第27話 夏の陽炎
空が静かな紫色に染まる頃、だった。
☆
近所の花屋で啓子の好きだった、ピンクのガーベラの花を買った。
あの事故から、もう半年近くが経とうとしていた。
季節は、冬から夏になっていた。
当たり前のことだ。
人が死のうが生きようが、時間はただ流れ去るだけなのだから。
そして、過ぎた時間はもう二度と、戻ってはこない。
噂を聞いたのは、今月になってからのことだった。
――あの公園、夜になるとね。
夏になると、人と人との狭間を面白おかしく飛び交う話。
――知ってるわよ。私、見たもの。
――それ、本当なの?
――本当よ。幽霊だか何だか知らないけど、それは本当。
――へえ。本当に見たんだ?
思えばその話は、もっと前から囁かれていたのに違いない。
実際、事故からこっち茫然自失の状態が長かったから、いつの間に夏になったのだろうかなんて不思議に思ったくらいだ。もっとも、その噂話が、自分を現実に立ち戻らせたに等しかったかもしれない。
――今年の冬に、事故があって、女の子が亡くなったでしょ?
――ああ、水碕さんのお宅の……。
――あれ以来なんですって。あそこの公園でね――。
――ちょっと、止めなさいよ。そんなこと……。
――でもねえ。
いつのまにか、広がっていた噂を耳にした時、自分ははじめて我に返ったのだ。
そのことの真偽を疑うよりも。
あの子に、花のひとつも備えてやれなかったことに気が付いた。
いつ初七日をやって、四十九日がすぎて、新盆をすませたのか、それすら思い出せないことに。
だから、花を買った。
事故の日以来、現場を訪れたこともなかった。
啓子は、日曜日の夕方、あの公園の前の通りで、車に轢かれて死んだ。
交差点を、減速せずに突っ込んできたのは、普通の、ありふれた乗用車で、啓子を轢き逃げした犯人は、まだ捕まっていない。
啓子は。
この世を寂しく彷徨っているのだろうか。
――夜になるとね、ブランコがひとりでに揺れるのですってよ。
☆
家から駅への道。
夏季休暇の終わりも迫っていたその日、橘飛鳥は買い物がてらイトコの家まで足を伸ばそうと、急いでいた。
歩き慣れた道、いつもの夕暮。
だけれど。
その日は、何かが違った。
四辻の一隅――薄闇に沈みかけた小さな公園が何故か目に留まる。
公園にはブランコと小さな砂場、そしてブランコの向かいに古びたベンチがある。
橘飛鳥は、軽い違和感を覚えた。
「……」
誰もいない、小さな公園。
立ち止まってほんの少し思案し、その違和感の正体に気づく。
風もなく、水底のように凪いだ夕方だったのに、公園の片隅で、ふたつあるうちの片方のブランコに腰掛けている女の子は――もはやこの世の者ではない。
錆色のブランコは、揺れるたびにキィ、キィと寂しい音を響かせている。
「……」
飛鳥は、その女の子以外に誰の姿もない、静かな公園を、道端からじっと眺めた。
その傍らを、一台の車が通り過ぎていく。
四辻の一隅の公園。
ああ……、そういえば。
半年前に、交通事故があったことを、飛鳥は思い出した。
確か、女の子が、減速もせずに突っ込んで来た乗用車に跳ねられて――即死だったとか。
公園に向かって立ち止まった位置から左手を見れば、公園脇の電信柱に立て看板がくくりつけられて在った。警察が、近隣住民に目撃情報などの手掛かりを呼びかけているところを見ると、事件は轢き逃げで犯人はいまだに逃走中、ということなのだろう。
比較的広くて見通しの良いこの十字路は、信号もなく、ときおり乱雑な運転で通り過ぎる車がある。それはこのあたりの住民なら誰でも知っていることだった。
――轢かれて死亡したのは……四歳の女の子か……。
事件を記した立て看板を見て、飛鳥はそんなことを思う。
事故の日時、被害者の名前などが書かれていた。
少女の名は、『水碕啓子』と云うらしい。
ブランコは、まだ揺れている。
その女の子は、飛鳥に気づいた風も無くただブランコを揺らし続けている。
つまらなさそうだった。
うつむいて、懸命にブランコを漕いでいる。
けれど、少しも楽しそうでは無い。 寂しいような、切ないような、そんな夕暮だ。
ブランコの揺れる音に耳を傾けながら、飛鳥はそう感じた。
空気のにおいに感覚を凝らすように、聞こえない音に耳を澄ますように、識覚をひろげようと試みた。
この血に流れる巫の力をたよりに、そこにある想いの残滓、そこにいる魂の言葉を。
散り散りの破片を拾い集めるように。
その時。
