第30話 Dear My Brother
☆
――『彼』に関する噂。
「いいひとですよ。優しいし、頼れるしね」
「そうね。何考えてるか良くわかんない。愛想はいいけど冷たい感じかな」
「何でも出来る凄い人。ああいうやつっているんだよね」
「さあ。これといって。あれは誰とでも差し障りのないつきあいしているから」
「この間、聞いたよ。料理が趣味なんだって。笑ったね、なんたってあんまり
にも似合わなねえだろ」
「近寄りがたいっていうのは、みんな思うみたい。ほら、あの人、綺麗な顔してるでしょ。能面とか、日本人形みたいな。あれって、モデルとか芸能人とは雰囲気違うよね。ちょっと気持ち悪い、ってゆーの?」
「神社の神主さん? なんでしょ? そおいう雰囲気、あると思うな」
「意外とシスコンだったりしてね」
「弱点が知りたいねえ、ああいう奴のさ。そう思わない?」
「付き合いやすいよ。まあそれだけだけど」
「よくやるなとは思うね。いろんなことを何でもさ。たいしたもんだよ」
「憧れますよねえ。好きな人、いるのかなあ」
ねえ。
――すきなひとは、いるの?
☆
SCENE 01
秋――文化祭の季節である。
「はいっ、級長! 一年三組『和菓子処』を希望しますっ」
張り切って手を上げ、山野久美がきっぱりと言い切った。
学級長として教壇に立っていた笹原彩は、黒板の方へ顔を向けて、誰にも聞こえないように、小さく呟いた。
「……あの、馬鹿……っ」
「えーっと。他に、対抗意見ないですかァ?」
隣に立つ男子級長、久我悟は、彩のそんな様子には素知らぬ素振りでおざなりに訊いている。反応は特に無し。
くう、と彩は天井を仰いだ。
誰でもいい、何か言え。
このホームルームを午後に控えた今日の昼休み、久美は、彩と司を前に言ったものだ。
――『皇先輩って、お菓子作りが趣味で、和菓子が好きなのよね!?』
皇先輩の妹であるところの司はいつもの物静かな表情で、はあ、まあ、と曖昧に頷いていて、何を考えているのかと怪訝には思ったが、まさかこういう手段に出てくるとは思わなかった。
山野久美、かなり本気のようである。
ため息ついて彩は教壇に向き直った。
「じゃあ……実行委員だけど……」
「級長! それもあたしがやります! ね、こーちゃん!?」
「え……あ、あたし!?」
「馬鹿……」
――それがことのはじまりだった。
☆
失礼します――と、実行委員会室に当てられた生徒会準備室のドアを開けると、そこに大変見慣れた上級生がいたので、司は驚いた。
「あれ、……兄貴……」
「なんだお前か」
司の声に顔を上げた上級生は兄・柚真人で、彼は少し身体を起こして腕組みしながら司を見た。
「……どうして?」
「何故かといわれると、そりゃ実行委員だからだな。申請に来たところからするとお前も貧乏籤か?」
生徒会準備室は生徒会室の隣にある部屋で、文化祭とその準備期間中、実行委員会執行部の会合室として使用される。
部屋の中央には会議室のように長机とパイプ椅子が並んでいて、二十人ほどが使用出来るようになっていた。
壁は棚やロッカーがで埋め尽くされ、部屋は雑然としている。入口対面の窓からは、傾きかけた日差しが入ってくる。
司は――結局、各組四人割り当てられた実行委員のひとりとなり、ホームルームで決定したクラスの催しと計画の申請のためにここにやってきたのだった。
「お前のクラスは何をやるんだ?」
司はドアを閉め、机左の一番奥に腰を下ろしている兄のところへプリントを差し出した。
柚真人はそれを受け取ると、黙って目を走らせる。
机の上には同じようなプリントがあって、どうやら彼は放課後、申請の整理作業をしていたようだ。
「ふうん……食品関係ね。これは……器材と予算の関係で六組枠だけど、まあ大丈夫だろ。担当は家庭科の柴木先生。調理室の使用なんかは先生と検討すること。……にしても、和菓子?」
「ああそれ。うん」
司は頷いた。
「久美ちゃんがどうしてもって。それで決まったんだけど」
「……ああ、お前の友達の」
「うん。えーと……それでね?」
「何?」
「兄貴、忙しいよね?」
「まあな。忙しいけど、それが何?」
「あ……それで……その……時間があったら、柚真兄に少し教えてもらいたいんだけど。お菓子のこと」
と、――久美に突きつけられた要求を、一応提案してみる。にべもなくつっぱねられるかと思ったが、予想に反して柚真人は軽く唸っただけだった。
「お前に教えればいいのか?」
「いやえっと……、実行委員だから、久美ちゃんと……」
「ふうん?」
「ほら、和菓子って難しいでしょ? ウチ、調理部いないのよ」
言い募ると、しばらく沈黙。さらに、思案の空気が漂った。嫌な間だ。
司は身構える。しかし果たして、柚真人はやれやれといった感じで――これは意外なことだった――頷いた。
「しょうがないなあ」
「え、――いいの?」
「何を教わりたいんだかわからんがな。でも学校では時間取れないぞ。日曜とか?」
「うん、たぶんいいと思う」
「じゃ、日曜はあけておくことにしようか」
柚真人はそういって、プリントを机上に置いた。
その時、廊下が騒がしくなって準備室のドアが開いた。司がドアの方を見ると、数人の上級生が顔を出したところだった。
「あ、皇君の妹ちゃんだ。だよね?」
司には覚えのない生徒だったが、よくあることだ。柚真人の妹、という意味で、学内有名人なのだから。
別の男子が、柚真人に声をかける。
「集計終わったか?」
男子生徒はどうやら柚真人と同じ二年の実行委員の面々のようである。
「ほらよ皇。お前、お茶だよな」
「申請、出そろった?」
「二年三組と六組、三年五組がまだだな」
と柚真人。
二年六組は飛鳥のクラスだ。申請は今日の五時までで、まだ意見がまとまりを見ないということなのだろう。委員の一人が大仰に嘆息した。
「うおっ、橘かよ。嫌だな、またややこしいこと考えてくるぞ」
「噂では屋上に巨大迷路を作るんだとか言ってたらしいがな」
「馬っ鹿だなあいつ……」
「三-五は?」
「ああ……あそこ担任が問題なんだよな。物理の杉本。あいつ生徒と一緒になって去年も面倒なことしてたろ。女装コンテストだったっけ?」
実行委員には委員なりの問題があるらしい。上級生たちは、一介の生徒である司にはわからない事情を口々漏らしながら仕事に取りかかりはじめた。
「ごめんね皇くん。集計かわるわ」
柚真人は一時留守番といった状態だったらしい。柚真人の前に缶の飲料を置いた女生徒が申し訳なさそうに言うのを司はぼうっと眺めていた。
「かまいませんよ、大丈夫です」
「そう?」
「それより、こちら食品取扱組出そろいました。柴木先生に連絡お願い出来ます?」
「ええ、いいわよ」
戻ってきたばかりの三年生と思しき女生徒は、柚真人に連絡表を渡されると、柔らかく微笑んだ。
それを見送る柚真人も答えて微笑む。
刹那――。
なぜか、どきり、とした。
胸が痛い。ずきん、と――本当に胸が痛んだ。
――何……?
