第26話 intermission Ⅱ・9月5日




 夏服に身を包んだ学生達が、気怠そうな表情で街中をゆく。

 九月になって、二学期が始まると、足早に夏は過ぎ去ってゆき、すぐに秋が来る。それは、学期単位で生活する学生生活を卒業して久しい水月の心身にも、いまだに染みついている感覚だった。

 夏服の中学生や高校生が、雑踏にあふれだすと、夏が終わったな、と思う。


 今年は……最悪。こんな気分の

 悪い『夏』は初めてだわ……。



 昼休み、病院の屋上で煙草を吹かしながら、水月は苦々しく回想する。

 七月の終りに院長室で見たもの――それが、水月の脳裏にこびりついて離れないのだ。

 あれが、父の極秘の診療記録であることは疑いようがなかった。否、実験記

録、というべきだろうか。

 そう、紛れもない実験だ。断じて治療などではない。

 それでも水月はまだ、逡巡していた。

 委員長室で、父の秘密を知ったことを告白し、あれらは一体何なのか、何のために行われたことだったのか、彼に問い質すべきだろうか。そうしたら、父は何か答えるだろうか。

 それとも。

 何か他の方策を探るべきか。

 いずれにしろいまは真実を知りたい。

 否。

 知らなくてはならないような気がする。


      ☆


 被験者は――『皇柚真人』。



 十年前、皇家は凄惨な事件に見舞われている。

 それは水月だけでなく、皇一族の誰もが知る、間違いのない出来事だ。

 そしてその時、両親を目の前で惨殺された皇家の幼い兄妹が、幼い心に大きな傷を負ったため、水月の実家である暁総合病院に収容、精神医学的な見地から長期的な展望をもって治療が行われた。

 水月の手にある非公式な診療記録をみれば、その事実との齟齬は見受けられない。

 事件直後――本家皇の兄妹――柚真人と司は、恐怖と衝撃のあまり、思考と感情を失い、言葉を失い、目覚めた状態でも意識を失っているような状態が続いていたという。これを救うために治療は必要だった。

 現実を、何時かは受け入れなくてはならないとしても、幼い子供たちの壊れかけた心には重い。

 そのために。



 だが。



 実際、あのビデオテープに記録されていたものは、明らかにそれとは異なる事実を示していた。

 これは一体、どういうことなのか。

 わからない。

 すべてが嘘なのか。

 それとも何処かが嘘なのか。

 騙されるわけにはいかない。

 水月は憶測を下手に交えないよう、見たものから客観的に推測しうる事実のみを認識しようと務めていた。あれから、何度も何度も考えたことだ。

 まず――事件直後、『皇柚真人』は解離性同一性障害をひきおこした。

 要するに人格が分裂したと言う表現が一般に端的か。

 これが事件の衝撃による自己防衛であることは、間違いないと思っていいだろう。

 そして『主人格』は事件のことは覚えておらず、他方、『分裂人格』の方はこれをしっかり認識していた。

 さらに、『分裂人格』はかなり粗暴な傾向を示しており、精神的にも成熟しているように見受けられた。

 弱冠七歳の子供の中に、あの人格の素が存在しているとしたら驚きに値する。

 水月からみた『分裂人格』は、知識、語彙、思考力、どれをとってもまったく大人にひけをとっていない。

 それから――父は薬物をもちいていったん『分裂人格』の自由を封じた。おそらく――おそらくだが、『主人格』が無意識的に現実を拒否していたため、『分裂人格』のほうが意識を支配する力が強かったのだろう。それでも父は、『主人格』を話がしたかったらしい。いや、『主人格』こそが実験の主体であった、といったほうがいいのだろうか。

 父は『分裂人格』を封じてから、『主人格』と何度も話をした。

 だがそれは、『主人格』を医師の立場から完全に支配するためだったように思う。大量の投薬、催眠、カウンセリング。それらを通じて、父は少年の意思の自由それ自体を剥奪したのだ。そして――ひとつの約束を交わし――それを絶対の番として、『主人格』を完璧に分離・封印する事に、成功した。

 つまり――父が行ったのは、治療ではなく、分裂したふたつの人格をよりはっきりと乖離させ、『主人格』つまり意識上の『本人』を、消してしまうことだったのだ。

 ――なぜ?

 それはわからない。

 意図は不明だ。

 それに、ビデオテープの最後の部分肝心な、『約束』の部分が消されていて、父が何を餌に取引して『主人格』の封印に成功したのかも推測がつかない。



 ――しかしこの考えが正しいとすると、とにもかくにもひとつ気になることがある。

 空に目をやり、水月は嘆息した。

 それは――いま、現時点での、『皇柚真人』の状態だ。

 あの実験で『主人格』が消されたのだとすれば、彼は、一体何者なのか? 

