第29話 心の在処




      ☆


「……おれの勝ちだな」

 夏休み明け、すべての学年で実施される学力考査。

 ――司が順位を上げれば、柚真人が司の要求を受ける。

 ――それができなかった場合、司は柚真人の要求をのむ。

 兄と賭けをすること自体が間違いだったと――司はいたく反省した。



 軽く肩をすくめながら、よもや文句はあるまいな、という顔で兄が微笑む。

 司は、嫌な顔で重くため息をついた。

 ここは、二年校舎の掲示板前。

 夏休み明け、学力審査模試の成績上位者が掲示されている。嫌味ったらしくも燦然と光り輝く学年首位は――もちろん、目の前の少年――皇柚真人。

 一方の司の成績は、推して知るべし。

 今更ながら、彼を相手に賭けを持ち掛けた自分が無謀であったことを、司は悟らざるを得なかった。

 自分には負ける可能性があるが、彼には負ける可能性などというものは微塵も有り得ないのだ。

 司は迂闊にもそれを、忘れていた。

「さて、じゃあ約束通りこちらの要求にしたがってもらおうか」

 言うので、司はちらりと柚真人の表情をうかがい見る。

「しょうが……ない……よね。うん」

「結構」

 柚真人が、優しいとか柔らかいとか、そういった言葉からはもっとも縁遠い感じのする、不吉な予兆を孕んだ表情で頷いた。

 だから司は諦めて訊く。

「で……柚真兄の要求って何なの?」

 兄妹は、肩を並べて階段へを歩きだした。放課後の校舎で、もう人影は疎らだ。司が二年校舎にくることはまれだったが、柚真人の妹というだけですでに有名人と成り果てたらしく、すれちがう上級生がにこやかに挨拶をくれる。

