第31話 Dear My Sister




                ☆


 それは朧な夢だった。



 司は闇をみている。

 闇しかみえない。

 白衣と緋袴、千早をまとって。

 司は両手に太刀を捧げもち、闇の中に立つ。



 声が聞こえた。

 懐かしく、優しく、穏やかで、泣きたくなるような、暖かい声。



 ――草薙の巫女。

 ――君は唯一絶対の。

 ――君は絶対無敵の。

 ――君は無敵無類の。

 我が手に馴染むは柄の感触。

 ――これは血に受け継がれる力。

 ――されど血に封印せられし力。

 それは草薙の巫の。

 草薙の。

 君は、たったひとりこの世に遺される、僕と彼女の胤。

 ――つかさ。

 ――いいかい。君の巫としての力は、君をとても寂しく、孤独にするかもし

   れないね。

 ――君は最期の剣の巫女。

 研ぎ澄まされた破邪の刃の力をその身に具現せる刀の巫。

 だからこそ、絶対に君は刃を手にしてはいけない。

 その手にいかなる刃も。



 ――父様!

 ――母様!



 我が手に馴染む、この刀身。

 そう私には力がある。

 唯一にして絶対、絶対にして無類の。

 ――父様、母様!

 ――お前! お前は邪なる、邪悪なる存在!

 ――滅ぼしてやる! お前を滅ぼしてやる!

 悲鳴、怒号、血飛沫。

 ――つかさ!

 ――だめだつかさ!

 ――やめろ! つかさはそんなこと、しちゃだめだ!

 視界が真っ赤に染まってゆく。

 ひとたち。

 ふりおろすたびに、鮮血が飛び散り、あたりが朱に染まってゆく。

 そして心も。

 憎悪、哀惜、寂寥、悔恨――。

 目眩がする。

 くらくらする。

 ――もういいんだよ。

 ――もういいんだ。

 ――忘れていい。みんな忘れていい。

 僕のこと、彼女のこと、君自身のこと、全部忘れて未来を行くがいい。  

 愛しい娘。

 まっさらな未来を行くがいい。

 ――僕らのことを忘れて――。



 ――ぼくがいる。

 ――ぼくがずっとそばにいる。

 ――約束する。

 ――君をひとりにしない。

 ――ぼくがずっと、君のそばにいる。


 

 闇がみえた。

 闇しかみえなかった。


      ☆


 司はぼんやりと窓の外を見ていた。

 昼間の朝居眠りのなかで――夢を見ていたような気がする。

 だが、どんな夢を見ていたのか、よくは思い出せなかった。

 朧気に、暗闇が思い出され、何度か誰かに名前を呼ばれたような気がした。

 とても、懐かしい声で――。

 枕元に置いた時計を見ると、もう夕刻だった。

 窓の外では雨が降っている。

 ――後夜祭は中止だろうか。

 結局司は、この三日間起き上がれないまま、文化祭は最終日を迎えてしまった。今日は日曜日で、文化祭が一般公開される日でもあったが、朝からこんな雨では、たいした来客も見込めなかったかもしれない。

