第2話

 大学受験も迫って来た高三の夏。

 ホームルーム活動終了と共に僕はカバンを抱え図書室へ向かう途中、後ろから怒声が飛んで来た。


「待て向日むかいびっ! 幸司郎! 向日を取り押さえろ!」


 振り返るとそこには見知った二人が笑顔混じりに追いかけっこをしていた。

 僕はいつも通り逃げている向日の首根っこを捕まえ、そのまま上へと引っ張る。

 こんなやり取り何度目かと、僕はわざとらしくため息をこぼし向日へ冷たい視線を向けた。


「……はぁ。向日、また何かやらかしたのか?」


「いやー! 勉強会はいやなのー!」


 向日あおいは僕が住む叔父の家の隣で暮らす同い年の女子だ。

 小学六年生からの付き合いなので、定義としては幼馴染という事になるが、まるで小学生の様な言動も含め高校生になっても未だ小学生体型である向日は、年の離れた妹という意識が強かった。

 ジタバタと暴れる向日の腰まである橙色のポニーテールが僕の顔に当たる。シャンプーの香りが鼻につき、僕ははしたないと向日へ言い聞かせた。

 見てみると周囲の生徒達はまたか、と呆れ半分に笑っている。

 やがて諦めた向日が大人しくなると、僕は追っかけてきた仙道(せんどう)に向日を引き渡した。


「すまん、幸司郎。向日の奴が言うことを聞かなくてな」


「いいよ、いつものことだろ?」

 

 仙道はツンと茶色い短髪を掻き申し訳なさそうにした後、それもそうだなと人当たりのよい笑みを浮かべる。

 仙道新せんどうあらたは、高校に上がり知り合った友達で気さくな人柄である仙道は誰にでも分け隔てなく接しており、野球部ではいつも中心になって動いていた。


「向日、お前が勉強会をやるって言い出したんだ。今日こそやるぞ。お前は放っておくと本当に勉強をしないからな」


「自慢じゃないけど、私勉強出来ないもん!」


「いや、それは本当に自慢じゃないだろう」


「仙ちゃんの教え方厳しいもん、もっと分かりやすい様に教えてよ~」


「お、教えるだけじゃなく分かりやすい様にだと……? いいだろう、こってり教えてやる。分かるまで絶対に帰さないからな」


「やぁー! 絶対いやー!」


 額に青筋を浮かべ怒る仙道に、まるでそれを意に介さずムスッとする向日。

 それを見ながら二度目のため息をつくと、言い合っていた向日が身を翻し僕へ助けを求め抱きついてくる。その衝撃に耐えられずたたらを踏んだ僕は、少しよろめきながら何とか持ちこたえた。


「コージロー助けてよぉ! 幼馴染でしょ!?」


「悪いのは向日だろ? 子どもじゃないんだから、早く降りてくれよ」


「いいじゃん別にぃ。減るもんじゃないでしょ」


 ケチ―とぶつくさ呟く向日を降ろし、分かったからと宥める。


「コージローも勉強会行こうよー!」


「幸司郎、俺からも頼む。向日は俺では扱いきれん」


「……しょうがないな、分かったよ。僕も復習がてら参加するよ」


 本当は図書室へ行きたかったが、こうなってはしょうがない。どうせいつかは勉強しなちゃいけないんだ、それが少し早まっただけだと思っておこう。

 勉強に対して文句を言う向日はさておき、仙道は文武両道だ。野球の腕もさることながら、ちゃんと勉強と両立している所が仙道の凄い所だ。帰宅部で家では食べるか寝るかしかしていない僕とは大違いだ。

 学校はまだ空調完備(といっても扇風機だが)されているので多少暑さを紛らわせてくれたが、外は直接日が照っていて僕は自然と手を団扇代わりにしていた。クールビズ仕様の向日はだらしなくカッターシャツを来ており、仙道は既にカッターシャツを脱ぎ肌着一枚で下校していた。 


「そういえば仙道、部活はいいのか?」


「上島先生に勉強会を開くと言ったら、上島先生も向日の成績を心配してるみたいでな。快く承諾してもらえたぞ」


「むー、大会前に休むなんてやる気がないぞ仙ちゃん」


「誰のせいだ、誰の。俺だって休みたくないに決っているだろう」


 前で仙道と向日が仲良く喋っているのを横目に、僕は勉強道具を入れていたか確認する為、カバンを開けた。普段は何かと面倒で置き勉する癖が出来ている僕は、大丈夫か心配になりつつ鞄の中を探る。


 ……あれ?