 階段を降りながら柚真人が告げた言葉は、司のまったく予想していないことだった。

「次の仕事に付き合ってもらいたい」

「え?」

 一瞬、何を言われたのかと――思う。

「し、仕事……って?」

「だから、『皇神事』の仕事」

 驚いて足を止める。

 柚真人はというと、構わずに階段を降りていってしまう。

 司は慌ててその背中を追いかけた。

「あの、えっと……兄貴と?」

「飛鳥と緋月もエントリー済みだけど」

 振り向かずに答える。それから少し間をおいて、彼は続けた。

「お前に『皇の巫女』たることを強要するつもりは毛頭無いが? 危急の事態に対処する術ぐらいいずれはは身に付けてもらわないとな」

「――――」

 それは――夏休みの事件のことをさしているのだろう。

 面食らった。

 先手、を打たれたことに、なるのだろうか。

 司が顔をしかめると、兄はそんな妹の反応を背中で感じているみたいに笑う。

「と言いたいところだか、まあ……この仕事はそういった類いのものでもなく

て、少し特殊な依頼なんだ。だから四人で行くのも悪くは無いと思ってね」

「……そうなの?」

「そう。――なあ訊いてもいいか?」

 ようやく柚真人に追いついて肩を並べたとき、やっと兄が司を見返った。

「?」

「お前は、――おれに何を要求したかったんだ?」

「ああ……」

 司はうつむいて答えた。

「……別に、たいしたことじゃないよ」

 そう、大したことでは無い。

 そして一年校舎へ続く渡り廊下で、柚真人と別れる。兄は部活だ。

「そうか」

「……うん。もういいよ。賭けには負けたんだし」

「精進しろよ」

「わかってるよ。……じゃ、あたし先に帰るね」

「ああ」

 柚真人は軽く手を上げて、部活動のため武道場へと向かった。司は、――振り向かなかった。

 柚真人が司と同じことを考えていたわけではないだろう。

 でも、結果としては同じこと――だ。何処かで見透かされているような気がして、それが悔しくて、何故か苦しい気がした。


      ☆


 司が同行を要求されたのはその週の日曜日。

 朝から四人、笄優麻の車で連れ出されること郊外の遊園地。

「では、私はここでお待ちしますので」

「ああ」

「お気をつけて、いってらっしゃい」

 にこやかに笄優麻が言い、柚真人は頷いて車のドアを閉めた。



「司ちゃんとぉ、でえとー!」

「違う」

「……ていうかなんで遊園地なの?……」

「お弁当、ちゃんとたくさん作って参りましたのよ」

 日曜日に優麻の車で訪れたその場所は、東京郊外にある小さな遊園地だった。

ごく普通の、何の変哲もない遊園地である。日曜日だから、当然のごとく多くの人で賑わっている。

 開園直後の時間であるため園内への入口にはまだ人の列が出来ているし、その向こうからは賑やかな喚声や音楽が聞こえてくる。

 司はというと、神社の仕事というくらいだから、きちんと装束――常衣か斎服にを固めて祭礼を執り行うのだろうという程度の認識であったので、遊園地の前にたたずんで首を傾げた。もちろん、司も柚真人も飛鳥も緋月も、ごく普通に歳相応の休日仕様だ。端から見れば、まんがいちにも神職集団などとは思われまい。

「特殊な依頼、といっただろ?」

 そういうと、柚真人は園内入口の受付へと歩いて行く。促され、司と飛鳥、それに緋月は彼にしたがった。

「ご依頼をいただきました、皇です。よろしいですか?」

 などと、受付の女性に向かって、兄はにこやかに言っている。対する受付嬢は、「承っております」と言って、係員用通用門を開ける。

 どうも話は通っている様子だ。

「どうぞ。付近は指示に従って閉鎖してあります」

「そうですか」

「よろしくお願い致します」

 四人は、通用門を通って園内に入った。



 ここは毎日がお祭。

 特別な空間。

 夏の名残の空の下で、回るメリーゴーランド。

 回る観覧車。

 広場の向こうのジェットコースターがくるりと宙返りをするたびに、喚声が降ってくる。

 普通に遊びに来たような感覚がどうしても拭いきれなくて、司は大変戸惑っていた。柚真人は無表情。だが、その傍らを並んで歩く飛鳥と緋月は、何故か当たり前のようにはしゃいでいる。とくに緋月は、藤のバスケットを両手に抱えて楽しそうだ。

 察するにそのバスケットの中身が、緋月お手製のお弁当なのだろう。

「あの……ねえ、柚真兄?」

「なんだ」

「……これって、……どういう仕事なの……?」

 司は横目で兄をうかがう。

「どうもこうもないよ」

「あれ、司ちゃん、聞いて無いの」

「うん」

「まったお前、ちゃんと話しておけよ」

「言っておくが、おれは誰にも話した覚えは無い」

「そうだっけ?」

「そう」

「あのね、きょうは『御饌神事』なの」

「……みけしんじ?」

「そこで疑問符か? ……少し勉強が必要だなお前は。いくらなんでも巫女がそれじゃあ」

 そう言う柚真人は相変わらずの無愛想。この期に及んでも、何故に休日の遊園地なのか、話す気がなさそうだ。

 だがこの状況の特殊性はなんとなく司にも理解出来た。

 『御饌神事』という祭礼自体はさすがにおぼろげには理解してはいるが、神衣――とくに烏帽子に狩衣、袴に朝沓でことに望むにはあまりといえばあまりにそぐわなさ過ぎる場所ではある。

 それに、人の目も多いし、騒がしい。

 四人で行くのも悪くない、と柚真人が行ったのも、場所柄独り仕事に赴くには、いくらなんでも気乗りしなかったのかもしれない。

 そうこうするうち、四人は園内の奥まで足を進めてきた。正確には、遊園内の隅一画であろう。工事現場にあるような黒と黄色の衝立や赤いセーフティコーンで区切りがしてあって、立ち入り禁止の張り紙が目立つ。当然、その周辺にはまったく人気が無い。

 ――指示に従って封鎖してありますと、受付嬢が言っていたのはこのことなのだろう。

「これ、隔離したのは遊園地側?」

「そうだ」

 それは内側と外側を文字通り隔離するための処置であって、一種の結界となる。

「この中だ。行くぞ」

 柚真人は言い、あっさりとその隔壁を踏み越えて、隔離された空間の内側へと入っていく。

 司と飛鳥、それに緋月は、彼に従った。



 衝立の内側には、取り立てて変わったところは無かった。だが、しばらくいくと視界を遮るほどの木立ちが現れこれはその向こうにあるアトラクションへの演出なのだろう――石畳が現れた。少し薄暗いぐらい生い茂った木立ちの下、石畳の道を行くと、また視界が開けた。