 雨の音がする。

 雨の――。



 誰かが部屋の戸を叩いたのはその時だった。

「司ちゃん?」

 どきりとした。

 飛鳥の声だ。

「えっとね。学校休んでるって聞いて、お見舞い。柚真人から鍵、預かってきたんだ。ねえここ、……開けてもいいかな?」

「――」

「司ちゃん? 起きてる?」

「……うん」

 襖越し、司は頷いた。

「入っていい?」

 司は少しだけ考えた。

 だけど――。

「うん、あの、ちょっと待って。起きる、から……」

 とにかく――。

 そう思って、司は頷いた。



「三日間、休んじゃったね」

 いつもと変わらない、よく晴れた空の水色を思わせる笑顔で飛鳥が言った。

 飛鳥は部屋の襖を開け放ち、その戸口に鞄を立て掛けると、司の傍らに腰を下ろす。

 司は布団の上に上半身を起こして、上着を羽織っていた。

「今日、司ちゃんのクラスのぞいたら、文化祭からこっち、学校来て無いっていうじゃない? 柚真人に訊いたら風邪だっていうから。後夜祭とLHR抜けてきちゃった」

 屈託なく笑う。

 飛鳥はふだんと変わらずに明るくて、だから司も微笑み返すことができた。

「後夜祭、あるの?」

「体育館でね。……具合、大丈夫?」

「うん、大丈夫。昨日も一昨日も、仕事終わってから優麻さんが来てくれていたし、今日の午前中、水月さんが診察に来てくれたから」

「そう、よかった」

 飛鳥が小さく頷いて、肩を落とした。

「……飛鳥くん?」

「……よかった」

 飛鳥は繰り返す。

「実は僕、すっごく緊張してたんだ。……司ちゃん、怒ってるんじゃないかと思ってね。顔も見たくない、とかって突っ撥ねられちゃったらどうしようかと思ってた」

「……」

 その表情を見返して、司は言葉に詰まった。

 何か言おうと思ったけれど何を言ったら良いのか解らない。

 言葉を探す。

 飛鳥のせいではなくて。

 飛鳥が悪いのでは無くて。

「……飛鳥くん、……あたしが気持ち悪くないの?」

「は?」

 それは、飛鳥にとっては意表を突かれた質問だったらしい。

 彼が怪訝そうな表情で司を見返してきたので、司は目を伏せた。

「だから。……兄妹で……その……。好き、なんて、どうかしていると思うで

しょ?」

「どうして?」

「……」

 司の方が目を丸くする。

 その反応の方が意外だ。

 飛鳥は司を咎めるだろう――そう思っていたから。

 いや、飛鳥ならずとも、だ。だって兄妹のあいだに恋愛感情があるなんて、普通ではない。それに、その感情は許さるものではない。禁忌以外のなにものでもないのだ。

 だから。

「どうしてって……。だって、変でしょ?」

「まあ、そりゃあ、あんまりあることじゃないかもね」

「……それだけ?」

「それだけだよ。僕はね」

 司は、飛鳥を見返す。

 およそ曇りというものが感じられない言い切りには、返す言葉がない。

「……だけど」

 言い募ろうとすると、そんな司を彼は制した。それから困ったように笑う。

「……柚真人が好き?」

 答えられず、飛鳥から視線を逸らす。

「……ごめんなさい……」

「あやまることはないよ。……本当に、好きなんだよね?」

「……ん……うん……」

「そう」

「柚真人に、好きな人がいる、としても?」

「……」

 司は唇を噛む。

 それを知っても。

 それを、兄本人の口から聞いた今でもなお、どう足掻いても止められない。

 彼が、誰を想っていてもそんなことは関係ないのだ。

 なんて我儘で始末に負えない、気持ちだろう。

 なんてひどいんだろう。

 そう思う。

 思うけれど、駄目でも、思い止まるべきでも、そう知っていて、何度自分に言い聞かせても――どうにもならないのだ。

「……それが誰であっても?」

「……」

 司は――頷くしか無かった。

 だって、そうなのだから。

「……しょうがないな」

 長い長いため息のあと、飛鳥が呆れたような声音で言った。

 顔を上げると、飛鳥は悲しそうな表情で、でもかすかに笑みを浮かべていて。

「でもお願い。……。飛鳥君、あの……。あのね。……柚真兄には……その……っ」

「ああもう。僕はねえ。そんな無粋な人間じゃありませんよう」

 その先の言葉を察した飛鳥は、呆れたような口調で唇を尖らせ、大仰に肩をすくめた。

「それに――、兄妹なんて間違ってるとか、だから止めておけ、なんてこともいいませんよ。……司ちゃんが思うように、すればいいと思うから」

「……」

「だって、本当に好きなんだろう、柚真人のこと。だったらそれはもうどうしようもないもんね」

「それは……。好きだけど、でも、……どうにも……できないよ……」

「どうして?」

「だって柚真人は、兄貴だよ?」

「それで諦められるの?」

「でも……。それに、好きな人がいるんだよ、柚真人には」

「僕が聞いているのは、君がそれで諦めるのかってことだよ。諦められるのなら、僕は絶対にここで引き下がったりしないよ?」

「……飛鳥くん……」

「だから君だって、諦められないなら、引き下がるべきじゃない」

「……っ」

「ああもう。そおんな目え、しないで欲しいなあ。君らしくないよ? 好きな人がきょうだいだから、あいつには好きな人がいるから、だから駄目だって、自分を殺し続けてそれでどうにかなる話なの?」