ふいに――キィっ……と澱んだ空気に余韻を残してブランコが止まった。
「……」
飛鳥は、顔を上げた。
少女の姿が、薄暮の中、陽炎に溶けるように消えてゆくところだった。
「あ……」
あたりの気配がすっと色を変えた。そんな気がして、なんということはなくあたりを見渡す。すると、警察の立て看板とは反対、公園から右手に向かって伸びてゆく道の向こうから、右手に花束を携えて歩いて来る人影が見えた。
そういうものは――直感でわかるものである。
飛鳥がたたずんだままでいると、花を携えた人影は公園の前まで来て、立ち止まった。
年若い風の男だった。
花は可愛らしい雰囲気で、やはり男は、公園の入り口のところにすっと花を置く。
「……あの……」
飛鳥は、彼に声を掛けた。
男は身を起こすと、怪訝そうに飛鳥を振り返った。
飛鳥が、ちらりと看板を一瞥してから、
「失礼ですけど……」
と言うと、それだけで言葉が足りたらしく、男は軽くうなずいて、怪訝そうな表情のまま、そっと呟いた。
「……娘なんです」
男の歳は三十そこそこだろう。平静を装うにもはっきりと無理の痕が見られる、やつれた顔をしていた。ちらりとだけ飛鳥を見た男は、いったん足許の花に視線を落とし、それから静かな公園を眺めやる。
その傍らで、飛鳥も軽く手を合わせてから瞑目した。
夏の夜の空気は温くて重く、息苦しかった。
喉が詰まるような、胸が潰れるような心地だった。
「……ありがとうございます」
ふいに、飛鳥の傍らで、男が言った。
「やっと……ここへ来て、花を供える気になってね……」
「……」
「……この公園にね……。出る、なんて噂がたってしまって……」
「……出る?」
「娘の……。はは、おかしな話だと思うよね。その……オバケ? っていうのかな?」
「……」
「情けない話で、親の私が……。ああ、すみません、見ず知らずの君に話しても唐突だね。困るだけの話だったね、ごめんごめん」
飛鳥は、言葉を返すことができなかった。
男はたたずんで、路面に視線を落とし、ただじっとしている。
娘を喪失った父親が、いかなる思索をその脳裏に巡らせているのかなんて、飛鳥には想像もつかないことだ。
だが、この公園にその少女がいることは、わかっていた。
たぶん、ブランコを揺らしていた女の子だ。
女の子を包んでいたのは、寂しいような、悲しいような、印象の気配だった。
色に例えるなら、そう――ちょうど東の空から迫る菫色のような。
さっきまで揺れていたブランコは、もう動かない。
けれども。
彼女はいる。
飛鳥が感じた切ないような寂しいような気持ちは、ここにある死者の魂を、確かに感じるからわかること。
それを言葉にすべきかどうか、飛鳥は逡巡した。
嘆き悲しむ父親に、これを伝えることもできる。
それを願う人もいるのだから。
切ないのは、少女が両親の嘆く姿を知って胸を痛めるから。
寂しいのは、もう自分の言葉が、届かないことを知っているから。
遺された家族が嘆き続けることで、魂がそれにつなぎ止められてしまうこともにある。
そうすると、生者も死者もともに迷い、道を見失う。
けれど飛鳥は、何も言わなかった。
☆
「っつーわけでさ。あ、司ちゃんお醤油お願い」
「うん」
テーブルの端から手を伸ばして醤油の小瓶を受け取ると、飛鳥は司に小さく微笑んでペコリと頭を下げた。対する司は、はあっ、と嘆息。
「そういうお話はさ、兄貴と二人っきりでしてくれていいのよ、飛鳥君?」
「やだな、僕は司ちゃんに会いに来てるの」
飛鳥はしれっと言う。
「柚真人とふたりっきりで食事した楽しいと思う? 思わないでしょう?」
「ほっほう?」
食材持参で皇邸に押しかけてきたイトコに、休みなのをいいことに、手間隙かけた夕食をこしらえさせられた柚真人はというと、いささかばかりご機嫌斜
めだ。
だいたい、やってきて一番、「グラタン食べたいな、柚真人くん!」にはさすがに参るというものだ。
「あの子、水碕啓子ちゃん、どうなっちゃうんだろ?」
「……人がせっかく苦労して焼いたグラタンに醤油かお前は?」
「細かいこと気にするなよ」
「……」
呆れたように柚真人は軽く首を振った。
「まったく……。さあてね。百年そこにいるかもしれない。すぐに逝くかもしれない。そんなことわからないよ」
「ふーん」
「あの若いお父さん、かわいそうに。近所で娘の幽霊話なんか噂になっちゃ、いてもたってもいられないってところだろうなあ」
