、鈍い痛みと鋭い痛み。


「さ、これでいいわ。……いいこと、あの子たちには気をつけなさいね」

「まぁ、善処はするけどな」


 から元気ぎみにいってみせながら、たすくはうつむきかげんに包帯を見ている少女の瞳を伺い見た。

 どうしてか――それが悲しげな瞳に見える。

 その瞳に宿す海原には、不思議な儚さを覚える。

 たすくはその横顔に刺す、仄かな陰りのことを考えた。

 ゆのかの美貌をはなやかでなく幾分落ち着いたものに見せるのは、この整い過ぎた面差しにかかる陰りのせいだと思う。

 憂いある瞳。それはまるで深い波の谷。

 それがなぜか、悲壮に感じるときすらある……。

 自分がこんなことを気にするのは可笑しい、とたすくは思う。

 けれど、ゆのかがいけないのだ。

 何か、どこか痛いような辛そうな瞳を不意に見せるから。

 きっと、ゆのかを知る誰もがこんな不思議な気持ちになるのだろう。

 きっと……。

 と、ゆのかがたすくの視線に気づいた。


「どうしたの? 手当て、終わったわよ」

「え……あ、」


 気がつくとゆのかと目が遭った。

 たすくは,ゆのかのことをずっと見つめていた自分に気がついて、なぜか自分の頬が熱くなるのを自覚した。

 さあっと、耳まで暖かくなる。

 薬や血の汚れなどを片づけはじめる少女。


「いや、……ありがとう。たすかった」

「あらいいのよ。あなたが……もう少しでいいから、図々しくなってくれればもっといい」


 ゆのかが笑った。いまさっきの横顔とうってかわって屈託のない笑顔だった。

 容易に逆らえるものではない。


「……本当に善処、はするけど」


 ゆのかに鋭い目で睨まれながら、空になった革袋をひっさげて。

 肩を竦めながらたすくは腰を上げるのだ。




      3


 たすくの足音が、ゆのかの部屋が面する『宮』の中庭から内門の向こうへ消えていくのを見計らったようだった。

 どきりとするような頃合で、ゆのかの背中に甲高い少女の声が滑り込んだ。


「……あれほど止めたのに。いま、使ったわね……『力』」

 

 たくさんの鈴をちりちり振るような声だった。硝子が触れ合うような声だった。

 ゆのかは振り向かなかった。

 それが誰だかわかっていたから、振り向く必要はなかったのだ。

 椅子に腰を下ろすと、穏やかに問い返す。


「それは忠告?」

「……そんなとこ、かな。わかっていればいいんだけど?」


 皮肉をまぶした言葉だ。詰問する調子が、ゆのかに厳しく確かめる。

 ゆのかは頷いた。


「わかっています。……わかっているから、辛いのよ」

 

 ゆのかの細い肩が、わずかに震えたように見えた。小さな背は、何を堪えるのか。


「ゆのか」

「ごめんなさい……」

「……あんたねぇ。あたしはあんたのためを思ってねぇ」

「……ごめんなさい……本当に。私だって、こんなつもりでは……」


 繰り返されるのは、謝罪の言葉。

 そこからはゆのかのかたくなな意思が汲んで取れた。

 午後の診療のために、ゆのかは棚から幾つもの薬瓶を取りだしはじめる。

 硝子の中の薬は、光を吸い込んで鈍く澱んでいた。みんなたすくが揃えてくれた物。


「あんたが自分で選んだことだからね。……あんな少年のためにね」

「……」

「わかってるの? あんた?」

「……ええ……。もう……終りにしたいのよ……」


 覚悟だね、と声は揶揄する響きで。声がの主が肩を竦めたかのような雰囲気があった。

「まったく、本当に……辛い道を、選んだね。……辛いね」


 ふわり、とそれが、ゆのかの『肩』に腰を下ろした。


「知らないからね……あたしは」

「ええ……」


 どうなるか、わかっているんでしょ、とそれは言った。

 それは、人、とは違う生き物だった。

 人の掌に、するりと収まるほどの小さな小さな生き物だ。

 だが、人のかたちをしていた。

 緩く波打つ真白い髪がその腰に届いていて、少しつり上がったきつい黄金の瞳をしている。

 どちらかというと日焼けしたような、微妙な色合いを呈すの小麦色の肌が彫刻のように美しい、生き物。

 そして――その小さな小さな背には、一対の、輝くほどに白い羽根が在った。




     4


 芳月の末。

 萌草季も半ば。黄昏から宵闇へと移ってゆく空に冷ややかな真白の月・白焔輪と、柔らかな黄金の月・金煌輪が望ちはじめ、『大巫』の祭典が近いことを告げている。

『大巫』――満ちた二つの輪星が、蒼闇の夜空にその姿を並べる日――汪月の一日。毎月の初めの日を『巫』の日といい、祭りを行うのだが、汪月は農作業を再開するに当たり、収穫豊作を願うため、どこの都市でも民衆総出で盛大な祭典となる。