 飛鳥の言葉は痛い。

「どうにかならないから、司ちゃんは困ってるんだよね?」

 頷くしかない、問いだった。

「……だけど……」

「じゃあ、そんなこと気にしたってしょうがないじゃない。諦めないなら、前に行く。そうでしょ」

「だけど……そんなこと……」

「君には、覚悟があるんでしょ? それがとても危険で、楽な恋じゃないってこと、わかってるんでしょ? つらいことの方がきっと多いよ」

「それは……わかってる……」

「そうだよね。なら、前進。少なくともも僕はそれでいいと思う。正直がいちばんいいんだから、さ」

 目の前の優しい少年を、好きでいられたら、どんなにか良かったろう。

 司は心底そう思った。

 どうして、兄なんかに、こんな気持ちを抱いてしまったんだろう。

 苦しい。

「……ただね?」

 ふいに飛鳥が言った。

 顔を上げると、彼の穏やかな笑顔があって、司は切なくなった。

「僕が、君のこと、好きでいるのはいいよね?」

 その言葉に胸を突かれた。

 飛鳥の、そんな表情を見たことがなかった。

 一点の曇りも無い、青い高空のような笑顔が司は好きだった。だから、ひどく切ない。

 頷くのは、とても都合のよい態度に思えて、司は返答に窮した。

 こんな自分を、好きでいてくれなんて、言えた義理じゃない。

 だって。

 柚真人に拒絶されても、飛鳥の想いに応えられるかどうか、わからない。

 否、たぶん――応えられない。

 だって、司は飛鳥が好きだ。友人として、イトコとして、飛鳥はとても大事な人。だからきっと、飛鳥と同じ気持ちで、飛鳥を思うことなんて、出来はしない。

「……司ちゃんは正直だね」

 答えられないでいると、飛鳥が苦笑した。

「飛鳥くん……」

「うん。正直がいちばんだよ」



 そうだ。

 そんなところで立ち止まってもらっちゃ困る。

 飛鳥は思う。

 柚真人は。

 どれほどの長い時間、孤独を選び、ひとりで耐えてきたか。

 だから飛鳥は彼女の背中を押すのだ。そうであるなら、苦しい恋でも辿り着いてもらいたい――柚真人の気持ちに。

 柚真人が幼い頃からずっと、ただひとり、想い居続けているのは君だよと、言ってあげることはたやすいだろう。

 だけど。

 このぐらいの抵抗は、許してもらいたいものだ。



「ところで司ちゃん。今日は、晩御飯どうするの?」

 飛鳥は訊いた。

「柚真人のやつ、多分今日も遅いと思うよ?」

「いま、何時?」

 腕時計を飛鳥が見る。

「五時すぎ、かな」

 司は小さく首を傾げた。

「家政のミヤコさんは三時頃帰ったんだけど……六時半頃には、優麻さんがきてくれると思う」

 皇邸には、バイト巫女と家政要員がいる。

 あいかわらず、放蕩両親と長兄はちっとも家に寄り付かないようだが、ここ数日中はそれで事足りたのだろう。

 飛鳥は、そう、と小さく頷いた。

 それから、司の方に少し身を乗り出して、顔色をうかがう。

「じゃあ僕……、晩御飯まで一緒にいてもいいかな?」

「え?」

「具合悪いんでしょ。司ちゃん、ひとりにしておくのも心配だし……」

「あ……あたしは平気よ」

「駄目なの?」

「あ、違うの、そうじゃないけど……」

「そう。じゃあ、いてもいいよね」

 呟く。

 飛鳥は優しい。

 罪悪感と自己嫌悪に灼かれる胸の痛みを堪えながら、司は笑って見せた。



 あとどれくらい。

 こんな毎日が続くんだろう。

 そんなふうに思っていた。

 このままで、いられればいいのに。

 ずっと、何も変わらないでいられればいいのに――そう思って。

 司は瞑目した――。


      ☆


 翌朝――。



 目が覚めるともう、家の中に人がいる気配が無かった。

 静かな朝だけがそこに在る。九月がもう終わる頃で、空気が乾いて冷たくなってきていた。

 身体を起こして司は嘆息する。

 ――君が誰を好きかより、君が嘘をつくことの方が、いけないことだと思うよ。

 昨夜、文化祭を休み倒してしまった司の具合を気にして、優麻と一緒に皇邸で食事をしてくれた飛鳥が、別れ際にそんなことを言った。

 ――正直にね。

 無理だ。

 司はそう思った。

 それにしたって相手が悪い。

 けれど、もはや自分自身に嘘をつくことさえ困難なことも事実で、どうしたらいいかわからない。

 ――でも。

 深呼吸して――朝の気配の中で、寝間着を脱ぎ捨てる。

 とにかく気分を入れ替えて。

 前だけは向いておこう。



 そう思った。

 この心を捕らえて縛る、あの人のように。まっすぐに。


      ☆


「こーちゃん、おはよ!」

 教室に入ると、久美が手を振るのが目に入った。

 級友の何人かと挨拶を交わしながら、司はそれに答える。

「どうしたのお、三日全部休んじゃって!」

 司が自分の席に鞄を置くと、久美が傍らまでやってきて、心配そうに司の顔をのぞき込んだ。

「残念だったわね。風邪なんかひいちゃって」

 と、彩。彼女はぺらりと何やら紙切れを司の前に提示する。

「……なに、それ?」

 尋ねると、彩がふふんといって自慢げに胸を張った。

「決まってるでしょ。杉本組クイズの賞品。学食半年食べ放題のプラチナ食券よ」

「え、彩ちゃんアレ出たの?」

「当然」

 彩は涼しげに言った。

「賞品という賞品は総嘗めよ」

「彩ちゃんすごいんだよう。久我君とふたりで二人羽織早食いにも出たし――」

「もちろん早食いは久我君担当よ」

「久我級長かわいそ……」

「あら何か言った?」

「う、ううん、全然!」

「あんたも恩恵に預からせてあげるから、感謝してよね。まったく……皇ちゃんが休んだおかげで結構大変だったんだから」

「……ごめん」

「本当よ。今日の後片付けぐらいは、きっちり働いてもらうわよ、皇ちゃん?」

「わかってる。本当、ごめんね」

 実行委員のひとりであったから、本来なら文化祭期間中それなりに仕事があったはずなのだ。それを二人が肩代わりしたことになる。

 申し訳なくて、司は両手を合わせ、おもわず二人を拝んだ。

 本当は風邪などではなかったあたりが、かなり痛い。

 それはもうずきずきと、良心が痛い。

「それで……うちのクラス、どうだった?」

「うんまあそこそこ盛況だったわよ。あんたの兄貴様に教わった通り、調理班に伝授して、事なきを得たってところかしらね」

「よかった……」

 正直安堵する。

 その点はとりあえず胸を撫で下ろしてもよさそうだった。

「にしても、皇先輩って本当、よくやるわよねえ。ウチの調理班にもすこし顔出してくれたりしたのよ。もー、女子大騒ぎで大変だったわ。そのあと、橘先輩と組んで有志球技大会にも出てたし」