その時急に自分が感じた重い衝撃、鈍い痛みを、司は戸惑いとともに受け止める。
柚真人の穏やかな表情。
それが、司の胸に大きな楔を打ち込むみたいに、ずきん、と。
――なに……?
「……今日は、夕飯には間に合わないかもな」
ふいに柚真人が言ったので、司は顔を跳ね上げる。柚真人はうつむいたまま、机に向かって作業を続けていた。
「遅くなる。悪いけど適当に済ませてくれないか」
「……」
「司?」
「……あ、……うん」
返事を求める時でさえ、顔を上げずに。司は、その横顔を見つめていたが、我に返って頷いた。鞄を取り上げ教室を出ようと歩きだす。
「じゃあ、……先に帰るわね」
彼を、教室に残して――扉を閉める。
「……っ……」
途端に――ぱたぱたと自分の双眸から涙がこぼれ落ちた。
――だ……だめ……っ。
司は、それを拭って歩きだす。
――何これ。……何これ……っ!?
何の涙か自分でもよく判らなかった。
ただ、胸が痛い。それがどうしてなのかは、わからない。淋しさと、悲しさと、喪失感がないまぜになって、喉が詰まる。
飛鳥が傍らにいなくてよかった――と、ぼんやり思った。
泣いているところなんて見られたら、たぶん、理由を追及される。白状するまでどんなことになるかわからない。
司は、走り出した。
SCENE 02
西陵高校の文化祭は三日間。
中途半端をよしとしない教育方針にのっとり、お祭騒ぎも徹底的だ。
九月から十一月にかけては、この文化祭を皮切りに、間に中間考査と数回の構内模試を挟んで体育祭、球技大会と催し物がてんこ盛り。一部の生徒にとってはまさに殺人的スケジュールを強いられることとなる。だが、生徒会執行部や各種実行委員会に所属し、成績を維持するための努力をまったく怠らず、各種行事において重要幹部を務め、あわよくば主役をかっさらおうという物好きで命知らずな生徒は、――結構多いという。
催事決定から三日後、水曜日の放課後。
司と久美、男子実行委員である青木康治・能登隆平、そして学級長両名は、教室に居残り具体的な計画作成に着手していた。文化祭まではあと三週間である。
「家庭科の柴木先生から調理室の指定がきたわ。うちのクラスは再来週のホームルームに注意の指導と、検討会。当日使用は教室最後部、調理台二台よ」
彩の言葉に首を傾げる久美。
「他には何やるところがあるのかなあ」
「匂いモノ、あと、調理室以外で火気を使用するのも厳禁だから、まあ、そう無茶やらかしはしないだろ」
と級長の久我。
「一-四が調理部と連携で定番のケーキもの。あと、汁物系が二クラス。残りふた組は情報極秘」
青木と能登は他クラスの情報収集に精を出していたようである。
「ああなんか嫌っだなそれ。三年?」
「魚類アイスという噂を小耳に挟んだぞ」
「げげ……なんじゃそら」
「男子運動部の女装コンサートよりはマシなんじゃないの」
と級長。実行委員両名は怪訝そうに問い返す。
「コンテストじゃなくて?」
「コンサート。女装して、アイドル系ソングを野太く熱唱するという企画」
「げげ……」
「ともかく。まず、人員を調理組と店番組、宣伝組に分けましょう。当番編成を任せて良い?」
彩が男子陣に問い、青木・能登の両者は頷いた。
「明後日のホームルームで決められるだろ」
魚類アイスは、端的に面白そうな企画だ、と本気で司は思った。そんなことだから兄は、妹に、料理と粘土遊びを勘違いするなと言うのだが、司自身にはそのような自覚は無い。
「そうね。まず三分割するよう、決をとりましょう」
あたしも店番組か宣伝組でいいのに、と司は思うのだけれど、久美がそれを許さないだろう。
柚真人が教えてくれると約束してくれたことを久美に伝えた時の喜びようを思うと、無下にすることもできない。とはいえ、柚真人の特訓を思えば胃が痛いばかりである。
もっとも、怒られて嫌味をたらたらくどくど言われるのは、司一人に決まっている。これが真の貧乏くじ、と司は内心うなだれている。
久美はというと、ひたすら楽しそうだ。
「調理は――」
「作る物とレシピは、あたしとこーちゃんで再来週までに確認する。検討会までに間に合えばいいでしょ?」
「そうね」
彩が頷き、男子陣も頷いた。
「んじゃ調理の企画そっちに任せるよ」
「予算と見合うように調整してよね、久美。あと手間がかかり過ぎるのも駄目よ。簡単なものにすること。いい?」
「わかってるわよう」
久美が唇を尖らせる。彩は、それを見やって――小さく溜め息をついた。
☆
「悪いわね、皇ちゃん。先輩に、よろしく伝えておいて」
困ったような呆れたような表情で彩が言い、司は頷いた。
「うん、大丈夫」
司は、電車を降りながら彩に軽く手を振った。
ドアが閉まって、夕暮れの中、電車がゆっくり動き出す。
外はまだ夏の気配を残して蒸し暑く、クーラーが思いのほか効いている。
ホームを離れる電車が大きく揺れ、吊り革を握る指先に力を込めながら、彩は隣の友人を見遣った。
「久美……あんた、本当に本気なの、もしかして?」
「え? うん、駄目もとだけどね」
彩の言葉に、うつむきながら久美が口許を綻ばせる。
「だって、皇ちゃんの話だと特定の彼女っていないわけでしょ? だったら可能性がゼロってことはないと思うの」
「そりゃ理屈ではそうだけど」
「だから頑張ってみてもいいと思うの」
「……はあ」
「ねえ、でも、なんで彼女いないんだろうね、皇先輩?」
唐突に久美が首を傾げるので、彩は、深く深く溜め息をついた。
――言い寄る女どもが己の何を見ているか、知ってるからでしょ。
あの少年は、そんなこともわからないほど馬鹿じゃない。
彩はそう思う。
とても冷静だ。外面を利用出来るのは、それが利用価値のある物であり、また利用価値しかない物であることを熟知しているからに他ならない。
彼はおそろしく冷たい男なのではないかと彩は思う。
だから――現時点では思うに久美もまた、彼から見るなら十人並みの女にすぎないはず。久美が、彼にとって突出した存在になり得るとは思えない。おそらく、相手の外見や性格以前の問題である。
――むしろ、――あれでけっこう辟易なんじゃないかしら。
けれど、彩だって久美にそんなことを言えるわけがなかった。それに、確かに可能性は皆無かと問われれば、肯定することも出来ない。
彩は訊いた。