「……しかたないさ。そりゃ。珍しい話でもないし……、彼岸に渡った死者の言葉は、此岸の生者には届かないのが摂理だ。現世と幽世は隔てられているんだから」
「まあ、そうなんだけどさ」
「すこしぐらい、この世のすべてに名残惜しんだからって、咎められちゃあ、その子もかわいそうだろうに。交通事故って言うことは、まったく突然やってくる死なんだからな」
いいざま、ごちんと――本当にグラタンに醤油をかけた飛鳥の脳天に、柚真人は容赦ない鉄拳を見舞った。
「いってえ」
「きさま……」
「なんだよーう。チーズには醤油なんだよう」
「飛鳥君、……しょっぱくないの?」
「んー、別に」
「夏ミカンだのグレープフルーツだのにまで醤油かける味音痴のいうことなんかきくんじゃない、司」
「えっ、そうなの?」
「スイカもね」
と、飛鳥。
「うわあ……」
さすがの司も絶句する有様で、しかも司のいうことに、
「それ……面白そうだよねっ?」
瞬間、刃物のごときまなざしで、飛鳥が睨まれたのは、いうまでもない。
「でもさ……。なんか、すっごくつまらなさそうだったんだよな……」
司が食事を終えて先に席を立つと、飛鳥は柚真人にそう言った。
柚真人がテーブルの向こうで頬杖をつく。
「なにが」
「だから、さっきの話。公園の幽霊」
「ああ。……四歳の女の子だっけ?」
飛鳥は頷いた。
「子供っていうのは、えてして生死の境があやふやなんだよ、な」
「え?」
飛鳥は首を傾げた。
「だから。自分の声が誰にも届かない。誰も彼も、まるで自分がそこに居ないみたいに無視をする、とね。まあユウレイだから実際いないんだけど、本人そこのところが良くわかっていない、と」
「つまり、死んだって……わかってない?」
「ちょっと違う……が、まあ……そんなところかもしれないし、……遊び足りないだけかも。お前、一晩遊んでやれば」
からかうように柚真人が言った。
「案外と、そんなんで満足するんだ」
☆
帰り道。
飛鳥はふたたび公園を通りかかった。
付近の住宅街は閑静で、この時間ともなればあまり人影は無いし、道行く車の姿も無い。
なんだかんだで結局終電間際になってしまい、腕時計は深夜、日付をかえようとする時刻を示していた。
道路の街灯の明かりが公園を囲む木々に遮られてわずかに届くだけなので、公園の中は薄暗い。
当然のことながら、人の気配も無い。
飛鳥は、その公園へ足を踏み入れると、ふたつあるブランコの片方に腰を下ろした。
すると。
ふっと、傍ら無人のブランコが揺れだした。
静かに――そっと。
キィ、キィ、という音が、湿った空気を震わせる。
温く澱んだ湿気がさざめいて、空気がひび割れてゆく。
飛鳥は、横目でそれを眺めてほんの少し、微笑んだ。
やっぱり、切ないような、寂しいような、想いを感じた。
ブランコは、揺れ続ける。
キィ……キィ……。
飛鳥は、ひとりで揺れるブランコの傍らで、しばらく自分もブランコに揺られた。何かに寄り添うようにそうしていた。
どれぐらいそうしていたのかはよくわからない。
ブランコが、ふいに止まった。
「……パパに、つたえてくれる?」
耳元で声が聞こえた。それでふと傍らを見ると、あの女の子がすぐ側に立っていた。
髪は長くて、青い飴玉みたいな髪飾りでそれを束ねている。たぶん、父親とか母親とかが、毎日そうしてくれていたんだろう。それに、空色の服を着ていた。
少女はうかがうように飛鳥を見ている。
「ああ……うん。なあに?」
答えると、少女の表情がぱっと明るくなった。
「あのね、お花ね、ありがとうって」
――ああ、あの、ガーベラの……。
飛鳥がそんなことをぼんやり思うと、少女は笑った。
うん、なかなか可愛らしい、と続けて思う。
女の子の姿が公園から消えると、飛鳥は、傍ら揺れていたブランコを横目で見やって、自分も揺られるのを止めた。
それからひとつ、軽く頷いて、飛鳥はゆっくりと腰を上げる。
どこからともなく、虫の聲が聞こえてきた。それに耳を傾けながら、歩き出す。
心に少女の想いを刻んで、公園を後にする。
名残を惜しむ、とはこんな気持ちなのだろうか。
ふいに飛鳥はそう思った。
――あの子は、まだこの世の何かに、ひとつひとつ、別れを告げている途中なのだろう。
感じるのは、そんな切なさだ。
☆
でも、それでも、悲しさと寂しさが薄れて空気に溶けるころ、たぶん少女の想いも溶けていくのだろう。
夏の――陽炎みたいに。
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