 つまり――彼は――構学上――『皇柚真人』ではない。

 と、いうことになるのではないだろうか。

 さらに水月は、ビデオテープを見て、当時の『分裂人格』と現在の『皇柚真人』に性質的な近似性を見出だしていた。言葉の端にみえるやや乱雑な口調や、言葉の選び方、人にたいする接し方、などだ。よくよく記憶を手繰ると、事件前、水月が知っていた幼い頃の柚真人は、もっと優しくて、穏やかで、どこか頼りなく弱々しい影のあった子供のように思える。

 それを、何より彼の瞳が、語っているように思えてならない。当時の『分裂人格』と現在の『皇柚真人』は、似たまなざしと、瞳の動きを見せるのだ。たとえば、人がどれほど整形したところで目に顕れる心を変えることができないのと同じで、これは双方が同一であるという証しを得たに等しい。

 ならばやはり。

 彼は。

『皇柚真人』では、――ないのだ。

 否、そもそも同じものなのだけれど、でも。

 信じられなかった。

 そんな話は聞いたことがないし、こんな患者は扱ったことがない。

『主人格』と『分裂人格』それはそもそも同じものだけど、別人でもある。

 父の目的は何なのだ?



 このままですむはずがない。

 何かが用意されている。

 何のために?


      ☆


 誰かに真実を告白しよう。

 楽になりたい。

 これ以上耐えられない。

 自分を欺くこと、まわりを欺くこと、なにもかも失うこと。

 すべてが。

 彼は、そう思って階段を上っている。

 ――暁先生なら、たぶん屋上よ。最近、昼休みはいつもそうなの。

 看護婦の言葉に従って、彼は屋上を目指す。

 不安が心を壊す。

 このままでは。

 嘆息は重い。



 扉を開けると、風とともに夏の名残のような熱い空気が流れ込んできた。

 足を踏み出して見上げる晩夏の空は、青く高い。

 屋上には、白衣の女性がひとり。女医は、手摺にもたれている。

 彼女は、彼を認めると、瞠目した。

「……柚真人君……」

 呼ばれて、彼は軽く、微笑む。



「水月先生。今日は、話があって……きたんだ。ちょっと、いい?」



 類い稀なる秀麗な美貌の少年は、水月のもとまでゆっくりと歩いてくると、まっすぐに水月の瞳を見返した。

 その少年の、凜と冴えたまなざしが水月を圧倒する。

 ふっと浮かべた微笑みに、水月は寒気をさえ感じた。

 ――間違いない。

 いつもの柚真人ではないことを――瞬時に悟る。

 いや。

 あのビデオテープを見てしまったから、知ってしまったからこそ、理解する。

この少年は、やはり『皇柚真人』ではない。

 水月は少年を見つめた。

 少年は、まるでいま、水月が口に出そうとしている言葉を知っているみたいな顔で、水月と向き合って対峙してる。

「君は……誰なの?」

 言うと、目の前の少年が、また微笑んだ。

「……へえ?」

 その微笑みに寒気がする。

「……っ……」

「驚いた、なァ……。気づかれてたんだ?」

 その返答に、息を飲んだが、やはり、とも思った。

 寒気のする、端正な微笑。

「……」

「いつ、気が付いた?」

「……質問に答えてくれる?」

「おれが、誰かという質問?」

「そうよ」

 声が、震えそうだった。

 完璧な人格分裂者を、水月はまだ扱ったことがない。いや、そんな症例はそもそも稀なのだ。だからこそひどく戸惑っていた。

「ふん……」

 少年が鼻先で、嘲笑う。

「……そんなの医者のあんたのほうが良く知ってるんじゃねえの?」

「な……」

「おれが何者かなんて……おれにはわからんさ」

 ぞんざいな、覚えのある口調。

 ビデオテープの中で見た、あの表情。

 間違いない。

「……そう……。そうね」

「でもよかった。それなら話が早い」

「……柚真人、くん……?」

「わかってないねえ」

「……え……?」

「いーい、先生? おれは、ね。皇柚真人じゃない。それは、おれ、の名前じゃねえんだよ」

「……」

 それも、繰り返し彼が言っていたことだった。

「わかってるだろ先生? それくらい」

 現実と信じていたものが、幻みたいに崩壊する感覚を、水月ははじめて味わった。



 そして暁水月は知る。

『皇柚真人』の真実を。

 十年前の、父と、この少年との『約束』を。

 仕掛けられた罠を。

 そしてまた。

 螺旋がひとつ、捩じれてゆくのだ。


 新たな――否、用意された惨劇のために。


      ☆


 その日の夜。

 暁総合病院の医院長――暁圭吾が失踪した。

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