「あんたさあ……。皇先輩の何処がいいわけ?」
「ええ? だって、やっぱり格好いいじゃない!」
あまりにあたりまえな返答に、はあ、と唸る。
「でも、あんた先輩のことあまりよく知らないじゃない?」
「そんなことないよう。優しいし、それにこーちゃんがいろいろ教えてくれるじゃない? それだけだって、他より一歩ぐらい有利じゃないかなあ」
「でも敵多いわよ? やめといた方がいいんじゃないの」
「どおしてえ? 駄目もとだもん!」
「それって矛盾」
「でも好きになっちゃいけないってことはないでしょ?」
「あんたね。本当に好きなら駄目もとなんて言えないでしょう。本気じゃないなら、あたしは止した方がいいと思うよ。真面目に好きになったら、あんたつらいんじゃない?」
「真面目とか不真面目とかないよう、彩ちゃん。あたし、先輩のこと好きだもん」
「……好きってねえ……」
どうしたものか、と彩は思った。
恋愛は自由だし、彩が決めつけるのも妙な話だ。久美が、好きだというのだから。
――それであの男が堕ちるって気はしないけど……。
と、彩は思うがそれも結局個人的な意見で、久美には久美の、彩には彩の、恋愛観というものがある。
好きになるな、というのも、まあ普通は無理な話だろう。
確かに、顔よし容姿よし性格よし成績よし。女の子が普通に恋に落ちるには、充分過ぎるほどの要素を、あの少年は有り余るほど抱えている。
だけど。
それはわかっているのに、何故か彩は、彼が好きになれない。
どうしてだろう。それはわからない。肌が合わない――そういうことなのかもしれない。
あの、作ったような笑顔が苦手だった。嫌いといってもいい。
でも。それを久美に押しつけるのも不条理だろう。
彩は結局、――しょうがないな、と嘆息するしかないのだ。
SCENE 03
――金曜日。
LHRが終わって、司は、学校からの帰り道、久美と寄った本屋で入手した数冊の和菓子レシピを携えて帰宅した。
彩が簡単で、費用のかからないものにするように、と言ったので、その通り初心者向けの本を買った。もっとも、兄の部屋には妙に専門的でマニアックな本がたくさんあったのだが、結局それは参考にならないだろう。
「なんでおれがこんなことを……」
台所のテーブルで、兄が溜め息を落している。
夕食後。
食器を洗う手を止めて、司は柚真人を振り向いた。彼は司に背を向けた格好で椅子に座り、和菓子の本を数冊並べてページをめくっている。
「あの……」
「なんだ」
「ごめん……ね?」
「あやまるな」
と、柚真人。
「ごめ……」
「……お前は何か悪いことをしているのか?」
「……」
確かに、そういうわけではない。柚真人は常々、お前の嫌な癖だという。意味もなくあやまられると、あまり気持ちがよくないそうだ。
食器を手早く片付けて、柚真人の反対側に司も腰を下ろした。
「それで、日曜に来るのはお前のクラスの委員?」
「うん……あ、でも女子だけね。久美ちゃんと彩ちゃんだから」
「ああそう」
「柚真兄は、……文化祭はどうなの?」
「さてねえ。執行部で手一杯だろうね」
「そう……」
「和菓子か……」
「和菓子って……難しいよね?」
「ピンキリだよ。簡単なものだけ作ればいいんだろ」
「もちろんそのつもり。予算もあるし」
柚真人はしばらく本を見ながら考えていたようだったが、ふいに、顔を上げて司を見た。
柚真人を見ていた司は、少しだけ驚いてそのまなざしを見返す。
「……なに?」
「ところで……お前、……利用されている自覚はあるんだろうな?」
「え?」
少しの沈黙があった。
「お前の友達のことだよ」
「?」
「どっちかっていうと、……小さい……猫っ毛の子。に、巻き込まれたんだろって云ってるんだよ。このお人好し」
柚真人は揶揄するような口調で言った。
「あの……?」
「お前が。実行委員て柄じゃないし。いまさら料理を教わりたがるわけないだろ? ってことはだ。誰かに頼まれた。そう判断すべきだろう。で、そうなるとおれに興味がありそうなのは、小さい子の方」
兄が、何を言っているのか、そこまで言われてやっと理解する。思えば、そういった状況に慣れっこになっている彼が、久美の目論見に気づかないはずは無かった。
司は慌てた。
「兄貴、そういう言い方って……」
思わずそう言う言葉が口をついて出たが、兄はそれを、ぴしゃりとさえぎる。
「仲介役でも買って出たつもりか?」
「ち、……違うよ」
まっすぐな視線に耐え兼ねて、司は目線を逸らす。
「でも……。断る理由がないもん……」
「まあそうだな」
あっさりと、頷く。
「でもひとこと言っておくと、おれはたぶんそういう期待にはこたえられないよ?」
「それは……」
「『あたしの責任じゃないもの』とか思ってない?」
辛辣な言葉が胸を刺す。
こういうとき、兄は本当に容赦がない。
「き……決めつけないでよ。……別に、彼女もちじゃないでしょ」
「さあ……どうかな?」
唇の端を歪めて言う。嫌な表情だ。
揶揄するような言葉と口調にむっとした。
「あのさ。久美ちゃんは、友達だし? あたしは、別に利用されてるなんて思ってない。久美ちゃんはそういう子じゃないよ。だた、……一生懸命なんだからそんなふうにいわなくてもいでしょ」
「なるほど。相手には利用している意識がないってわけだ」
「そんな言い方しないで。じゃあどうすればよかったわけ? 柚真兄は、緋月ちゃんと付き合ってるからあきらめて、とでも言えば良かったの?」
「緋月とは別に、そういうんじゃない」
「でも、……緋月ちゃん、好きでしょう?」
「別に」
その返答に――びっくりした。それが意外、というよりは、あまりに冷淡で。
「……なによ……それ……」
きっぱりと言い捨てられて、司は言葉に詰まった。
そんな答えが返ってくるとは思わなかった。
兄は小さく笑って、
「そんな顔しなくったって、緋月はちゃんとわかっているよ。だけど、お前の友達はそんなわけにいかないだろ。そういう気持ちは重い。期待させるわけにいかないな」
「そ……んなふうに決めなくたっていいでしょう? 彼女も好きな人もいないんだったらなおさら――」
「決まっていなきゃ言わないよ」
「え?」
「だから。――決まっている」
兄の切り返しは早かった。
数秒の空白。
その言葉に、――司ははっきり動揺した。
――どういう意味?