「そうそう。かあっこよかったんだからあ」

「惜しかったのよ。あたしのチームは準優勝」

「彩ちゃん……。そんなとこまで……」

「総嘗めだって言ったでしょ。そりゃあもうすごい好ゲームだったわねえ。それに、かっこよかったのはどっちかっていうと橘先輩でしょ。あんたはそれで当番をサボったのよねえ?」

「大丈夫よおう。これから写真さばくからあ」

「あんた……そういおうことに精を出していたわけ……?」

「そうよう。もちろん皇先輩は非売品だけどお。杉本先生とか、矢野先輩とか、人気あるのよ。これで足が出た分の予算を埋めるもんっ」

「ああそう。勝手にやって頂戴」

 司はふたりのやり取りを眺めて少し笑った。

 久美がまた唇を尖らせて、彩がそんな久美を揶揄するようにあしらう。

 そんな光景は、安堵と不安を覚えるくらいにいつもと変わらない。



 朝のHRが終わると、祭の後のかたづけである。

 器材の返却や、ポスター、張り紙の始末。移動した机や椅子を元に戻す。

 久美と彩に急かされながら、校舎の隅から隅までを行ったり来たりして、司はきりきりと働いた。

 彩は、どうやら有志球技大会での準優勝が大変不本意であったようで、命知らずにも橘飛鳥を好敵手と決めたらしく、彼女は、「次の体育祭と球技大会は負けるわけにはいかないわね」などと言っていた。