 そこにあったのは――。

「……」

「柚真兄、これって……」

「ああ。この遊園地の幽霊屋敷」

「仕事って……」

「そのお祓い」

「司ちゃん、本当に聞いてないんだ。この建物、老朽化で、リニューアルも兼ねて立て替え工事をするらしいんだけどね。どうもその工事が上手くいかないらしいのね」

「怪我人が幾人か出たのでしたっけ?」

 と緋月。

「まあその他にもいろいろね。で、ほらよくあるでしょ、幽霊屋敷のオバケのなかに、ひとつ本物の幽霊がいるってやつ。そういう噂がここにもあったんだって」

「事故、怪我のほかに目撃談なんかがあってね、面倒を嫌った経営者側が、この一角を隔離。お祓いの依頼とあいなったわけだ」

「あの……、てことは本当にいた、の? オバケが?」

「オバケと云うのは止めなさい」

 柚真人は憮然とした様子で言い切る。司は横目で兄を睨んだ。

「だってオバケでしょうが」

「……」

 柚真人は少し大仰にため息をついた。

「お前の場合、まずそれが根本的な問題だな……」


      ☆


 その数分後には、レジャーシートを広げて何故かお弁当を囲んでいる四人である。

 木陰の下に空色のシート。

 緋月のお手製弁当は和風洋風各種とりそろえで、その手間がうかがえるほどに眩しく絢爛豪華だった。

 それを囲んで、時計回りに柚真人、緋月、司、飛鳥。

 だが司としては、柚真人と飛鳥の間に人ひとり分ぐらいの隙間があるのが気になる。 

 というより、誰もいないその場所に食物が広げられていること、そして水の入ったコップと紙の皿と割箸が備えられてあるのがとっても気になった。すなわちこれは、いまここにいる四人ではなく。

 五人目の――誰かのための席なのだ。

 つまり。

「ここを神事の祭壇に……?」

「ええそうですわ。だからこうして『熟饌』も作ってきたのです」

「『熟饌』……?」

「はい」

 緋月はふんわりと微笑むが、司にはどうにもこうにも事情が飲み込めない。

目の前に広げられたお弁当らしきものを、そう呼ぶらしい。

「まあいいから、黙ってろ」

 こんな時でも正座を崩さず、すっと姿勢を正して柚真人が言う。彼だけを見れば、確かに、その様子からは鋭い気の張りと緊張が見て取れる。装束を身につけていなくても、凛とした空気を漂わせているのがわかる。悔しいが、とても綺麗だ。

 いっぽう飛鳥と緋月の様子はというと、いたってのんびりしたものであって、いったいどうしたものかと思う。司は兄ともイトコ達とも別の意味でひどく緊張していた。

 大きく、深呼吸。

 兄の姿を横目に、落ち着つくんだと意識する。

 何の変哲もない、遊園地の昼下がり。

 穏やかな日差しと少し涼しくなってきた風。

 まわりに人影が無いことをのぞけば、なにも訝しいところは無い。

 だた――朽ちた幽霊屋敷だけが、不気味だった。建物とこの辺り一帯が日本風のたたずまいであるところからして、そのようなコンセプトのアトラクションだったのだろう。朽ち果てひなびて見えるのは、そもそもの演出なのか、それとも老朽化のせいなのか、いまいち判然としない。