今、なんて?
「……好きな人がいる……の?」
「ノーコメント。答える義理はねえな」
「――――っ」
そのひとことは。
鋭く胸の深いところに突き刺さった。
冷淡な態度、落ち着きを乱さない彼が腹立たしかった。本当に癪に障る。
「ああ……ああ、そう。なんだそうなの。……かわいそう。柚真兄みたいに冷徹な人間に好かれた方もたまらないわね」
「ほっといてもらおうか」
「ほっとくわよ、バカ兄貴」
司にとってそれは、もはや売り言葉に買い言葉、の勢いだった。
柚真人が、司を見る。
それから、華やかに微笑む。
「言うねえ……。おれに協力を仰いでいるのは誰なのかな? 放り出してもいいのかな」
「な、によ……」
「まあいい。その話は、やめておこう」
「……っ」
「とにかく。お前が困るんじゃないかと思ったんだよ。友達なんだろ。……友達が傷ついたら、お前も傷つくだろう。そういうわけだからあとあとのフォローを、友達としてよく考えておくんだな」
司は唇を噛んだ。
そして唇を開きかけるが、何を言っていいのかわからない。
恋をする、と言うことは楽なことじゃない。緋月の気持ちも、久美の気持ちも、いや、それ以前にもっとたくさんのいろんな人の気持ちを、――簡単に踏み躙るようなことを言っておきながら、なんで彼は涼しい顔をしていられるんだろう。
――否、違う。
わかっている。これは一方的な感情で、彼には感受する義理など無い。
――こんな男が一体誰を、想うというのだろう。
なんで嫉妬してるんだろう。なんで。
でも。
思うことが、なにひとつ言葉にならない。
「ほら。本題に戻ろう。何が作りたいんだ?」
返す言葉が――それ以上見つからなかった。
SCENE 04
今日の風は少し冷たい。
土曜日の朝、校門へと続くなだらかな坂道を一人歩きながら、司は小さくため息を落とした。ここのところ、兄の朝はなお早くて、目覚める頃にはその姿を見ない。
頭の中で、いろいろなことがとりとめなく渦を巻き、心が落ち着かない。
たぶん。それは、昨夜の――柚真人のせいだ。
――好きな人がいるんだって。
久美に、そう伝えるべきだろうか。けれど久美なら言うだろう。
――でも彼女ってワケじゃないのよね? じゃ、可能性はゼロじゃないでしょ?
それが彼女の口癖だったし、彼女は良くも悪くも非常に前向きでポジティヴだ。
自分はどうしたいんだろう。
こういうとき。友達と同じ人を好きになった時。
でもそれは無意味な問いだ。彼は司の兄であって、はじめから勝負にならない。何時か誰かと――それだけは絶対に決まっているのだから、それならそれが誰だって、司には関係の無いことなのだろう。それならば、友達の恋路だって、応援するのがいいと思う。
諦めるしか無いんだ。
どうにも、しようがないんだから。
名前を呼ばれたのは、次の瞬間だった。
「おはよ、司ちゃん」
「あ……」
司の姿を認めて走って追いかけていたらしい。橘飛鳥だ。
「飛鳥くん。……おはよう」
「どうしたの。なんだか元気ないね」 傍らから司の顔を覗き込み、飛鳥が言う。
どきりとしたけれど、司は表情を繕うことが出来ない。だから素直に答えた。
「……昨夜、柚真兄に怒られた」
ごまかそうとすると、飛鳥には悟られてしまう。司はそれを警戒した。普段あまり表情に変化のない司なのに、こういう時――考えていることを隠そうとするとき――だけは何故か感情が顔に出てしまうらしいのだ。
「へえ」
意外にも飛鳥は、どうして、とは訊いてこなかった。
いつものように、ちゃかしたようなふざけたようなことも言わなかった。何となく真率な顔で、小さく頷いただけだった。
それがなんとなく意外な反応だったので、司は飛鳥の横顔を覗き込んだ。
「飛鳥くん……?」
「ねえ、司ちゃん」
彼が司を見て、目が合う。
「はい」
「そういえば、僕……日曜、柚真人に呼ばれてるんだけど……」
「え?」
「日曜日、何かあるのかな?」
☆
「着替えて社務所の店番だ」
玄関で飛鳥を迎えるなり、柚真人がそう言った。
「……今日は何? 仕事じゃないでしょ?」
「司のクラスの連中が来てる」
「へえ?」
「和菓子の講習会をやらされている」
ふうん、と飛鳥は唸った。仏頂面というかなんというか、飛鳥の前では憮然とした様子を、隠そうともしない柚真人だ。
「なるほど文化祭絡みってわけ。……今日の巫女さんは?」
「サヤカさんとヒカリさん」
それに一体いかなる意義があるのか、飛鳥はふむふむと頷いて、
「わかりましたよ、いいでしょう。和菓子、あとで試食させてね」
それからどことなく機嫌の悪そうな柚真人を見遣る。
「ところで、……司ちゃんと喧嘩でもした?」
「喧嘩?」
「お前に怒られたって。司ちゃん、元気なかったよ昨日」
「ああ……」
「あんま苛めないでよ」
「苛めてない」
あがるよ、と飛鳥が言うので、勝手にしろ、と柚真人は吐き捨てた。
「どうも皆さんおそろいで」
柚真人の部屋で仕事用の白衣に着替えた飛鳥が、台所に顔を出す。
皇邸の古びた台所には、皇兄妹と山野久美、笹原彩がいて、テーブルを囲んで腰を下ろしていた。柚真人はテーブルの傍らからやわらかく微笑みつつ凄まじく剣呑なまなざしを投げかけてきたが、飛鳥は素知らぬ風でそれを受け流す。
「あら……橘先輩」
「こんにちは」
「その格好……どうしたんです?」
「これ? 柚真人の代わりに神社で労働なんだな」
「あら。……じゃあ先輩に悪いことしてしまったわ」
彩が表情を曇らせる傍らで、屈託なく久美が言った。
「先輩のクラス、二人羽織早食い競争ですよね」
「久美……あんたちょっと遠慮とか礼儀とかね……ていうか挨拶っ」
「ああ、いいのいいの。それに僕は部活の方に行くけどね」
「……企画たて逃げかな、飛鳥クン」
「部活の方ではなにやるんです?」
彩の問いに、飛鳥は胸を張って答えた。
「地学部、物理部、科学部連携の研究展と実験ショー」
「……そっちも杉本企画?」
と久美と彩がいるので、思いきり外面仕様で柚真人は微笑んだ。
実行委員の立場から言わせてもらうと、本当のところ、物理の杉本教師は生徒を軒並み押しのけて面倒事筆頭格に数えられるので、あの阿呆教師が、と言いたいところなのだが。
「杉本組の今年は、学内ばら撒きクイズだよねえ」
「賞品とかあるんでしょう?」
「なきゃ誰も参加しないよねえ。あんな無茶なの」
「無茶な企画なんですか?」
