第28話 忌祭
目を覚ますと、まだ夜中だった。
障子を透かす月明りで、部屋は仄かに蒼白い。
いつもなら静かな夜のはずだったけれど、司はそのとき、人の気配を感じたと思った。
怪訝におもって躯を起こすと、刹那、障子越しに声が響く。
「じっとしていろ。部屋の中に居るんだ」
堅い声は、兄のものだとすぐに判別る。
いくぶん緊張を孕んだそれだったから――そしてだからこそ――司は身を固くした。
「柚真兄……?」
「……大丈夫だ。すぐに終わるから」
障子越しに、そんな妹の様子が伝わったかのごとく、兄が言う。
司は身体を起こしたまま、両手で布団を握り締め、ぎゅっと目を瞑った。
彼の――兄の言葉が疑いようもなく正しいことは知っている。
――今日は『忌祭』の日……。
「……うん……」
司は、障子越しの兄の言葉に頷いた。
兄の気配が――離れていく。
障子の向こうは縁側で、庭を隔てて神社の境内へと続いている。
そこで、兄・柚真人は今夜も、皇神社の神主として死者の魂を迎えているのだろう。
あの、不吉な印象を人には醸す漆黒の装束を身に纏って。
その姿を、司は瞼の裏に思った。
黄泉の女神の社たる皇神社には、『忌祭の日』がある。
朝と夜の境目の時間、彷徨う死者の魂が迷い込むというその日には、神事の用意を整えて、それらに逝くべき路を示すのも、社の主のつとめなのだった。
もっとも。
同じ神社に『巫』として生まれながら、司には――それを行うことができないのだけれど。
いや、神事など未だ何ひとつとして祭司することが、できない。
なぜかといえば――死者――此岸を離れ、鬼籍に入った魂に触れることが、司にとっては堪え難い恐怖でしかないからだ。
その恐怖は、司が『巫女』であるがゆえに感じられるものに起因している。
怨嗟。
苦痛。
憤悶。
後悔。
悲哀。
寂寥。
――あらゆる断末魔。
『巫女』であるがゆえに。
魂に触れる術を知るがゆえに、全身全霊に刻まれる、鮮やかな『死』の瞬間のこと、さまざまな人の、さまざまな想い。
司は、それを恐れている。
魂の闇に囚われると、司は怖くて、動けなくなってしまう。
魂の闇は深く。冥く。
そこから逃れる術が、わからない。
心にすべてを受け入れたら。
逃げられない。
潰れてしまう。
呑み込まれてしまう。
そんな心地が司を支配する。
怖い。
彼はなぜ、あれほどに毅然と、それらに対峙することができるのだろう。
☆
暁と宵の狭間。
鳥居の下から、柚真人は幼い少年を見上げていた。
――この少年が、――今宵の神事にて黄泉おくりすべき最後のひとり。
秋の夜空は透明によく晴れていた。
冷たい風に恒星の光点が瞬いている。その黒天を背に、少年は、鳥居に腰掛け大きな眼を見開いて、怪訝そうに黒衣の神主を見下ろしていた。
――ぼくはどこへいくの?
そう訊かれ、神主は、あいまいに微笑んだ。
それは些か難しい質問だ。
「ここではない、何処かだよ」
――ぼく、またかえってこられる?
「うん……。そうだね、それはきっと神様が決めてくれる」
――神様ってほんとうにいる?
「君に優しくしてくれる人はいるかもしれないよ」
――ほんとう? パパと、ママより?
「ああ」
――そのひとは、ぼくのこと、すきかな?
「きっとね」
――パパは、ぼくのことがきらいだった。いちにちじゅう、ぼくをぶってばかりいたよ。ママも、ぼくのことはきらいだった。だっていつもそういっていたもの。
「……そうだったね」
柚真人は眉をひそめた。
霊視ようと思い、霊識ろうとすれば、探ることが出来る。
少年は、実の父親に殴り殺された。
母親は少年を守らなかった。
その光景が、少年の魂に強く焼き付いているから、触れる神主にも、自ずと伝わってくるのだ。
柚真人の知り得た少年の最期、その死にざまは、それはそれは痛ましいものだった。
それが証拠に、いまここに現れている少年の姿は痣だらけで、あちこちの皮膚が変色している。それに、衣服も身につけていなかった。唇は腹腔からの出血で汚れていたし、手首も奇妙なふうに折れ曲がっている。
たぶん、これが死を迎えた時の、姿なのだろう。
この有様を世間では過失致死と評する。
そう、世間ではそんなもの。
子殺しなんて珍しいことじゃない。
――だが、これが明確な殺意無くして出来る仕打ちとは、たいした様だ。
神主はそう思う。
『忌祭の日』の『死者祓』。
この魂が、闇へと凝ってしまう前に。
黄泉への路をさし示す。
そこに人の観念する神様なんていないに違いないが、それでも死者には還る術がある。
それが忌色の衣を纏う『皇』の巫の、司る祭礼。
「さあ。どうする?」
月明りに浮かぶ鳥居を見上げて、少年神主はいまひとたび――尋ねた。
☆
「もう終わったよ」
顔を上げると障子が開いていて、柚真人が立っていた。
袍と冠を身につけた正装だった。
こんな夜中にも『死者祓』の神事に臨む彼には――たぶん、司のような恐怖、畏れるものなど微塵も無いのだろう。