 そして、そのような数々ある祭を国の指揮の下に執行するも、『宮』であった。『宮』は、この世界・海宮を守護するという神女玉響を祠る神殿でもあるからだ。

 人々は――海宮の人々は信仰をとても大切にする。だから、これから一年の暮らしを担うことになる農耕始めの祭と、収穫の祭はとくに肝心なものなのだ。

 神女がいつつまでもいつまでも穏やかな暮らし守ってくださいますように――その祈りは縋ることでなく、誓うこと。生きている限りのたゆまぬ精進と努力を。だから信仰は、人々の道徳であり戒律であり、生活の礎となるのだった。



 さて、そのようなわけで、たすくの邑も往来に慌ただしさがうかがえるようになってきている。

『宮』のある邑では、祭の時期は多くの観光客や商売人を受け入れるのが毎度のことだった。みな、『宮』で催される舞いや管弦楽の宴が目当てなのだ。

 だから、祭がちかづくと邑は慌ただしく、そして賑やかに活気づく。

 その日、市の立ち並ぶ中央大通りを少しばかり奥に入ったところにある薬店を閉めるのは、いつもより早かったつもりだ。

 昼間の傷のこともあったし、祭が近いせいで夕方はもう商売にならないからだ。

 けれども義父――と呼ぶには抵抗があり過ぎるほどあるのでたすくはそう呼ばない――は、たすくよりも早く帰宅しており、夕餉の支度を始めていた。『宮』の師範たちに与えられる居住区の一角にある二人の家は、小綺麗な総木造の建物で、たすくは二階の海が見える側に個室を与えてもらっていた。

「ただいま、とまや」

 呼び捨てだが、たすくはずっとこうしてきた。若い独身男性に向かって、『とうさん』などと呼称するのは惨いとおもう。実際、惨すぎるだろう。彼はまだ、二十五だ。二十五というようよう一人前の仕事を持って独り立ちする年頃で、二十という早さで師範位を戴したとまやとて、そこは例外ではない。

 さてその養父とまやはというと、

「お帰り。早かったね」

 食堂から顔だけ出して応える。所帯染みた独身である。長身で体躯の線は多少細いが、それだとて無駄がないだけで、整った面立ちも均整の取れた肢体も十分精悍といえる青年は、しかし前掛けなぞして家事に勤しんでいるのだ。

(これが……宮では名高い鬼師範……)

 肩から下げたずた袋を壁にかけ、襟もとを少し緩めると、たすくは食堂の入り口にある大瓶の、汲みおきの水で手を濯いでから台所へあがりこんだ。

「とまやこそ早かったな。――何か、手伝おうか?」

「ああ、いいから座ってなさい」

 淡い笑みで、振り返る。鳶色の瞳はいつものように穏やかだ。これが『宮』の教壇にでも立とうものなら学童たちの恐怖の象徴なのだそうだが。

 とまやは果物の皮を剥く手を止め、ほんの刹那の間をあけてから、ふいにいった。

「ところでたすく。今日はえらく泥だらけだね。それに……私はその真新しい包帯には見覚えがないのだがね?」

「えっ」

 椅子に手をかけていたたすくはおもわず動きを止めてしまった。

 ――しまった……!

 いいわけを考えてなかったのだ。

「あの、あの、これはその。ちょっとした怪我でありましてそのあのいや……」

「どれ、見せてごらん」

 果物の皮を手早く剥き終えたとまやは、手を洗って前掛けで拭きながらつかつかと息子の側へやってきた。

「え、あ、うー」

 抵抗できるはずはなくて――そして、するりと包帯が滑り落ちる感触。手当てはしっかりしてある。

 しかし傷は傷で、それもかなりひどくて刀傷だったりする。

 ――ああ。

 どうしよう、何ていおう。

 とまやはそう簡単には騙されてくれない。

 どきどきしながら構えていると、逆にとまやの方が変な声を上げた。

「おおげさだな。もう綺麗に塞がってるじゃないか?」

「――え?」

「いつ怪我したんだい。私が記憶していることが正しければ、昨日まではこんな怪我はなかったはずだが」

 見ると、確かに真新しい傷などなかった。斬られたのに。

 もう、新しい皮膚が盛り上がってきているのだ。そういえば……痛みも……ない?