「受付エントリーすると指定書がもらえてね。その指示通りに学内中問題を探し回らなくてはならないという……」
「賞品は?」
「まああれだな。先着五名様、食券半年分。とか」
「ああそりゃ参加もするわね」
「で、おねーさんたちは何を作るの?」
「これから考えるんです。手間がかからなくてコストもかからない物」
「彩ちゃんそれじゃあつまらないよう」
「お黙り。あたしは別に発注にしてもいいのよ。そのほうが安上がりだし、素人が作るよりよっぽどマシ」
「意地悪う」
「和菓子なめてんじゃないわよ。本来なら職人の技モノなのよ?」
飛鳥はふたりのやり取りを苦笑して聞きながら、軽く肩をすくめた。
「まあいいじゃない。頑張ってね。じゃあ、いってくるわ柚真人」
「頼むよ。今日は四時半でいいから」
「了解」
飛鳥を見送った柚真人は、女子三人が陣取るテーブルを傍らに立ち、彼女たちが交互に見やっている雑誌のひとつを手に取った。
「あたしも魚類アイスがよかったなあ」
という妹の言葉は聞こえなかったことにする。
そんな企画もあった気がする。当の実行委員に「魚とアイスってどうかな」
などと問われた記憶がある。確か、ラインナップはマグロとイワシとサンマ――考えただけでもげんなりだ。
司あたりは喜びそうだが個人的にはいささか難ありだと激しく思う。
「さて。で、訊きたいことは何かな?」
営業用とも言うべきごくごくにこやかな笑顔で。
柚真人は尋ねた。
「練りきりとかやってみたいよねえ」
「却下よ」
「何度もいうけど、食べ物は粘土じゃないんだよ、司」
「寒天寄せは。キレイだよ、これ」
「保冷ものは駄目っ。ナマモノも駄目よ」
「とら焼きとか」
「『どら』の方が無難かな」
司と久美があれやこれやと好き勝手に例を挙げ続けたが、柚真人と彩は次々と却下判決を下した。
彩が言う。
「いっそ、饅頭かなんか一本に絞って、中身を変えたら?」
「いやあん彩ちゃん、それじゃあ『お饅頭屋さん』だよ」
「いいじゃない饅頭。和菓子じゃない」
「ふうん、お饅頭の中身かあ……」
「そう。工夫は餡でするわけ。小豆とか芋とかカボチャとか、あるでしょ」
「ああそれ……何か面白そう?」
司のその言葉に、不穏な空気を感じたのはきっと柚真人ひとりだったに違いない。
饅頭の餡のアレンジ、というのはすなわち司にとって、魚類アイスと同じくらい魅力がある料理に違いないのだ。
ああしまった、と柚真人は内心で眉根を寄せたが、もはや後の祭だ。
どうもその線で話がつきそうな勢いである。
「そうすると、和風ならなんでもいいかな?」
と、司。
いやよくないだろう、柚真人は思うが何も言及しないことにする。
「じゃあ次のLHRでそれは検討するとして」
「それだけじゃ淋しいよう。他にも何か作ろうよ」
「じゃあ団子」
「彩ちゃあん……」
「なによ? たぶん誰が作っても失敗無いわよ。――ねえ、先輩?」
彩が久美を黙らせるように問答無用で言い放つ。
そして柚真人を見上げてにっこり微笑むので、柚真人は微苦笑して頷いた。
「そう……だね。あと、薩摩芋を使うなら芋羊羹もできるし」
「スイートポテトっ」
「却下。和菓子じゃありません!」
「和菓子だもおん。和菓子屋さんで売ってるもん! 彩ちゃん意地悪っ」
「魚饅頭は駄目? 和風だと思うけど」
「司は魚から離れなさい」
「やあん。そんなのお」
「ああもう煩い! じゃあ決定よ。饅頭、団子、芋羊羹。不服なら大福もつけてあげる。文句ないわね!?」
沈黙。
彼女が学級長だというのは大変正しいことだと、柚真人は実感した。
「そうだね。じゃあ……作り置きの小豆餡があるから、とりあえず今日は生地の作り方、練習してみる?」
☆
来週の日曜日の同じ時間にクラスで決をとり、意見のあった材料で試作する、ということで、事態は一応の決着を見た。
「お疲れ、彩ちゃん」
「まったくだわ」
彩は苦笑いした。ひととおりの作業を終えて、久美より一足先に帰ると言った笹原彩を、司は神社の境内まで見送りに来ている。
彩は、それから少し考えるようにしたあとで、不意に言った。
「ねえあんた……兄さんのこと、実際正直、どんな人だと思っている?」
思ってもいないことを聞かれて、司は驚いた。
彩はささか冷めた目で、夕暮れの空を見上げていた。
戸惑いを隠しながら訊く。
「ど……どうって、どう?」
「うん。なんていうか……ごめんね? 少し気になるところがあって、さ」
「え?」
司が首を傾げる。
「あたし、どうもあの人、苦手なのよね。……あのさ。あんた、久美がなんでこんな企画を立てて、実行委員に乗り出したかわかってるでしょ?」
もちろんだ。
その点は兄にも指摘されたぐらいだから。
「でもね、理解できないのよね。久美が――久美だけに限らず女の子たちがあんな風に簡単に、皇先輩を好きなるって言うのが」
彩は、司を一瞥した後、ふと頭を振って嘆息した。
「ごめん。妹のあんたに突然変なこと言って、……悪いとは思うの」
司は咄嗟に言葉を探したけれど、なんと言っていいかわからなかった。次の、彩の言葉を待つ。
彩もまた、言葉を探している様子で言う。
「あ……んと。どうしてかっていうとね。そうねえ。……ね。あたしにとってはさ。久美も友達なのよ。……あの子ってさ、少し軽くてやたら素直でしょ。
思い込み激しいし、真っ直ぐだし。それは悪いことじゃないけど、でもね」
何か探すように言葉を切る。
「あたしとしては? 警戒もしたくなるの。あんたの兄さん、皇先輩みたいな態度って、結構いい根性してなきゃできないことじゃないかと思うのよね。この年頃なら、恋愛のひとつもしたいのは道理よね? なのに本気の女の子も何も、愛想良く十把ひとからげ扱いっていうのはね。そりゃ一見優しいし、感じもいいけど考えたら誰が傷つこうがお構いなしってふうにも感じるの。それを承知でああも愛想振り撒けるとしたら、尋常じゃない冷血漢なんじゃないかって」
「……」
「どうなの? 皇先輩って……、そういう、人なの?」
「彩ちゃん……」
意外だった。
柚真人の外面は本当に完璧で、そんなふうに彼を評価した人間を、司は他に知らない。
だから――反駁しなかった。
「うん……、そういうふうに、なっちゃうかもね……」
「優しくされると、久美は勘違いだって簡単にしちゃうわ。……それが気になって。それはね、本当は面白半分みたいな久美も久美なんだけどね……まあ一生懸命なのは悪いことじゃないし」
