第32話 草薙の因果




 それを昔語と云うべきか。

 それを伝説と云うべきか。

 それとも御伽話か。

 いずれにせよ時、現代に至っては。

 その真偽を知る者はなく。

 その真偽を知る術もない。



 ――ある――鬼の物語である。


      ☆


 ――願いは、天に。

 ――望みは、空に。

 ――祈りは、風に。

 ――虚空に壊れた鐘が、鳴る。



 ――鬼は――『草薙の巫女』を、その手で殺した。



 鮮血に濡れた骸を、そっと両手からひき剥がして、彼は唇を噛み締めた。

 きつく、きつく。

 己の歯の、鋭利なその切っ先が、かたちのよい唇を裂くほどにきつく。

 真っ赤に濡れた両手を涙を湛えた眼で茫然と眺め、握り締める。指と指の隙間から、ぽとぽとと乾ききらぬ血がこぼれ、滴り落ちていった。

 彼は、骸の傍らに跪いたまま、両の手を血を吸って腐った大地に叩きつけて、瞑目する。

 金げ臭い――血の臭いに満ちた空気を感じる。

 ここには風もなく、腐臭は重たく濁って澱むばかりだ。

 閉じた瞼の裏に思い描けば鮮明に蘇る巫女の面影は、仄かな笑顔であったけれども、それが何時のものであったのかはもう、どうやっても憶い出すことができなかった。

 ――たったいま。たったいままで、彼女は確かに生きていたというのに。

 この心を捕らえたあの笑顔を見たのが、もう遠い、遠い時の彼方の出来事であったかのような気がした。

 ――貴女は……、それでもおれを許すというのか。

 もう、永遠にあの柔らかな光を宿すことのない瞳。

 優しい言葉を紡がない、唇。

 鈍い光を放ちながら、巫女の無防備な胸元につき立つ刀の、血に塗れた刃が、その無垢なる命を容赦なく奪った。

 彼女がそう、望んだこと――たとえそうであったとしても、己の行為は紛れもない暴挙でしかない。利己的な願望に負けて、その命を無理やり奪ってしまったことに変わりはないのだ。彼女が望んだ、などというのは身勝手な言い分なのだろう。

 自分もまたそれを望んでしまったのだから。それゆえの結果にすぎない。望まれて果たしたなんて、到底許されるに値しない言い訳だということは、解りきっている。

 他に、何も術がなかったか。

 これが唯一、彼女の魂を救う方法であったのか。

 自問ならば尽きない。

 けれど、それでも……。

 どうすることもできなかった。どうか、愚かな我が身を許してほしい。

 彼女を守護れなかった。

 彼は、哀惜と後悔から――紅蓮の敵意へと、その瞳に漲らせる感情を変化させながら、なお強く唇を噛み締めた。

 この破滅をもたらしたもの。

 いまや己ですら持て余すしかないほどの、まったき憎悪と怨恨の対象。

 それを、想い人に変えて脳裏に思い描き、昏い痛みを胸の奥深くに燻らせながら。

 ――赦さない。

 お前――お前達だけは。

 念じるように、深く強く、胸に刻み、復讐を、誓う。

 ――この先……いかなることがあっても、必ずや滅ぼし去ってくれる。

 それは宣誓。

 ――存在を賭けて。

 ――全霊を賭して。

 彼は、紅い唇に歯を立てて、涙を拭う。 いまこのとき、両手を染めた鮮やかな真紅とその温度を、二度と忘れることはないだろう。命の暖かさと、それが失われてゆく絶望を、忘れない。

 最愛の人の命を、この手で奪い、その血を両手に受けたこの瞬間を。



 きっともう――その時には、気が触れていたのだろう。

 人ならぬこの身にも、そのようなことが起こり得るのであれば……きっと。


      ☆


 彼は、巫女のことを思う。



 彼の名は、『緋の禍鬼』といった。

 そう――『鬼』だ。

 この瑞穂の国には、人とは異なる種族が在る。

 人が 大地と光を得た代わりに、闇に生まれ異世を棲処とする、異種族が。

 ひとくちに人と異なるといっても、そのうちには化生もあれば精霊、妖怪、魔物、魑魅魍魎の類もあり、果ては人が生み出した怨念、怨嗟の塊や凝り、魔性のものまで様々だが、ともあれそれらは常に、人とともにこの世に存った。