 勉強道具は幸い揃っている。だがしかし、入れておいた筈の手紙が無くなっていた。

 それは自分でも恥ずかしいくらい思いの丈を書き綴った手紙だ。別に好きで持ち歩いていた訳ではないが、ただ渡すタイミングを計りかねて机とカバンを行き来していた。


「悪い二人とも。学校に忘れ物してきたから、先行っててくれ」


「えっ、ちょ! コージロー!? 私を生贄にしないでよぉ!」


「すぐ行くから! 仙道、ちょっとの間頼んだ!」


 僕は額の汗を拭い踵を返した。仙道の返事を待つ間もなく、走り始めた僕はただ、手紙の行方だけで頭がいっぱいになっていた。


 まだ学校には生徒がいるはずだ……。もし、あの手紙が誰かに見られたらまずい!

 普段からあまり運動しない鈍りに鈍っている足に一層力を込めてアスファルトを蹴り出す。

 何か嫌な予感が、汗と共に背中を伝った。


 部活に精を出す生徒達の声がグラウンドを飛び交い、放課後の校内はブラスバンド部の演奏と蝉の音が響いていた。

 落としたとしたら多分仙道達と話していた時だろうと、僕は一番奥の教室へと向かう。通った道は全て探したがどこにも落ちていなかった。見つかっていなければ教室の前か、自分の机の中しかない。

 自分の教室に近づくにつれ鼓動が高鳴り、呼吸も荒くなる。

 それでも、急いだ。

 誰も居ないことを祈りつつ、僕は教室の扉を開ける。年季の入ったドアはガタつきながらスライドし、焦れた僕は勢いそのまま教室へと踏み入った。


「……え?」


 もしかしたら、まだ生徒がいるかと思った。だがそこには居る筈のない生徒が居て、僕は思わず口を開け呆けた声を上げた。


「…………こんにちは」


 薬師寺は気まずそうな顔色でこちらを見上げ、僕の様子を窺う。ミディアムの白髪が逆立ち、紅眼が大きく見開いて明らかに動揺していた。そしてその動揺は、僕も同じだった。

 僕と薬師寺はクラスが違うし、流石に三年通っている学校の教室を間違えるなんてのはあり得ないだろう。

 そもそも、何で仙道の席に座っているんだ?


「……神代君、何か忘れ物?」


「あ、ああ。そんな所だよ」


 薬師寺に名前を呼ばれ、ふと我に帰った僕は咄嗟に返事をする。ジト目のまま三つ編みにした一房を弄り、不機嫌そうな雰囲気を醸し出す薬師寺。

 僕の席は今薬師寺が座っている仙道の席の前。つまり、薬師寺から僕の机の中身が見えている。

 逸る気持ちを抑え、僕はゆっくりと自分の席へ向かう。

 薬師寺は仙道の席に座ったまま視線だけ僕へと送る。その視線に耐えきれなくなった僕は薬師寺に背を向けて席に座り、机を漁った。


 …………ない。

 机の中から出てくるのはいつの間にかなくしたペンやプリントばかり。肝心の物が見つからず焦っていた僕の背から、冷たい声が聞こえてきた。


「……もしかして、これ、探してる?」


 声に振り向いた僕は絶句した。薬師寺が手に持つ手紙は、まさに僕の探している物だった。 

 よりにもよって、手紙を見つけたのが薬師寺――渡したい相手にみつかるなんて。失意のどん底へと落とされる気分だ。


「……古風ね。このご時世に恋文なんて」


 薬師寺はつまみ上げるようにして、物珍しい顔で僕を見ていた。

 動悸がする。それだけで胸が締め上げられ、視界の端が朧になる。

 封筒には宛名はなく、裏面に僕の名前が書いてある。直接渡す度胸が無い僕は、もし渡すのなら下駄箱や、それこそ薬師寺の机の中にでも忍び込ませればいいかな、なんてロマンチックな事を考えていた。もっとも、それを実行する前にこうして本人に渡ってしまったけども。