 建物の中から運びだされたのであろうセットや廃材が、建物の周りに積み上げられている。

 無造作に打ち捨てられたような、紅い鳥居や、何体もの古い着物をまとった人形。

 地蔵のような石像。

 格子戸や障子。

 ――はっきり云って、気持ちのよい光景ではない。

 五人目の座席とそれらを視界の隅に捕らえながらじっと座っていることなど、司にはかなり無茶な諸行だった。

「……司、大丈夫ですの?」

 司は頬をひきつらせ微笑もうと頑張った。

「お前は自分の印象に囚われ過ぎだ」

 柚真人が静かに言う。

「皇の神職たる者がそれでどうする。お前は本当に少し修行が必要だな」

「柚真兄……」

「祭壇に迎えるのは『オバケ』じゃない。お前の中の恐怖と怯懦は……お前の主観が生むんだぞ。自らを律する意思をもて」



 ぴん、と――空気の中に波紋が広がったのを感じたのはその時。



 司も柚真人も、そして飛鳥も緋月も、顔を上げる。

 そしてそれぞれ、同じ方へと目線を遣る。

 廃れた建物の入口。

 そこに子供が立っていた。

 女の子、だろうか。

 肩の辺りで切り揃えられた髪の黒さと、紅いスカートが印象的だ。

 こちらを向いている。ように思える。

 なぜなら。

 その子供は、お面をしていたからだ。

 何処かの夜祭りで見るような。

 ――狐の面を。


      ☆


 晴れ渡る青い真昼の空の下、ぽつんと立つ小さな人影は――やはりこちらを見ている。

 司はそう思った。

 紅いスカートに狐の面をつけたその奇妙な出立ちの少女は、しばらくじっと、晩夏の日差しの中に立っていた。

 それから用意された五番目の席にやってきて、座った。

 少女は座っただけだった。

 正座した膝の上に真っ白な手。

 蝋細工みたいな白さの、手。

 うつむいた司からは、紅いスカートと、蒼褪めた白い手だけが見える。

 蝋のように、白い、白い手の肌の色。

 柚真人は、何と対峙しているのだろう――司は考えた。

 柚真人がいま、霊視ているもの。

 それは何だろう。

 皇の巫がその魂に刻むものは。



 それがどれくらいの時間だったか、司にはよく解らない。



 ぱたぱた、と――少女の面の下から涙がこぼれ落ち。

 皇の巫が頷いて――小さく――黄泉送祓詞の奏上をはじめた。



「――……」



 その時――司は――はっとして顔を上げた。

 なんだろうか。

 その姿が、陽炎に変わる時。

 感じた――それは――闇色の波紋は――きっと涙の印象。

 淋しいような気持ちの色。

 それは、静謐な闇の滴。

 痛みでもなく、苦悶でもなく、怨嗟でもなく、その真ん中にぽとりと落ちていった、淋しい闇の凝りだった。

『祝詞』を紡ぐ時の、皇の巫の、澄んだ声が、司は好きだ。

 強い意志を宿した、張りのある声が、空気の色を変えてゆく。

 この声、この言霊には、確かに力がある。

 飛鳥と緋月は、瞑目して坐し、柚真人の祝詞に従うように、韻律を唇で紡いでいる。

 顔を上げたまま、司はただ茫然と、その光景を見ていた。

 皇の『祓詞』を耳にしながら。

 少女の姿が。



 まるで陽炎のように。

 空気に滲んでいくまで――。


      ☆


 陽炎が空気に溶けて消えてしまうと、祝詞を終え、柏手を打って、柚真人が儀式を結んだ。

「……巫というものは、すべてを受け容れるのではない。受け止めることにその存在意義があると、お前理解しているか?」

 居住まいを正した柚真人は、やおら司に向き直るとそんなことを言った。