 たとえば人が、それを記憶や現実からどれ程追い払ったところで、厳然として、原始の始まりから、世に存在するのは、人だけではないのだ。

 その異種のうちに、鬼と呼ばれる者がある。

 これまたひとくちに『鬼』と云っても様々だが、鬼は人を喰うという。

 彼はその――人に仇為す眷属――『鬼』と呼ばれる種族の頂点に君臨しる者である。

 古来より。

 人の種族と異世の種族とは互いに相容れぬ。

 そして、人は無力で脆弱。

 彼ら『鬼』と呼ばれた種は、闇に生まれて光を忌み、人の血肉を好んで啜り食してきた。その性は残虐にして凶暴。

『草薙の巫女』――とは、それら異世の種を退ける、退魔の神剣を携えた、人々の守護者であった。



 彼が、人の守護者であった巫女と、はじめて見えたのは、季節を三度ばかり遡った春のこと。



 出遭うまでは、忌むべき存在でしかなかった、人の娘。

 草薙の巫女は――退魔の異能を人の身ながらに授かった、者。

 退魔の神剣でもって、彼らを斬り伏せる力をもつ者。

 忌むべき存在である、はずだった。

 けれど 。

 薄紅の桜舞い散る風の中、暖かく柔らかな陽光のもとに凛と立つ巫女を見た刹那――その瞬間に。

 彼は、人の娘に恋をした。

 もしかすると、あの日、あの時。

 鬼の首魁と草薙の巫女とが出遭い、過ちのような恋に墜ちることさえ、計り知れない狡猾な時の歯車が、仕組み定めた運命の罠なのかもしれない。

 だとするならば、それは何と過酷な罠だったことであろう。

 待ち受ける運命が、破滅でしかないことは、人の身にも鬼の身にも、等しきことであったのだから。

 ――退魔一族の巫女とはいえ、ひとりの少女だ。

 なんということはない。

 だが、そのか細く頼りない躯に、確かに宿る、強大な浄化の力を見た。それは強靭な心の持ち主であることの証。印象は凪いだ湖面のようにひどく穏やかであるのに、巫女には、まっすぐな竹を連想させるほどにしなやかで毅然としていて、滲むような強さが在った。

 鬼は――身を焦がす恋に墜ちた。

 最初の邂逅は、桜の下。

 彼女に己の姿を晒すまでに、三月。

 ――その姿を目にした巫女は、正確にその正体を見抜いた。

 異世の鬼であると。

 異形の者であると。

 そして彼女の心が傾くまでに、季節は一巡り。

 退魔の一族の長である巫女と、鬼との逢瀬が秘密となるまでに、季節はもう一巡り。

 そうして、また桜の季節がめぐってくるころ――彼は眷属を捨て、人の世にて彼女と伴に生きることを、巫女の守護者となることを心に決めたのだった。

 何も彼も捨ててまで。

 それを望んでしまった。

 願いは天に。

 望みは空に。

 祈りは風に。

 けれども、それを彼の眷属が許すはずがあろうか。

 彼は鬼の首領なのだ。

 それが、人の、それも忌々しき巫女などに、首領が魅了されて膝を屈するなど、恥辱屈辱以外のなにものでもありえない。眷属の中においては彼こそがまさに君臨すべし者、何より力にあふれた強く輝かしく美しい存在だったのだから。

 何千何万という配下が彼に跪き、彼を羨望し、畏怖し、憧憬を抱き、崇拝すら、していた。それを思えば、彼の行為は裏切りの最たるもの。眷属の感情は、反転して、憎悪となる。