「……たすく?」

「ちがう!」

 自分のほうが驚愕のあまり声をあらげてしまって、はっとしてたすくは、今度は声を押さえてとまやの顔を見た。

「違うよ。今日、やられたんだ。ただ、昼間……ゆのかに手当てしてもらったんだ」

「……ゆのかって、あの医師の?」

「うん。……今日薬を届けにいったときに。おれの怪我を見て、それで……」

 とまやの視線が一瞬だけ宙を彷徨った。

「……そう。あの子が  」

 ふと、とまやはたすくの腕を放した。それきりすっかり納得したように、再び二人分の果物の皮剥きに取りかかる。つまりは話題を避けようとしているのか、とたすくは思った。

 不自然な沈黙。

 たすくは内心首を傾げたまま、それでも椅子を引っ張り出して席についた。傷の事についてあれこれ尋ねられずにすみそうだが、しかし今度はたすくの方が、尋ねなくてはどうにもこうにも気がすまなくなってしまった。

 とまやは、木椀に乗せた果物を卓上において、自分も席につく。

「……なんだよ。なぁ、とまや。何でそこで納得するわけ? 変だよ、こんなの」

 たすくが訴えると、とまやは困ったように首を傾げた。瞳がかすかに曇る……。

「とまや?」

「……うん……」

 箸を取り上げ、とまやは少しの間逡巡していた。

 が、やがて箸を宙で踊らせて、

「あれは……都の子でね。だからそういう力をもってるんだよ。だけど――その傷の治り方はまた頑張ったものだね、彼女も」

「……え……えええっ!?」

 初耳だった。たすくは目をむいた。

「み!? み、『都』ぉ!? って、海の向こうの向こうにある……むかし神女さまがいたっていうあの『都』?」

「……そうだよ。それは、昔話だけど」

「は……。都、の人だったのか!? ゆのか……って」

 ――都人。

 たすくはぼんやりと心の中で呟いた。それはたすくにとってあまりに遠い存在だった。

 だったら歳だってうんと上かもしれないし、もっと凄いことができるのかもしれないし、とひとり食卓で恐縮しはじめる。

(だって、都人っていったら王族と同じ貴人だろ。すごい貴族だろ。ふつう、こんな平民の世界じゃ暮らさないんだぜ……)

 たすくの認識は、その程度だ。

 心の中で急に――少女に対する認識が変化するのを感じた。

 この海宮を守護する神女の玉都と謳われる『都』にも、住人はいると聞く。

 神話では、神女は海宮を平らげて遠い昔に眠りについたと云う。けれど、都には神女の眠りをまもる眷属の玉都があると。

 聖なる地があると――。

 もっとも様々な事情から、彼等にとって下界である島界で暮らしているものも少くはない。ただ、彼等はいろいろな面で人とは違っていた。寿命も倍ほどあるし、不思議を起こす術をも心得ているものも多い。たすくの傷を完治させたのも、すればその術によるもののひとつのはずだ。都人といえばそんなふうにあらゆる面でわずかずつ人よりは秀でている。中には人を遥かに凌ぐ、という者もいる

と聞いたことさえある。

「この邑にはあまりいないけれど大きな都市や王都には、珍しくないことなんだよ」

 とまやが、目を丸くするたすくに苦笑しながら教え諭す。

 仕方がないので箸をすすめながら想いを巡らせていたたすくは、もぐもぐさせた口にもどかしげに眉を寄せて、それから中の物を喉に流し込むと、にゅっと身を乗り出した。

「じゃ、じゃあさ。あれ。『翼羽』もいるかな? みせてくれるかな?」

『翼羽』――それが決定的な、人と都人との違いなのだった。たすくは話にしかそれを知らないし、大概誰でもそうだろう。

 都人、は二つの体をもつ。人と違わぬ躯と、そして別の人格を有する異形のもの。生死を、運命を、魂を共にする、滅多なことで人に姿を見せてくれないという……それ。

 それを『翼羽』というのだ。

 掌に収まるほどに小さな躰。真白の髪。黄金の瞳。小麦色の肌。その名の通り、小鳥の如き輝くような真白き羽根をその背に一対、持つと云う。

 そして都人は、海宮を守護するという神女・玉響の象徴を、海原のいろをその瞳に持つ、と……云う。

 ――ゆのかの、あの蒼の瞳……。

「そうか。…そうか」

「……たすく?」

「『翼羽』は、見てみたいけどな。……そっ……か」

 ――何故だろう。

 ふいに、少女の微笑みが、たすくのなかの何処かに浮かんで、そして消えた。

「そぉ、か」

 釈然としないまま、なんだが少しだけ悲しいまま、たすくはもう一度だけ呟き、ひとり頷くととりあえず食事に専念することにした。

 遠い少女なのだ、と思った。王侯貴族のきらびやかな世界。きっと死ぬまで触れることもかなわないだろう交わることのない世界の、端と端に自分たちはいたのだ。

 知らなかった。

 手当てをしてくれた少女の、柔らかな指先が触れたときの感触を、思い出すと、それが、ちくりとたすくの胸の片隅を突いた。存外に強い痛みだった。

 硝子窓がかたかたと鳴いて、風が強くなってきたことを告げる。

 窓の外では雨が降り出していた――。

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