「容れることを許せば、人はやがて食い潰される。それは、死者と対峙しようと、生者と対峙しようと変わらないだろ?」

 そうなのか、とおもう。

 確かに。

 そうなのかもしれない。

 生けるものと対峙するときも、死せるものと対峙するときも。

 その点においては何ら変わることがない。

 確かに――そうだ。



「それで、これで……『死者祓』は終わり?」

「なにすっとぼけたこといったやがる」

 柚真人が呆れたように肩をすくめた。

「え?」

「これからが問題なんだよ。ここからの『直会』がひと仕事なんだ」

「なおらいって……。なおらい! ええ!? これ全部!?」

 『直会』――が何を意味するか、さすがに知らない司ではない。その意味を悟って聞き直すと、兄はいとも涼しげにうなじて見せた。

「そう。ひとつのこらず食べること。だから四人で来たんだ。おれひとりではとてもこれだけの『熟饌』片付けられないからな」

「……」

 なぜ四人でこの仕事に出向いたのか、ようやく得心がいった。

 やはり――兄は悪辣だ。



「ああー……、も、お腹いっぱい」

 緊張感のかけらもない声で言って、飛鳥がごろりと寝転がった。

「緋月ちゃん、いくらなんでも作り過ぎだよオ」

「あらだって、柚真人さまがおっしゃったんですのよ、なるべく沢山って。ですから私、柚真人さまから『清火』をいただいて、それでお料理いたしましたの」

「ああ、たすかったよ緋月。ご苦労様」

「あら柚真人さま、柚真人さまのためですもの私ちっとも構いませんのよ」

「……」

 やっぱりよくわかっていないのは自分だけなのだ――怪訝に思って今日の神事の事の次第を司が尋ねると、柚真人がため息をつきながら、少しばかり姿勢を正した。

「ああ、今日の『御饌神事』とはだな――」

「神棚にお供え物するでしょ。あれのことを、『御饌』っていうじゃない? 火が通っている料理なんで『熟饌』だよね。これは通常の神社では神様にお供えするんだけどさ、皇神社では死者というのはみんな黄泉の女神さまの眷属であるという思想になっていて、でこれは黄泉の女神さまのところに還っていく死者に敬意をあらわすための神事なんだって。……よね? ご当主さま?」

「まあ、そういうことになるかな」

 その傍らで、緋月がふわりと微笑んだ。

「その後で、私たち祭司がそれをいただきますのよ。それは、普通の『直会』と同じですわね。司もご存じでしょう」

「……うん」

「司ちゃん、お仕事初めてだもんね。皇の『死者祓』にはいろいろあってさ、『御饌神事』はそのうちのひとつでもあるんだ。ま、相手の出方で神事の方法が変わるんだけど。もちろんそれは、いつも柚真人が選ぶんだ」

「あたし……、もう少しあらたまった祭礼を想像してた。常衣とか、着て主催するものだと思っていたんだけど……違うのね?」

「ああ。地鎮祭みたいなやつ?」

「そういうこともありますわよね。地鎮祭も致しますし、……」

「悪霊・怨霊祓いでもあるまいに」

「……やっぱりそんなこともするのね」

「するはするよ」

「でも、兄貴――」

 少し思案してから司は言った。

「ヘンなの」

「何が?」

「あたし、さっきの女の子のオバケから何も感じられなかった。それがちょっと気になったんだけど……?」

「だから。オバケじゃないと云うのに。まあ、だから今回、特殊というのはそういうことなんだ。たいがい、残した想いを彼等は語って逝きたいわけだから、好むと好まざるとにかかわらず、それをこっちに教えようとしてくるもんだろ。おれはその辺、大変苦労している。無視して歩くのもひとかどじゃあない。ただ、そういう意味で今日の子供は、少し勝手が違ったわけだ」