 最初にそれを唆したのは、彼と対なす鬼の首領――『蒼の禍鬼』であった。

 ――鬼と巫女との恋など、成就させてはならぬ。

 巫女を穢せ――と。

 巫女は、巫女であるからこそ、人外の種たる鬼と、触れ合うことができる。そして、巫女が巫女である所以は、その心身がともに汚れなきがためである。

 それは、躯が未通女であることを意味するのではない。事実、婚姻を結び、子をなしてなお、巫女でいられるものも在るのだから。

 心が闇に染められることで、自らが穢れたと感じることで、巫女は巫女でいられなくなるのだ。

 さすれば、巫女は霊力を失う。

 異種族と触れる力を失う。

 それゆえ、穢せと。

 心の一片、魂のひとかけまで、穢すのだと。

 そう、『青の禍鬼』は、配下の鬼どもに唆したのだ。

 鬼たちはそれに従った。自らの恥辱をはらすために。

 束になって、巫女を襲った。

 それこそ雲霞の如くに群れをなして。

 ――たったひとりの少女が、いくら退魔の霊力をもつからといって、これにかなうはずがないのは明白であった。

 拒絶はかなえられず、抵抗はねじふせられ。

 巫女は鬼の群れに蹂躙された。

『蒼の禍鬼』の目論見は果たされたのだ。

 彼は、『青の禍鬼』と眷属たちの檻に捕らえられ、遠いところで巫女が凌辱されるさまをこの眼にしながら、なにひとつ、できなかった。

 ――これでもう、あの女はただの人。

 ――われらには触れることも叶わぬ。

 ――あの斬魔の神剣を振るうことも。

『蒼の禍鬼』は、彼を檻に捕らえて、薄く笑いながらいったものだ――。



 その瞬間――。



 その瞬間に――鬼、と呼び称されてきた己の心を灼き尽くした憤怒を、忘れることなど出来ないだろう。

 それはあまりに激しく冥く。

 彼は、絶叫とともに正気を手放して暴走に身を委ねようとした。

 委ねようとしたのだ。

 何も彼も捨てて。

 けれど、つなぎ止められた。

 か細く届いた彼女の願いに。



 ――どうか、……私を殺して下さい。



 それは――声ではなかった。

 彼女の――想いそのものだった。

 彼女の切なる願い――だった。



 ――お願いです……私を……殺して……。



 鬼は、彼女の祈りを識る。

 草薙の巫女としての霊力を喪失した彼女は、ひたすら速やかなる死が、その身に訪れることを。

 彼女が異世に触れることができなくなっても。彼の耳にはその願いが届いた。

けれど――。

 その願いを聞き届けることは、傲慢であったろう。

 なぜなら。

 この結末を、己が強いたも同然なのだから。

 勝手に人の娘に恋をし、愛し、勝手に傷つけ、勝手に貶めた。そのうえ――勝手にその命を絶つなどと。

 彼女の願いだからといって、愛しくおもう気持ちがあるからといって、許されることだろうか。

 だが、それをためらうこともまた、傲慢であった。

 彼女は巫女である資格を失った。生きる術を失ったのだ。一族の長としての地位も失い、誇りも傷つけられ、魂魄そのものが穢された。

 あれほどの恥辱を味わわせておきながらなお、この己のために生きて欲しいなどと。

 そう願うことが、傲慢以外の何であるというのか。

 可笑しな、そして、奇妙なことだった。幾多の人の命を徒に殺め、糧としてきた己がこのようなことに迷うなど。

 けれど、それでも。

 彼は逡巡した。

 逡巡して。

 そして。

 それでも、なお、是と肯首することをためらい続けた。

 何が、彼女に対する償いに、救いになるのか、わからずに迷った。

 ――彼女を失いたくなかった。

 ――彼女を救いたかった。



 失いたくは、なかったのに――。


      ☆


 人の血とは。

 かくも重く、紅いものであったろうか。

 真紅に塗れた両手を見下ろし、彼はおもう。

 幾多の人の命を殺めて、生きてきた。

 それなのに。

 たったいま。

 これほど焦がれた、たったひとつの人の種の命を、心で慟哭を殺しながら奪ったのだ。

 だから思う。

 ――絶対に赦さない、と。

 彼の正気は微塵に打ち砕かれて、瞳の奥にはどうにもしようのない、昏く、しかし苛烈な憎悪が宿す。

 狂ったまなざしは、もはや憎悪の対象をしか、映さない。

 我が眷属――そしてあの者――『蒼の禍鬼』。