 体育祭は十月、中間考査のすぐ後で、球技大会は期末考査の直前。彩は好成績を誇っているうえ上位から陥落するつもりなど毛頭無いであろうから、立派な心掛けだ。

 もっとも、それくらいでなければ、あの天然お祭野郎、橘飛鳥とは勝負になるまい。

 それにしたって――とりあえず目先の大問題はまず中間考査で、この成績をどうにかしないと、司はまた、完全無欠の兄貴様に、とやかく言われることだろう。

 それだけは御免被りたい。

 半日かけた校内清掃で、学校はようよういつもの無機質な姿を取り戻た。

 祭が終わりを告げる時。

 学生にとっては、少し淋しいような、あのかわいた空気が学校という空間のそこここに漂っている。

 明日からは、また普通の毎日が繰り返されるのだろう。

 その日の予定は清掃のみだったから午後は休校だった。

 司と彩、そして久美の三人は、いつもと同じように屋上で昼食を広げ、これからしばらく続くであろう憂鬱な勉学の日々に向けて、思いを馳せた。



 本当に――それは、いつもと同じ、在り来たりの一日だった。

 不安と、安堵を覚えるくらいに、日常だった。


      ☆


 けれど――螺旋は捩れながら運命を描く。

 何かが壊れる時。

 それはとても些細で、簡単。


      ☆


 その日の夕方。

 ――最悪の気分だな。

 皇柚真人は、帰途、平素と同じく込み合う夕方の電車に揺られながら重く沈痛なため息をついた。

 数日前から体調を崩している妹のことが、心配で心配でいてもたってもいられない。それに、苛立つ。

 我ながら馬鹿馬鹿しくて本当に、心の底から嫌になる気分だった。

 優しい言葉ひとつかけてやれず、忙しさにかまけて様子ひとつ見に行くことも出来ないこの己が。

 いったいどの面下げて心配などと。

 ――彼女を避けているんだ。

 自覚はある。それは明らかだった。

 柚真人はいま、妹を避けている。家の仕事や学校行事を理由にして、彼女と顔を合わせることから逃げている。

 だが。

 このままではいられない。家族なのだ。平静を保ち、何事も平素と変わらず、彼女と接しなくてはならないのはわかっているし、それが難しくてもやる必要がある。

 別に彼女が悪いわけじゃない。

 どうかしているのは自分の方で。

 あの時、夕暮れの教室の中で見た夏服姿の妹に、冷静さを失った。

 あの時、無邪気に笑って友達を連れてくると言った彼女に、理不尽な腹立たしさを覚えた。

 そしてあの時、不用意な言葉を口にしてしまった自分に戸惑っているのだ。 

 ――どうする。

 柚真人は暗い眩暈を感じた。

 降車すべき自宅のある駅が近付いてくる。

 ――いつものように、笑顔を作って、彼女の部屋を訪れて、具合はどうだったと、――とてもできそうにない。

 ――どうする。



 その時、柚真人はまだ、心の何処かに理性を残していたけれど。

 崩れそうな危うさを感じて、そんな自分に――怯えてもいたのだ。


      ☆


 自転車を漕ぎながら大きく息を吐く。

 その日の夕方――司は、学校から戻って所用を思い出し、自転車で買い物に出たのだった。

 しかし、身体が思うようにいうことをきかない。

 ――まだ熱があるのかな……。

 足下が浮いているみたいに、ふわふわするのはやはり熱のせいなのだろう。

 ――寝ていればよかったかも。

 帰宅を急ごう――そう思って、司は自転車を漕ぐ足に力を入れた。

 その、瞬間――。

「――――!!」

 がたん、と自転車が傾いだ――と、思った。

 体制を立て直そうと思ったが、四肢に力が入らず、司は――そのまま路面に転倒した。

「あいっ……、痛あ……」

 体を起こして自転車を見ると、チェーンがはずれているのが解った。

 それから、右の膝と肘のあたりを擦り剥いていることに、遅れて気づく。

 どうもペダルを踏み込んだ瞬間にチェーンが外れてしまって、司は右から路面に転倒したようだ。

「もう……っ……」

 あちこちが痛んだ。おまけにやっぱり身体がふわふわするようで、全身に力が入らない。

 司は、へたりこんだまま自転車を持ち上げてため息をついた。

 これは一体どうすればいいのだろう。

 皇神社までさほど距離があるわけでも無いが、駅から神社までこの坂道を上りきらなくてはならない。

 身体は重いし、傷は痛いし、なんだか、泣きたい気持ちになってくる。

 ――どうしよ……。



 上からそんな声が降ってきたのはそんな時で。

「何やってんだお前」

 振り向かなくても声の主なんて判りきっていた。

 委員会の仕事などのため、妹よりやや帰宅が遅れていたはずの、柚真人だ。

 いま駅から商店街を抜けてきたのだろう。

 こんなところで転ぶなんて、しかも彼に見つかってしまうなんて、なんたる不覚だろうか。

 また厳しい叱責がくるのだろう――司はそんな風に思って身構えた。が、柚真人の声は思いのほか静かだった。

「……転んだのか?」

「……うん」

「ったく……。もう一日ぐらい寝ていた方が良かったんじゃないのか。学校来ないで」

 肩を落として司は呟いた。

「そうもいかないでしょうが。別に平気よ」

「なぁにが平気だ。ああ、まったく。怪我してるじゃないか」

 呆れたような声で言う。彼は司の傍らに跪いた。

 倒れた自転車を持ち上げて、

「チェーン外れたのか。……危ないなあ。貸してみろ」

「……」

「それと……、風邪気味のくせしてどうしてそんな格好なんだお前は。……こんなに涼しいんだから、上着ぐらい着ないとぶりかえすだろう」

 作業のために制服のブレザーを脱ぐと、彼はそれを司に羽織らせる。

 司の出立ちは半袖のブラウスとミニスカートだった。なんとなく暑いような気がしたからこの格好だったのだが、どうやら暑いと思ったのは少し熱が残っていたから、らしい。

「ちょっと退いてろ。怪我は、帰ってから見てやる。……我慢できるだろ?」

「……うん……」

 彼の横顔はすぐ近くにあって。

 耳元で声が聞こえて。

 心臓が止まるかと思った。

 ――駄目……っ。

 目を瞑る。

 身体の奥で鼓動を刻む器官が、悲鳴を上げる。

「ほら、立てるか?」

 厳しい声に促され、うつむいたまま立ち上がる。

「自転車はおれが押してくから」

「……うん……」

 司は、兄の背中を追って、とぼとぼと歩きだした。


     ☆


 契機なんて些細なもの。

 壊れるときは、なんて簡単。


      ☆


 ――どうして……っ。

 背中から、両肩に掛けられた制服は暖かかくて、それが寂しかった。これは、柚真人の温度。

 いちばん淋しいときに、いちばん優しい。

 ――どうしてなの。こんなこと、しないで……。柚真人の馬鹿……!

 鼻先を掠めるのは檜に似た香り。柚真人の匂い。柚真人の空気。兄に抱きすくめらているような錯覚に、目の前が冥くなる。

 ――違う。柚真兄は悪くない。最低……! あたし、本当に最低……っ!

 司は、愕然として唇を噛み締めた。

 心臓が悲鳴を上げている。頭の奥がぼうっとしている。

 指を絡ませて両手をきつく握り締め、司は瞼を閉じた。

 ――どうして止められないの?

 考えてもわからない。

 ――相手は兄貴でしょうがっ……。

 寂寥感がとめようもなく心を浸食して、自分自身をどんどんと食い潰してゆく。そんな感覚を、もう殺すことができない。

 肺の奥がつぶれそうなくらい苦しいのに。ぎりぎりと、何かが押し潰されて、砕けていくのを感じるのに。

 諦めることなんて、この気持ちを消してしまうなんて、出来るわけない。

「怪我。消毒するぞ」

 司の肩から制服を取りあげて、ソファに投げ出しながら、柚真人がいった。

「ほら座れ。つっ立んてんな」

「……」

 司は頷いて、居間のソファに腰を下ろした。血の滲んだ袖を捲る。

「っとに、鈍くさいなお前は」

 こんな時に優しくして欲しくはなかった。何時も見たいに放っておいて欲しかった。いつもは全然優しくなんかなくて、意地悪で、冷たいのだから。

「うん……。たいしたこと無いな。消毒して……ガーゼを張っておこう」

 救急箱を卓に置き、柚真人は消毒を始める。司の手首を引っ張って、容赦なく消毒液に浸した脱脂綿で傷口を洗う。ピンセットに挟まれた脱脂綿は血の色に染まった。

「……っ……んっ」

 鋭い痛みに、司は呻く。

「我慢しろ」

「う……ん……っ」

 歯を食いしばる。

 落ち着き払った静かな柚真人の声が、みぞおちに突き刺さるようだった。らちもない。この気持ちには意味がない。魂に刻むように自分に言い続けてきたけれど、やっぱりどうしても、この人が好きだ。

 唇を噛んでも、なにかがあふれてくる。堪えているのは痛みのはずだ。体の痛みのはずだ。そのはずなのに――それが一体痛いからなのか、切ないからなのか、自分でもよく判らなかった。

「……っ……ふ……っ」

 感じるのは、兄の指先が自分に触れているということ。その冷たい指先を心地好く感じるということ。傍ら耳の側で聞こえる声に、――行き場のない気持ちが軋む。

 ――駄目……。

 我慢、しなきゃいけないと思ってきた。ずっと、潰そうとしてきた。

 でも。

 じゃあ。

 いつまで我慢すればいい。

 いつかは忘れられるのだろうか。何時かは、他の誰かを好きになれるだろうか。

 飛鳥の笑顔が、脳裏を過ぎった。

 ――柚真人が好き?