「……というと?」

「意志を閉じていたんだ。人にだって、相手から想いを披かないことがあるだろう?」

「ええと。……それじゃ、……あの子供……の幽霊……」

「ちょっとかわいそうですけれどね。何も言わないのですって。司になら、解るのではありません?」

「ああ、うん――」

「調べたが、年齢も、家族も、死亡状況も、不明でね。事件が記録という形になっていないらしかった」

「――事件なの?」

「事件、だな。おれは――お前と違って対象そのものの意志からでなく、飛び散った過去の想いからそれをひろいあげてるんだか、……ま、あらましは伏せておきたい」

「……どう、して?」

「どうしても、だな」

「ふうん。……そう……」

「それに、どうしてもここから離れたくないみたいでね。こちらから出向くにしても、場所柄、儀式服で乗り込むわけにもいくまいが?」

「……そうね」

 神への供物。

 転じて死者への供物。

 それは、現世に在る命ある生者と、そうではないものとの境を示すことを意味することになるのだろう。

 その魂に。

 死の意味を。

 刻むことに。

 その事実に肯首できぬものはその事実に抗う。

 有無を言わさぬ力が。

 彼の『祓詞』には込められているのだと――そういうことに、なるのだろう。

 受け止める。

 それだけの力があること。

 それを疑わぬこと。

『祝詞』ひとつを操るにしても、その覚悟が必要なのだ。

「でも、……司ちゃんの神事正装も見たいなあ僕。きっと格好いいよう」

「そいつはどうでもいい。さ、わかったら片付けるぞ。ほら撤収撤収!」

「ああん、まってえお兄ちゃん。僕、お腹いっぱいで動けない」

 飛鳥が寝転がったままだだをこねるように手足をばたばたさせる。そのようすを、困ったように緋月は眺めて肩をすくめた。

「柚真人さま、いかが致します?」

「……しょうがないな。じゃあおれは依頼主に次第の委細報告して、契約まとめてくるから。お前寝てろ」

「うあーい」

「では、少しお休みしましょうか。司も……あまり、調子がよさそうではありませんものね」

 司はためらいがちに頷いた。

「あ……ねえ、柚真兄?」

 立ち上がり掛けた柚真人が振り向く。

「もうひとつ、いい?」

「なんだ?」

「……なんで狐のお面なの? あの子……どうしてお面で顔を隠していたの」

 柚真人は嫌な顔をした。

 そうだ。

 あれは、顔を隠していたのだ。

「それが、わかったのか、お前に?」

「え? うん。……なんとなく」

 沈黙の後。

 柚真人は言った。

「気にするな」



 そして、それ以上、答えなかった。


      ☆


 柚真人は――想いの残滓を手繰る者である。

 それは、過去を垣間見るのと、少し似ている。

 対する司は、死者の魂そのものを、感じ取る巫女である。

 ――狐面の少女が、閉じた想いを抱き続ける存在でなければ、この神事に妹を立ち会わせることなど、出来なかった。



 あの少女が死んだのが、いつのことだかはよく解らない。

 あの狐の面は、そもそもは何時かの何処かの夏祭りで、少女が両親に買ってもらったものだ。

 まだ両親が一緒だったころ。

 この遊園地にも、やっぱり両親と来た。

 少女にとって、ここは楽しい思い出の残った場所なのだ。

 ここはさほど古い場所ではないから、事件も――明るみに出なかっただけで、そう昔のことではないのだろう。


      ☆


 飛鳥はほどなく寝息を立てはじめた。

「具合は如何?」

 緋月が、ほとんど飛鳥が食べ散らかしたといっていいであろう食べ物などの後片付けを手早くしながら、司の顔色をうかがう。

「うん……」

 手伝おうとすると、結構ですわと緋月が言った。

「幽霊とお食事なんて、びっくりいたしました?」

「え?」

「『御饌神事』」

「ああ……。あの……。ごめんね?」

「なぜですの? 司は言葉につまるとすぐそれね」

 緋月が笑った。

 司は、日差しを遮る枝の向こうに見える青空を眺め遣った。

 この空の下で行き交う人の想い。

 幾つもの波紋が空気の中、不協和音みたいに広がっていく。

 そんな印象。

「司……?」

 想いというのは――たぶん遠い過去から遠い未来へとぎれることなく紡がれ続けていくもので、数百年経ったら今生きている人なんてこの空の下には誰もいなくて、それでもいま生きている人の想いのかたちは遺っていく。

 瞼の裏にくっきり残った、夜祭りで見たような狐の面。

 紅い服。

 白い幼い手。

 こぼれ落ちていった涙。

 それが想いの結晶のかたちであることは知っている。

 ――残した想い。

 ――伝えたい想い。


      ☆


 それから少女の身に、なにがあったのかは、あまり思い浮かべたくはない。

 霊視えた事実だけならば――。

 こうだ。

 ――少女は、ここ――幽霊屋敷の中でその日、両親とはぐれた。

 誘拐、というのだろうか。

 とにかく少女は力づくでその場所から何処かへ連れ去られた。連れ去った者の目的が、身の代金目的だったのかとか、少女そのものにあったのか、などはよくわからない。だが少女の身には、とにかく筆舌に尽くしがたいことが起こって、そして少女の顔は――焼かれてしまった。