月の明かりを背後にしているため、司からはその表情が影に沈んでうかがえない。
けれど、声は柔らかいように感じた。
そのことに少し、安堵する。
「……起こすつもりじゃなかったんだ。……悪かったな」
柚真人の言葉に、司はうつむいたまま、小さく首を振って応えた。
「うん、平気」
「そっか」
「うん」
「じゃあ……おれはこれから禊をしてから寝るから」
「……眠れる?」
「ふうん、めずらしい。少しは心配してくれるってわけ? ……いいんだよ、お前は余計な心配なんかしなくても」
「……ご、めん」
その言葉が、いったいいかなる意味を持って彼女の旨に届くのか――あるいは突き刺さるのか、柚真人にはわからない。
妹は、ほんのちょっと悲しそうな顔をした。
けれど、こんなときはきまって突き放すように冷たい言葉しか出てこないのだ。
「……おやすみ」
柚真人はそして、踵を返した。
板張りの縁側を踏み締めて足を速めながら、柚真人はその唇に、自嘲の笑みを浮かべる。
『死者祓』は、忌神事。
皇の巫にとってもけして楽な仕事では無い。
旅立ちを迷う魂は例外なく幸福な死を迎えたものでは無く、その死に様を、その想いを己の心に刻み受け止めることは、なまなかな気持ちをもってはなしえない。
それでも、感傷に流されることはない。死者の念いにひきずらることは許されない。
皇の巫としての皇柚真人の在り方として、自分自身にそれを強いてきた。
なにを見ても。何を感じても。
――今夜の、子供のような死者であっても。
心を動かさぬこと。
それは簡単なことではない。
それでも、そうあることに勤めた。
だがそんなことは、結局――いかなる死者を前にしたって――今この時、この場所で、彼女を目の前にしていることに比べたらどういうこともないのだ。
なによりも、己の感情こそ、が御し難いものなのだから。
我ながら滑稽だ。
――そんな顔を、お前がすることはないんだ……。
切ないような、寂しいような。心を残す、表情を。
あれはたぶん、罪の意識と自責の念――なのだろう。
妹が、皇の血を拒絶していることだけでなく――『皇の巫女』として柚真人にひけめを感じ、柚真人に責められているのではないかと、感じていることを、柚真人は知っていた。
そして彼女が何を恐れ、何が彼女を追い詰め、どうしてあれほどまでに『死』を拒絶するのか。その理由も、実のところ知っている。
だから、彼女が現実から目を背け続けることも――たとえば多少の障りに体調を崩していたって、絶対に他ならぬ柚真人に助けをもとめず、風邪薬なんか飲んでいたりしたって、見守るにつとめてきた。
仕方のないことなのだ。
彼女も知らない、彼女の中の封印が、そうさせるのだから。
彼女が振り返ることを自らに固く禁じた、忌むべき記憶が。
『死』という事実を恐れ、怯えるに充分な理由が、司にはある。やがてはそれを乗り越えるべきだとしても、いまの司には到底無理な話だろう。
だから自分を責める必要なんてないのだ。
なにより――彼女が真実、希代の巫女であることは、兄たる自分が一番良く知っている。
いや、こんな気持ちは兄だからではなく、もっともちかくで、ずっと彼女を見てきた自分だから、感じる気持ちなのだろう。
そして、だからこそいままで、突き放すしか術を知らずにいた。
兄ならば、どうしたらいいのかなんていう簡単なことが、とっくにわからなくなってしまっていたから。
どこまでが許されるべき家族の境界線なのかなんて、とっくにわからなくなってしまったから。
妹に、恋をしてしまったがゆえに。
この奈落の闇を覗き見るような深い深い絶望を知ってしまったがゆえに。
そう――遠い昔の、ふたりが兄妹であったころのことを、柚真人はとうに忘れてしまっている。
だからいま、自分が彼女に対して抱く気持ち、差し延べたい手は、兄のもの
では、きっとない。
こんな気持ちで、妹を思ったりはしないだろう。
こんな気持ちを、知らなかったら楽でいられた。
いつでも、不安で、いつでも、心配で。
いてもたってもいられない。
自分自身が壊れてしまう。
妹が、家族にもとめる気持ちには、こたえてやれない。
こたえるわけにもいかない。
あんな顔も、自分にとってはさしずめ媚薬でしかない。おさえきれない想いが暴走しそうになる。
――忌々しい――。
こんな夜。
いったいいくつこえてゆけば、自分は楽になれるのだろう。
そもそも、どんな未来を選べば楽になるというのだろう。
この手で何もかもを守ることは、きっともう無理だ。
自分にはできない。
もはや。
耐えることすらも。
――だからこそおれの選択は――。
胸の痛みは、夜をかさねるたびに、重くなる。
迷っているのは己の魂。
その在処を。
失ったことに、気づいてしまったから。
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