司は嘆息した。
そう――あれは確かに性格の悪い男だ。妹の自分でもそう思う。
だけど。
彩の言うことに理はあっても――的確ではない。
そもそも柚真人に害意は無いのだ。
確かに冷血で悪辣なところがあることは否定できないけれど、――彼には彼なりの在り方があって。
「皇ちゃん?」
「あの……」
「何?」
「……」
結局、司はそれを言葉にすることは出来なかった。
皇柚真人という人間のかたちはうまく言葉にならない。
「……ごめん」
「それどうして? あんたがあやまることじゃないわ」
「……ご……。あ……んーと……」
「それは……先輩の素顔を知ってるからこそ、の言葉なの?」
司は嘆息した。
なんと言ったら、いいだろうかと、しばらく思案する。
そして、言葉を選んで言う。
「……あたしは、客観的にはどうともいえない」
「どうして?」
「あたしね……こーみえて相当重傷のブラコンなの。……本当の意味で、コンプレックスの塊。……だから、兄貴に対して、客観的な評価はできないのよ」
「……そうなの?」
「……正直、あの人凄いんだ。……確かに外面はいいの。彩ちゃんが柚真兄を苦手だって言うなら、裏表があるのを感じるからだと思う。でも、実際の柚真兄は……もっともっと本当に凄い。あたしから見たら、楽しいことなんて何ひとつない、孤独で厳格な生活を、己に強いることのできる人なの。すごいのよ。多分……女の子のことって、兄貴にとってすごくどうでもいいことなんだと思う……って言うと、語弊あるかなあ」
「語弊、なワケ?」
「うん。上手くいえないんだけど。冷たい、んじゃないだよね。多分、本当のところ自分に興味を持ってる女の子達が、傷つかないって知ってるからなのよあれ。誰も本気じゃないって、わかってんの」
「……ふうん……。意外ね……」
「……え?」
「……あんたって……もっと、違った感じで兄べったりなんだとおもってた」
彩が笑った。
「彩ちゃん……」
「いいわ。とにかく、久美が傷つくのもあれだから、と思ったの。ほら、あたしはここでいいから戻って。久美、頼むわね」
彩は、そう言って、――手を振った。
SCENE 05
小さな少女がふうふう言いながら荷物を抱えて歩いている。
難儀そうな様子を見遣って、飛鳥は彼女を呼び止めた――月曜日の放課後。
「緋月ちゃん、半分もったげようか」
「あら、飛鳥さん」
自分の抱えた荷物の影から、少女が顔を覗かせた。
「お帰りですの?」
「いーや、部活。貸して」
「ええ、ありがとうございます」
立ち止まった彼女から、飛鳥は半分荷物を受け取って、肩を並べて歩きだす。
荷物は、ほとんどが裁縫に使うような布地の塊だった。
「何これ?」
「ああ、衣装……の、布ですわ」
「へえ? 緋月ちゃんのクラス?」
半分でもまだ大変そうに生地らしき布の束を抱え、緋月が首を振った。
「クラスというより、何でしょう。合同企画ですの」
「ああ、一年有志の演劇ね?」
「ええそうですわ。私は……よくわかりませんけれど衣装の係で……」
「劇には出ないの?」
「私、そういうのはあんまり……」
「もったいない。どんなお話?」
「内緒なのですって。箝口令が敷かれていますのよ。ですからお教え出来ません」
「へえ。それは念のいったことだね」
「ええ。……ああそうですわ。最近柚真人さまお元気でいらっしゃいます?」
緋月が言うので、飛鳥は首を傾げた。
「あれ、下校一緒じゃないの?」
「最近はさすがに。部活がある時はご一緒していただきますけれど、いまはそれもお休みですし、委員会のお仕事がお忙しいようで、お会いしていないんですのよ」
「ああそうか。なるほどね」
緋月はつまらなさそうに唇を尖らせている。
そんな彼女の横顔を眺めながら、飛鳥は黙って歩いた。
「文化祭当日はつかまらないかしら」
「ああたぶんね。それに向こうずっと、体育祭に球技大会でしょ。今からクリスマスあたり、予約しておいたら?」
「そうですわねえ……」
困ったような顔で、緋月が呟いた。
文化祭まではあと二週間ばかりで、夕方の空の色や、朝の空気の匂い、廊下を吹き抜ける風の温度が、変わりはじめていた。
九月が終わろうとしている。
☆
結局、学級長の強行かつ有無を言わさぬひとこえにより、二年三組の売り物は饅頭団子で押し切られてしまった。
「私、および久我君のノートを、以降すべての学力考査において必要としない者は、遠慮なく反対して頂戴」
と、にっこり笑って言い切る彩も彩だが、それで黙らざる終えなかったクラスもどうか。思うにの学級の級長ふたりはそうとうに悪辣だ。
そして司を含めた数名が提案したろくでも無い餡計画は、もちろん日曜日の試作段階で、彩と柚真人に却下され、なんとかまともな和菓子処らしきものに落ち着くこととあいなった。
「大丈夫です先生、何も問題ありません。クラス一同円満に進んでますからどうぞご心配なく」と、今週に入って、笹原彩はクラスと担任にそう報告したらしい。
お祭り騒ぎが一週間前に迫ると、午後の授業は無くなって、文化祭の準備に充てられる。
校内の装飾が少しずつ進み、各種企画のエントリーが始まる。フライングともいうべき諸行も時折見掛けられるようになるが、それもお祭の前のあの、どこか楽しくて切ない空気に飲み込まれていく。
どこか切ない、お祭の、空気に。
☆
皇柚真人や橘飛鳥が所属する実行委員会執行部も、それにつれ比例して輪をかけて多忙になっていくのだろう。司はここのところ、家で兄を見かけない。
けれども今は、柚真人にどんな顔を向けたらいいのか、自分自身でどうにも見当がつかなかったから、気が楽といえば楽だった。
本当のところを言えば、言葉を交わすのが、――怖いのだ。
兄が忙しいのは一年通していつものことだったが、学校からの帰宅が遅い上に、夜は夜で家の仕事をしなくてはならない様子で、そして朝も早いらしい。
司が目を覚ます頃、すでに兄は家を出てしまって姿が無い毎日がここのところずっと続いていた。
先週に引き続いて、日曜日に皇邸で催された練習会を終えて以来、そう言えばろくに会話する暇もなかっただろうか。そのうえ皇家では、現在高校生である司と柚真人の兄妹以外の家族は常に家を空けがちだから、家はいつにもましても静かだった。
学校と家との温度差は奇妙な感じだ。
夜、――しんと音の途絶えた部屋から闇色を見上げて、司は思う。
柚真人のこと。
どう思う?