 その後、少女の命が尽きるまでの間に、少女はその身を襲った衝撃から逃れるために、心を閉ざしてしまったのだ。

 そのため。

 対峙した少女からは、何も感じられなかった。

 感じたものは、なにも無い。

 少女の心の真ん中は静かな闇色で、――凪いだ水面のような印象だった。

 それだけだった。

 だから――。

 助けてほしかったのか。

 寂しかったのか。

 帰りたかったのか。

 少女が、本当のところ何を望んでここに居続けたのかは、よくわからない。

 もしかしたら。

 両親に買ってもらったお面を被って、ここで両親を待っていたのかもしれない。 

 ここに、迎えに来てもらえると思ったのかもしれない。

 よくは、わからない。

 ただ。

 ここを離れたくなかった。

 とにかく少女は。

 離れたく、なかったのだ。

 この場所を。


      ☆


「……柚真人さま、……あなたのことだけは本当に心配なのですわね」

「え……?」

「あなたは巫女ですものね」

「緋月ちゃん?」

 司が問い返すと、緋月はにこりと微笑んで、小首を傾げた。

 その小鳥みたいな愛らしい仕草は、彼女の癖だ。

「今日は、学力審査の順位を賭けて連れ出されたのですわよね」

「うん」

「成績はいかほどでしたの?」

「司ちゃんはあ、八六番でえっす。僕は二年の三七九番でしたあ」

「び……びっくしりた。飛鳥君……」

「狸寝入りでしたの?」

「飛鳥くん?」

 飛鳥の返答は無い。だが、寝言だとしたら相当怖い。

 司と緋月は顔を見合わせ、それからふたりして笑った。

「飛鳥さん、いくら理系狙いとはいっても、文科系科目、手を抜きすぎではありません?」

 緋月が呆れたように言った。

 その様子を眺めながら、司は思う。

 ――心配? 兄貴が、あたしを?

 どうだろう。

 心配とは、きっと、違うと思う。

 むしろ、それとわかるほどに優しく心配でもしてくれたなら、そんな兄なら、

もしかしたら司は柚真人に恋をしなかったかもしれない。

 柚真人は。

 心配するより、路を示す。

 そういう厳しさを、人にも己にも、強いるのだ。

 かたちのないものにかたちを連想するとするならば――葦原中津国と称されるこの世には、さまざまとりどりの想いが交錯する。不協和音のような想いの波紋が、幾重にも幾重にも広がりあい、いつでも小波がさざめきあっている。

過去から未来へ。きっとそれは永劫。

 生ける者の想いの波紋は、いつかきっと誰かに届いて、また誰かの波紋が返って来る。

 未来絶たれた者の想いの波紋は誰にも届くことはない。だからきっと、想いが凝る。

 皇の巫がその心に刻むのは、未来を喪った想いの、真ん中の凝りなのかもしれない。

 受け入れる弱さではなく、受け止める強さで。



 ――あの――一瞬の滴の印象――。



 そして不意に。

 司は気づく。



 ――ああ、わかった……。

 司が怯えるのは波紋。

 柚真人が見据えるのは波紋を生むもの。

 ――そう……なんだわ……。

 皇の巫が見据えている事象。

 それはきっと誰もが誰かに残して逝く想い――魂の残像。

 それはきっと物事の本質にも似た全ての核――心の在処。

 その先の――真実。

 ――お前は印象に囚われている。

 司は、――彼の言葉とまなざしの厳しさを少しだけ理解した気がした。

 ほんの、少しだけ。 

 たぶん。

 彼はまた、司の手を放す。

 ここまでだと、いって。

 突き放す。

 でも、だからこそ。

 だからこそ、司は走り出すことが出来るのだ。

 彼の背を追って。



 心配して、甘やかしてくれれば――もしくは叱責してくれれば楽なものを、彼はそのどちらもしない。

 だからこそ。

 ――かなわないのよね……。

 と、思うのだ。

 そして司は、深みに嵌まる。


 ――かなわないのよ……。

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