 尋ねられた時に覚えた、胸の痛み。

 ――正直にね。

 ――諦めるべきじゃない。

 ――前に。

 無理だ、そんなことは。

 だけど。

 ――これ以上――。

 いけない、と思った。

 どくん――それが傷口の痛みだったのか、胸の痛みだったのか。

 涙が。

 ――駄目……っ。駄目よ……っ。

「う……」

「……司……?」

 ぼんやりと視界が滲んだ。

 次の瞬間。

 自分の中で、ぶつりとなにかが、音をたてて、ちぎれた。

 それは、――理性だったのかもしれない。もうその時はあふれてくる涙を、止めようもなかった。泣きたいわけじゃないのに、どうしようもなかった。

いったん堰がきれてしまうと、ぼろぼろこぼれて止まらない。

 柚真人の怪訝そうなまなざしが辛い。

「おい……? 我慢できないのか? ……そんなに痛く無いだろうがっ」

「……っ」

 涙がこぼれ落ちてきた。言葉にならない。

「司? おい……どうしたんだ?」

 柚真人が訝るのはわかっている。でも、もう止まらない。

 泣き声を堪えようとしてもどうにもならない。窒息してしまいそうなほど苦しい。

 苦しい。

 このまま嘘をつくより。

 壊してしまおうか。

 ――だって。やっぱりこれ以上、嘘をつき通せない。

 後戻り出来ないけど、前にも進めない。立ち止まっていることもできそうにない。

 この恋は成就しない。

 この想いは届かない。

 大事にしていたって意味がないなら。

 壊してしまえば、そうすれば、きっと楽になれる。なにもかも終わりにした方が、ずっとましだ。

 ずっと楽だ。

 ずっと――。



「がまん、なんて……できないっ」

 


 これ以上は無理だ――そう思ったら、声になってしまっていた。

「イヤだよ……こんな……! こんなの……イヤ……」

「……お……い……?」

「どおして……どおして。いやだ……よお……。お兄ちゃんなんて……あたし、君のこと、どうしてお兄ちゃん、なんて呼ばなきゃなんないの……」

「……?」

「なんであたし、妹なの……。どうして……っ」

「……おい……。お前……」

 柚真人の手が、離れた。

 びくり、と司は肩を揺らした。

 そうだろう。わかっていた。

 でも。

「妹でなんて、いたくないよ……。妹なんて嫌。……ごめんね柚真人……。あたし……どうかしてるの……っ」

 でも。

「ごめんなさい……」

 こんな言葉、兄が受け入れるわけが無い。兄妹で、『好き』だなんて。

『恋愛』なんて。許されるわけが無い。気持ち悪い。汚らわしい。帰ってくる答えなど予想できた。

 それは充分わかっていたのだ。

 それでも止められなかったのだ。

「柚真人が好き……。あたし、柚真兄のことが好きなの……っ。柚真人に好きな人がいても駄目なの、止まらないの、ごめん、なさい……っ」



 ――なん……だって?



 突然妹が泣き出したわけを、柚真人は咄嗟に理解できずにいた。傷が痛むのかと思った。

 こんなふうに感情を、声を殺すように泣いた彼女を見たのは初めてのことだったから――戸惑った。

 なのに。

 ――……まさか、……だろ。

 だけど。

 ――いま、司は――なんて!?

 その言葉に、驚嘆した。

 一瞬、刹那、耳の中から音が消えた。

 すべての音が消えた。

 彼女の声以外の、音が。

 目の前で泣き崩れる、彼女。それは自分の妹で。

 それからどくん、と聞こえたのは己の心臓の音なのか。こくりと息を飲み下す。

 これは戸惑い――? 違う。驚愕――? 違う。

 想像もしていなかった。一縷の望みさえ、ないと思っていた。そんなことは絶無なのだと信じて疑わなかった。

 なのに彼女は――何て……?

 いまの、いままで。たったいままで。

 まさか。

 ――妹なんて。

 乱される。感情が乱される。信じられない。信じては――駄目だ。

 ――柚真人が……好きなの……。

 途端――首を擡げる凶悪な感情。

 鎮めていた心の水面に広がる波紋。 

 残酷な。残酷な言葉に絶望する。

 乱さないでくれ。乱しては駄目だ。

 そんな。いまさら。いや。壊れてしまう。崩れてしまう。

 それがどんな意味かも理解しないで、おれの理性をかき乱すようなことを、 どうして――突然。どうして――いま――!!