「なんでその手紙が、こ、恋文だと?」


「……そのぐちゃぐちゃの机の中に、随分と大事そうに入れてあったから」


 それだけ狼狽していたら尚更。そう付け加えた薬師寺は僕の前で手紙をチラつかせ、人差し指を立てる。

 そもそもなんで人の机の中を見たのかという疑問をぶつけたいが、それが恋文だと当たっているから何も言い返せない僕を他所に薬師寺は続けた。


「……取引」


「僕に拒否権はあるのか?」


「……ある。その代わり、この手紙は全部読ませてもらう」


 それを無いと言うんだ。

 薬師寺は挑発的な笑みを浮かべ、あわや封を切ろうとする。読めば最後に書かれている『薬師寺さんへ』という決定的な文を読まれることになってしまう。

 それを僕にどうこうする権利はなく、首を縦に振るしかなかった。


「分かったよ。取引、脅迫、恫喝、なんでもいいから、読むのだけは勘弁してくれないか」


「……よろしい」


 そう言うと薬師寺はわざとらしく咳払いを一つし、自分が座る席を指差した。

 なんとなく僕にはこれから起こることが予想できてしまっていた。


「……新君の事が、好きなの」


 よく、表情を歪めずにいれたと思う。よく、席を立たなかったと思う。

 薬師寺のやや上ずった声は僕の耳を通り脳で反復され、ゆっくりと咀嚼された。その瞬間だけは、部活に精を出す生徒の声も、ブラスバンド部の演奏も、蝉の合唱も消えたんじゃないかと思えるほど静まり返っていた。ただ薬師寺の声が残響し、脈がそれに呼応する様に鳴っている。告白する前に振られるというのは、告白して振られる以上にやるせなさを感じた。

 少しだけ頬を紅潮させた薬師寺は無言の僕をよそに続ける。


「……神代君には、それを手伝ってもらいたい」


「え、と……。つまり、キューピット?」


「……そう」


 仙道はモテる。野球をやっていることもあり体躯が良く文武両道とそれだけに倍率は高く、仙道と一緒にいると何度か女子生徒がやってくる事もあった。

 正直気は進むわけがない。友人を相手に、自身の想い人との間を取り持つだなんて。


「…………分かったよ」


 それでも僕は引き受けた。この際、手紙を読まれても良かったのに。

 叶うことがないと分かった今、手紙はチリ紙同然なのだ。それならせめて、薬師寺の役に立ちたかった。

 薬師寺を思う想いとその薬師寺の役に立つ事を天秤に掛けた結果、僕は手紙を受け取った。そして手紙を手にして、ああ、駄目だったなと心のなかで自嘲した。

 諦めてしまえば、その思いは胸にすとんと落ちた。不思議と動悸は収まっており、視界も安定していた。


「だけど、あまり期待するなよ。仙道はモテるからな」


「……分かってる。思い出みたいなもの、だから」


「まぁでも、試合開始前に判定負けするよりいいんじゃないか?」


 何それ? なんて言って口に手を当て小さく笑う薬師寺。

 僕はその問いに何も返さず笑い、薬師寺を見送った。

 だってそうだろう? こんな惨めな思いをして、ただその後姿を見送る事しか出来ないのだから。


 岬原高校の屋上は、夜へ移ろう涼し気な風が吹いていた。

 僕以外誰もいないこの空間は、少し寂しさを感じる。そんな気分でもないのに、この後仙道達と勉強会かと思うと、途端に気が滅入った。

 フェンス越しに見下ろすグラウンドでは、トンボを持った生徒達が土を均していた。

 傷心というのは怖いもので、今までの僕では入ることを禁止されている屋上に忍び込むなんて事はしなかったと思う。

 感傷に浸っていた僕は、思い出したようにカバンから手紙を取り出した。

 結局伝えることもなく、ただ持っていただけだった。まだ中身を読まれているのなら、その役目を果たせたのに。

 僕はそれを握りしめてグチャグチャにし、ポケットにしまった。

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