――誰が傷つこうとお構いなしってこと。
彩の言葉はある意味正しい。
彼がそういう男だと、いうことも出来る。
でも。彩の危惧――そんなこと、彼はとうにわかっているだろう。
――そういう人の気持ちは重い。
柚真人が言ったその言葉に鑑みれば。
――期待をもたせるわけにはいかない。友達が傷ついたら、お前が困るだろう。
彩の言葉は――正しいけれど、正確ではない、と思う。
柚真人は、意図的に人を弄んでいるわけでは――無い。
一見冷血なように思えるけれど。
あれは、冷血なのではなくて、冷徹なのだ。
誰が傷ついても、頓着しない――普通の価値判断をすればそれは確かだろう。
だが、ほんとうのところはそうではないのだ。
本当に傷つくというのがどういうことか――柚真人はそれを知っている。傷つく、ということの本当の意味を知っているから、だから甘くない。
それだけのこと。
人の気持ちの軽さを誰より良く知っているからこそ。
人の心を蔑み、侮蔑して。
人の気持ちの重さを誰より良く知っているからこそ。
人の心を畏れ、敬意を払う。
それだけのことだ。
彼の在り方は。
たぶん――それほどに冷徹。
だからこそ、どんなに『悪辣』なことも『狡猾』なこともできる。結局それは、他者の視点からの評価でしかなく、彼はいつだってただ的確に、冷静に、己が最善と信じる路を、怯まずに選択しているにすぎない。
何事に対峙する時も、真摯に。
その姿勢に、司は強く強く惹かれているのだ――ろう。
惹かれているのに――。
そんな彼が、いったい、誰を想う?
SCENE 06
翌日に文化祭の幕開けを控え、午後の学校は何故か静かだ。
誰もいなくなった教室で、司は鞄と鍵を取り上げる。
司は日直で、実行委員会も重なって帰りが遅くなってしまった。久美と彩が、昇降口で待っているはずだ。
鍵と日誌を手に階下へ降り渡り廊下を歩いて、二年校舎一階にある職員室へと急いでいた時、階段を降りてくる飛鳥と出遭った。
「司ちゃん」
声に顔を上げる。
「なあに、日直?」
司は頷いた。
どうやら飛鳥も、教室の鍵を返却するため職員室へ足を運んだらしい。
飛鳥は実行委員会執行部の会議だった、と司に言った。ちなみに執行部と委員会は別の組織で、別々に活動しているから、飛鳥と顔を合わせたのも学校では久し振りのことだ。
司は日誌と教室の鍵を、飛鳥は執行部室の鍵をそれぞれ返却して、職員室を出る。
「大丈夫?」
と、飛鳥に訊かれて、司は首を傾げた。
「ほら……、こないだ柚真人に怒られたって言ってたでしょ。柚真人の奴、ここんとこえらく不機嫌なんで、ね。司ちゃんもね、日曜もその前の日曜もへっこんでいるふうだったから」
「あ……、……えと……」
全然、とか、そんなことない、とか、咄嗟にそう言う言葉が出なかったのはどうしてだろう。何も言えないうちに、飛鳥がにやりとする。
「あいつ、何に腹を立てているわけ。珍しいよね。まさか日曜日のことじゃないでしょ?」
「ええと……。うん……半分違うかな……」
迷いながら司は答えた。
どう――しよう?
「半分?」
黙ると、促すように飛鳥も黙る。うかがわれているような間が苦しくて、でも逃げ出すことも出来なくて――そんなことしたら、追いかけられるに決まっている――司は逡巡した。
「あのね、……あーっと……」
「うん?」
「あの……。クラスの友達がね……来ていたのに理由があって……」
司は――それでも言い淀んだけれど。
「ああ、あの子ね」
あっさり言ってくれるものだから、続けざるを得なくなってしまう。
うつむき、また迷って、頷く。
「文化祭利用してあからさま柚真人狙いって行動なわけだ。それに柚真人が怒ったの?」
司は、小さく首を振った――横に。
「じゃ、なに? どうして?」
「いや、その……」
「ん?」
上手い、逃げ口上が思いつかない。
司は逡巡しながら口を開いた。
「……自分は彼女に興味が無いから、あたしがあとで困ったことにならないようにしろって言ってた」
「へえ。柚真人がねえ。珍しいじゃんそういう反応?」
「うん……。ほら、彼女あたしの友達でしょ? だから。仲介してるつもりかって言われちゃってさ……。柚真人が、ご機嫌斜めなのは、たぶん、それからなのよね……」
司はうつむいたまま少し首を傾げた。
飛鳥の顔を見返すことができない。
「そんなの、普段気にしないのにね。そりゃ、確かにいま、柚真人忙しいから、余計な仕事増やして悪いとは思ったのよ。欝陶しいのも、解ってたつもり。でも……あんなふうに言ったことなかったから、あたし、気にしてなくて、それで」
そして――ここから先を、言葉にしていいものかどうか、戸惑う。
声に出して。
飛鳥に聞かれたら。
自分の声に宿る感情を。
見抜かれるような、気がする。
言っては、ダメだと、言う気が、する。
だけど。
「あのさ……飛鳥くん。それでね」
苦しくて。苦しくて。
「……柚真人が言うんだよね……」
「え?」
「――好きな人がいるからって」
「――――え?」
「だから久美ちゃんには期待させられないって。ねえ飛鳥くん、柚真人、に、好きな人がいるの……知ってた?」
小さな声で、司が訊いた。
飛鳥は瞠目して司を見た。
「それ、……柚真人がそう言ったの?」
「うん。だけどひどいでしょ。あたし、そんなこといわれたら友達にもどんな
顔したらいいかわからなくなるじゃない? 底意地悪いにも程があるよね……」
飛鳥には――ようやく、柚真人の不機嫌の理由がわかった。この一ヶ月を、彼はさぞ複雑な心境で過ごしたに違いない。
同情を通り越して憐憫さえ覚えてしまう。柚真人はいらだちを、解っていながら彼女にぶつけざるを得なかったのだろう。すきなひとがいるという告白は、苦し紛れのひとことで、たぶんいま、柚真人はそれを吐きだしてしまったことをひどく後悔しているはず。
だから――ああも機嫌が悪いのだ。
――なんてこったよ。
凝然、と、飛鳥はいとこの少女を見返す。
そして飛鳥にとって、もっと重いのは。
いま、の、司の気持ちだ。
彼女の表情は、飛鳥からは見えないけれど――。
少しの重い沈黙。
オレンジ色の光が窓の形を廊下に描く。
彼女の声が震えている理由。