「まさか……」

 戸惑いが言葉になる。

「まさか……っ、そんな……っ」

 そしてそれが、絶望に変わる。



 次の瞬間柚真人は、叫ぶようにぶちまけていた。

「ふざけろよ!! なに生半可なこといってんだお前!?」

「――ゆ……まと……?」

「ふっ……ざけてんじゃねえっ!」

 司が顔を上げた時  柚真人はたまらず、もう一度怒鳴った。

「ふざ……っ!?」

「お前……それがどういう意味かきっちりわかっていってんのかっ!?」

 ふたりの視線がぶつかって――離れる。

「柚真兄……」

 司は再びうつむいて、ぐっと両手を握り締めた。柚真人の言葉に耐える準備をするみたいに。

 それがなおさら苛立ちを駆り立てる。

「……わかってる……。でなきゃ……いわない。こんなこと……」

「は――。いいかげんなことを言う。『好き』なんて、いとも簡単にな」

「……簡単じゃ、……ない……。簡単なんかじゃ……っ」

「お前……!」

「信じても、もらえないわけ。軽蔑は覚悟してたけど……、いいかげん……なんて……違う……」

「簡単に言うんじゃない。状況も考えずに見境ないこといってんじゃねえっ」

「……っ」

 ぐっ、と――司の手を振り払った柚真人が、乱暴に司の胸倉を掴んで引き寄せた。

 凄惨な愉悦をかすかに含んだ鋭いまなざしで睨まれ、息が詰まる。

「――いい度胸だよな。だがお前。それ、当たって砕けるつもりで言ってるんだろうがよ? おれがそれを、受け入れるなんてこと、ちょっとでも考えてるか、あ? おれ自身のことを考えに入れてんのかよ……?」

 低く唸るように柚真人は言った。

「それはそんな一方的なものなのか? そんなもんならお前が泣くことに意味はないだろうが。お前は何を望んでんだ? あとのことを考えたのか?」

「……っ……」

「考えてないよな? あとはどうでもいいって気持ちだよな?」

「……」

「わからないなら、……わからせてやろうか!?」

 戸惑いを浮かべている濡れた瞳。

 わけがわからない――彼女はそんな顔をしている。

 半分怯えたような、半分困ったような、頼りなくて、危なげで、腰が砕けるような表情を。

 彼女はきっと想像もしなかったに違いない。柚真人がそうであったように。

 それでも司は悪くない。

 だけど。

 だけれども  。

「おれが……同じことを言ったらどうなんだよ?」

「……」

「……兄なんて。兄貴なんて。冗談じゃねえ! どうしておれたち兄妹なんだ、ああ? 頭がおかしくなりそうだよまったく! どうかしちまいそうだ! 気ィ狂いそうだよ!!」

「――――」

 怒気を孕んだ気迫に彩られた瞳。それが司を見る。

 司は、その瞳を、じっと――凝視するように見返す。

 眉根をよせた少年は、妹の言葉を待たず、吐きだすように、掠れた声で細く告げた。

「妹だなんて。もうずっとむかしから思ってないんだよこっちは! お前が知らないだけだ。お前がなんにもわかっちゃいないだけなんだよ!」

 妹が全身を硬直させるのがわかった。耳を疑っているのだろう。

 柚真人は続ける。

「……お前が妹だとおもえばこそ。おれは耐えてこられたのに……!」

 吐息が触れる距離で。

「いいか? 一挙手一投足、その全部に、おれがどれだけ気を取られているか、お前に想像できるか!? 怪我なんかされて、どれだけたまんないか、わかるのかっ!」

「ゆ……まと……」

「わからないか。そうだろう。そうだよ。……こういうことだ。おれは、この家の中で、お前と暮らしながら、こんなことばかり考えていた。もうずっと」

 両手で司の自由を奪う。有無を言わせない力で拘束する。つかまれた手首の骨が軋んで、司が呻いた。

「気持ちがつながってしまったらどうなるんだ?」

「痛い……っ」

「そんなこと考えもしないで。気持ちだけ先走らせるなよ。残酷だよお前は!」

「……あ……っ」

「妹だなんて思ってない。そうだよ。こういうことだよ。まだ……わからないっていうんなら、無理やりにでも理解させてやって良いんだ……。いますぐにでも実行するか!?」

「……うそ……」

「……だからいったろう? さあ司、言ってみな。それでもお前はおれを受け入れることができるのかよ!?」

「……っ」

「好き、だって? そんな言葉を半端な覚悟で口にするなっ。お前はわかって無い。それがどういうことか。おれには待てるだけの余裕さえないんだ……」

「……う……そ……」

「さあ言えよ! 言ってみろ! 汚いのはどっちだ!? 汚れているのはどっちだ!? おれは、お前にそんなことをいってもらえる資格はない。最低の人間なんだっ! いいか? 自分の妹に、毎日毎晩、飽きることなく欲情してるんだっ。妹なのに、お前をこの手で凌辱することを何度も何度も想像した。吐きだしても吐きだしても、おさまらないっ。最悪なのは、おれなんだよ……! それでもお前はおれを受け入れると、変わらずいえるのかっ、ええ!?」