 奪われたものの大きさを――この憎しみを、伝えずにはすまさない。

 お前たちが、どれだけの罪を犯したのか。

 この、血を吐くおもいを――。

 これほどの憎悪、怨嗟、そして絶望を。

 もはや――眷属を捨てることにためらいなどなかった。



 鬼は、退魔の剣を手に取った。

 かつて巫女が佩いていた、眷属に仇なす神剣を。


      ☆


 そして数十余年の時が流れた。

 鬼を退けるを生業とする、草薙の巫女の一族に彼は与し、生きた。

 ながらく人に仇なしてきた、その持てる力のすべてを退魔のそれへと転化させ、眷属を追い求め、屠って屠って屠り続て生きた。

 そして。

 全身全霊を賭けて追い詰めた『蒼の禍鬼』と死闘を演じ。

 その果てに、これを封じて――拮抗する力の持ち主である対なる鬼を滅することまではかなわなかったが――彼は、息絶えた。



 ――鬼よ。それほどに力にあふれる鬼の首魁であった者よ。

 最期に、草薙の一族の者が、彼に問うた。

 ――そなた、人の身に転生することを望まぬか。

 ――我らは巫女を失ったが、そなたのおかげで鬼どもを討ち果たし、生をつなぐことができた。だからこそ、そなたに告げるのだ。我らが巫女が、なぜ、自らの手で自刃して果てるのではなく、命絶たれることを望み、受け入れたのか。

 ――それは罪だからだ。人は、与えられた命を、その半ばに己の手にて絶つことが許されぬ。それを選べば霊魂は魔道に堕ち、二度と人の世に転生叶わぬ。それゆえ、そなたの手にかかることを、願ったのだ。意味が解るか。

 ――そなたは鬼であるから、人のような寿命をもたぬ。それゆえ長い長い時を生きるはずであったろう。巫女は、いつかまた霊力をその身に宿す巫女として生まれ、そなたに出逢うことだけに、一縷の望みを賭けて逝ったのだ。

 ――残酷な、強欲な我儘と解っておったであろう。そなたが人からも眷属からも追われる身となることも、わかっていたであろう。それでも巫女は、そなたにふたたびまみえたかったのだよ。

 ――しかし、鬼としてのそなたの命が費えてしまえば、そなたは輪廻の理になく、巫女の願いは果たされぬ。どうだ。我らの巫女の願い、 かなえてはくれまいか。



 是非もなかった。

 ――そなたが、望んでくれるのであれば、手を尽くそう。

 だから、彼は、答えた。

 この魂が、人に生まれ変わることができるのだろうか、と。

 もはや他には何ひとつ望むことはない。

 このまま尽きれば、消えてしまう理の、転生の連環になき魂。

 これを、人の輪廻転生の連環に容れることは本当にできるのか。

 ――できるとすれば。

 それを望まぬはずはない。

 ――そうであれば。

 ――それがかなうならば。

 願う。

 そして伝え残してほしい。

 徴を遺すと。

 いつかふたたびこの世に生まれ出ることが叶ったなら。

 徴を。

 緋の花を咲かせるから。

 この手に受けた、貴女の血と同じ色に、花々を染めるから。

 貴女が探して。

 互いが、すべてを忘れても、いつか、緋の花の咲く場所で、再び見えよう。



 ――その術は、我らには適わぬが、が、適える術を持つ者が在る。巫女とそなたの願いが叶うよう、計らい、祈ろう。



 それが約定。

 果たして鬼の魂は。

 ――人の輪廻を、めぐることとなったという。


      ☆


 それは、時の彼方の物語。

 昔話であり、伝説であり、御伽話である。

 確かに、『勾玉の血脈』とされる者のなかに退魔の一族――草薙の一族は、存った。

 そして、草薙の一族のうちには、退魔の剣を守りし巫女 草薙の巫女も、存った。

『草薙の巫女』とは代々、草薙の一族を束ねる巫女をいう。草薙の一族は、退魔の神剣を携えた巫女を長に戴き、古来より長い長い時の間、鬼と称されるモノたちと熾烈な戦いを続けてきたとされている。

 だが――草薙の一族も、もはや滅び絶えた。

 時、現在となっては結局――すべては昔話であり、伝説であり、御伽話である。

 そう――伝え語りは確かに在るが。

 ――真偽を知る者はなく。

 ――真偽を知る術もない。



 時の彼方の物語――である。




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