それは、飛鳥にとっては――気がつきながら、目を瞑っていたい答えだった。
知っていた。
感づいてはいた。
けれど、心の何処かでそうであっては欲しくないと、そう、思ってもいた、それは事実で――。
彼女の口から、それがはっきり言葉になると――予心のどこかで想していたこととはいえやっぱり少し、辛い。
その事実に、飛鳥が気付いていることを、彼女はわかっていないみたいだけれど、でも――わかってた。
飛鳥はだから、言う。
問い詰めることは、己を断罪することだと知りながら。
「君さ……。自覚ある? それでどうしてそんなに君がそんなにへこまなくちゃいけないのか?」
「……え……?」
司が顔を上げた。……柚真人に何処か似た面差し。泣きそうな顔をしている。
「わかっている……んだね」
飛鳥は――意を決して言い募った。
「……僕をごまかせてると思ってるなら、それは甘いよ?」
「あすか……くん……?」
どうやら本当に、気付かれているとは思っていないようだ。彼女の表情が、怪訝そうな、警戒するようなそれに変化する。
「司ちゃんはそもそも何が気になっているの。友達が失恋すること? 柚真人に面倒事を押しつけたこと? あいつが不機嫌なこと?」
「……それは……あの……」
「……それとも……柚真人の『好きなひと』?」
どきん、と肋骨の下で自分の心臓が飛び跳ねた。
見返す飛鳥のまなざしが鋭くて、さらにどきりとする。
「それを知りたい?」
「え?」
「あいつが、誰を想うか。……何考えてるか、知りたい?」
背を向けたまま、飛鳥が問う。司はやや戸惑って、言葉につまった。
考えるけれど、答えが形にならない。
「柚真人のことなんて放っておけばいいじゃん? できない?」
「……飛鳥、くん?」
「そんな嫌味はいつものことだろ。そうは思えない?」
何故か、――飛鳥の声が、今まで聞いたこともないような、攻撃的な色彩を帯びたように思えた。司は、わずかに身を堅くする。
「それってさ。……いいかな。言っても?」
「……どういうこと……?」
飛鳥は、司を見つめたまま、まなざしを逸らさない。
「僕、わかっちゃうんだよね。……君のこと、本当に大切なんだ。いつでも君を見ているよ。だから」
「……そんな……。またそういう……」
冗談ばっかり――と微笑もうとして、失敗した。
「やれやれ。決死の告白さえ、本気にしてもらえないとはね」
「……やだ。……冗談、よね?」
「本当に本気にしてくれないの? 少し、悲しいな。僕は君が好きだよ?」
何処かの窓が開いているか、風が流れる。
「……でも君は、……柚真人のことが知りたい。いつでも目が、あいつを追いかけているもんね?」
「……っ」
飛鳥の言葉の意味を悟って、司ははっと顔を上げた。
――気付かれていた!
まさか――。
「いつでも、僕は君を見ていた。いまそういったでしょ? だからわかる。君はいつも、あいつを見ていた」
「飛鳥くん、あたしっ……あたし、あのっ」
「君は……」
「だめ、お願い」
「柚真人が」
「飛鳥くんっ! 止めて! 駄目っ」
「柚真人のことが好きなんだね」
「飛鳥……くん……っ」
「……ごめんね。司ちゃん」
飛鳥が困ったように微笑んだ。
「でもね、僕だって決めてもらいたい。柚真人を、諦められる?」
「……」
意味のない問いだ、そうする以外に路は無い。
だけど。そのはずだけど。それは本当に、どうしようもないくらい理解しているつもりだけれど。
返す言葉が見つからない。
どんな顔をすればいいのか解らない。
いったいどんな――。
「僕、では、駄目なのかなどうしても」
沈黙が重い。
肌に刺さるみたいに。
「ごめん飛鳥君……ごめんねっ」
叫ぶようにそう言って、司は走り出していた。
☆
「彩ちゃん、久美ちゃん、ごめんね。あたし、用事があるの。思い出したから」
それだけ言うのがやっとだった。
待たせていた級友達の傍らを、走って通り過ぎる。
「あ……、こーちゃん!?」
「……飛鳥さん?」
駅へと向かう帰り道、呼び止められて振り返る。
「……や、緋月ちゃん」
「どうしましたの。疲れた顔をなさって?」
「そう見える?」
「見えますわ」
緋月が、ころころと微笑む。
「……泣かれちゃうとね」
「え?」
「さすがの僕でも、まいるってもんだよ」
「飛鳥さん?」
「わかってたけど、ね」
それきり駅まで、飛鳥は黙って歩いた。
――柚真人に好きな人がいるの、知ってる?
勿論だ。
――あいつが、いつか言っていたことがある。
「何処までが普通、当たり前なんだ? おれには、それさえわからない」
そのとき。
柚真人は、泣きそうな顔をしていた。
それでもきっと、涙ひとつ、こぼすその当たり前の術すら、彼は知らないに違いない。切ないまなざしを、静かに伏せて。
「……何処までが限界だ。おれにはもうわからない。だから、逃げている」
普通でいいじゃないか、と――飛鳥には、そんなことしか言えなくて。
柚真人は、顔を伏せたまま首を振った。
「何処までが普通? 何処までが許される? 兄でさえいられない……」
胸が痛んだ。
この少年を裏切って、傷つけるなんてこと、できはしない。
飛鳥はその時、そう思った。
駅のホームに電車が滑り込んでくる。
――たく。見てらんないよ、あいつら……。
SCENE 07
――今ごろ……みんな、どうしてるかな……。
寝台の中で、司は思った。
今日は文化祭初日。
全身、重くて起き上がれない。
柚真人はたぶん、もう学校だろう。
――馬鹿みたい……。
俗に言う、知恵熱だろうか。それとも風邪だろうか。
――本当、あたしってどうしようもない馬鹿……。
悩んでもどうしようもないことで悩み、熱まで出すなんて。
愚かしい。
情けない。
馬鹿馬鹿しい――。
――わかんないよ。……どんな顔して、あえばいいの……。
兄にも。いとこにも。友人達にも。
いまは合わせる顔がない。自分が、どうなってしまうかもわからない。
制御出来ない。
――これって……病欠じゃないからズル休み……か、やっぱ。
サイテー。
季節が巡って。
司の心は、闇へと一歩、踏み出した。
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