 司は唇を動かそうとするけれど――声がでない。



 縺れるまなざし。

 瞠目する司に言葉は無い。



 柚真人は、嘲笑った。

「おれに、触れるな。そして、期待させないでくれ。前言を撤回しろ、つかさ。おれはお前が妹である限り、堪えられる。だから兄妹なんだって。そういってくれ」

 柚真人は――そういって司を腕から開放し、立ち上る。

「待って、ゆまとっ……あたし……っ」

「聞こえなかったのかよ? 足腰立たなくなるまで犯すぞてめえ!?」

「……」

「……お前はおれの妹だ。そうだな?」 柚真人はその時――いまはただすべてを聞かなかったことにしようと思った。

 それだけを思った。

「……おれには、触れるな。……もう二度と」

 まだ間に合う。

 まだ立ち止まれる。

 まだ――。

「お前は、おれの妹だ」

 繰り返す。それは自分に刻む呪いの言葉。

「お前は、――――――――っ」



 目眩を感じたのは、次の瞬間。


      ☆


 ――!?

 ふらり、と身体が傾ぐ。

 頭蓋の奥の方で声がした。

 ――約束しよう。

 これは、あの男の声。

 ――約束だよ。

 柚真人は愕然とした。

 まさか――!!

「……ゆ……まと……?」

 司の声。

 こんな――こんなところに――。

 

      ☆


 瞬く閃光。

 脳裏に。



 記憶の断片。

 壊れゆく封印。

 甦る憶い出。

 過ぎる映像。

 見える景色。



 桜。真紅の桜。

 血。深紅の血。



 ――司! 見ちゃ駄目だ!

 ――お母さん!

 ――駄目だ司! 止めるんだ!



 ――おのれ草薙の巫が!



 ――『あの子たち、……仲が良いの。

    本当、良すぎるぐらい。大丈

    夫かしら……』

 ――『大丈夫だよ。時期がきたら、

    ふたりにきちんと話そう』

 ――『手遅れにならないかしら』

 ――『君は心配し過ぎだよ。なんて

    いっても、あの子たちは本当

    の兄妹なんだから』

 ――『ごめんなさい。……でも、だ

    から心配なの。ごめんなさい

    ね……』



 ――それ、どういうこと?

 ――妹って、何?

 ――僕は、本当の子供じゃないの?

 ――あの子は、僕の妹なの?

 ――僕は……。



 白刃の閃き。

 悲鳴と怒号。



 ――逃げなさい!

 ――つかさ、ゆまと!



 ――司!

 ――駄目だ!

 ――そんなことをしてはいけない!

 ――君の手は、剣に触れては駄目な

   んだ。それを手にしては駄目だ!



 ――草薙の剣の巫女よ。

   その黄泉の女神の太刀で、この

   おれを殺せるか?

 ――その太刀が刻んだ記憶が、殺戮

   と死の記憶、数多の罪が、お前

   の心を食い潰すだろうよ。

 ――お前は剣の巫女なのだからな!



 ――止めろオオォ!



 ――「ここで見たことは、誰にも言

    うな」

 ――「約束してくれ。彼女は草薙の

    巫女であると同時に皇の巫女

    だ。この力は封印する。だか

    ら」

 ――「誰にもだ!」



 ――ぼくがいる。

 ――ぼくがずっと、君のそばにいる。

 ――ひとりにはしないよ。



 ――「約束したんだね」



 眩しい光。

 禍々しい闇。

 痛み。



 ――「その子が好きなんだね」

 ――「じゃあ、こういうのはどうか

    な」



 ――約束するよ。

 ――大きくなっても、ずっと一緒に。


 ――「君が大好きなその娘は、いま

    はここにはいないんだ。だか

    らすこしおやすみしよう」

 ――「君が一番大切で、一番好きな

    娘は、きっと君を迎えに来る」

 ――「だから、おやすみ。……きっ

    とその娘は、迎えにきてくれる

    よ。そうしたら君は目が覚める」

 ――「それまで、眠ろうね……」



 ――ああ憶い出した!!



 ――そうだ。

 ――おれは。



 ――ぼくは。

 ――ぼくは……。


      ☆


「柚真人!?」

 額の奥が裂ける様な激痛。

 妹の声が遠くで聞こえる。

「……っ……ああっ」

 意識が急速に遠ざかり始めていた。

 視界が灼かれるように白濁していく。

 頭蓋の中で響くさまざまな声。

 脳の奥に氾濫するとりどりの色。

 痛い――頭が痛い。

「く……そ……っ」

「どう……どうしたの!?」

 戸惑う妹の声。

 もう二度と訊くことができない――のか――。

 こんな突然。

 こんなに突然に――!?

「こんな……っ」

 彼女を突き放したままで。

 嫌だ。

 駄目だ。

「……っ……つか……さ……っ」

「柚真人……!?」

 ――さよならだ。

 ――もう二度と、逢えない、大切な。

 ――おれの――。

「……っ……」

世界で、この世で、一番――。

「ねえ柚真人っ!! 柚真人!? どうしたの!?」

 視界が霞む。

「柚真人――!!」

 閃光がすべてを消してしまう。

 すべてを――。


      ☆


   ぼくがいるよ。

   ぼくがずっと。



   おれは、まだ。

   まだ――!!


      ☆


 彼は――意識を失った。



 それは彼の物語の終り。

 そして彼の物語の始まり。

 これは――勾玉の血に連なる者の、物語。






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