第25話 intermission Ⅱ・8月31日




 時間は午後十一時。

 ――やっぱり、絶対に、怒られる、よ……ね。

 夜も遅いし。

 ――宿題が終わらない、だとォ?

 たぶん柚真人は見下すようなまなざしで司をにらみつけ。

 ――ふざけんな、そんなのおれの知ったことか。明日学校出飛鳥にでも訊けばいだろうがよ。

 とか云ったりするだろう。

 そんな意地の悪い返答が容易に想像できた。けれど、残った問題集の最後の一ページは数学で、提出期限が明日で、そうなると頼りになるのは理系に切れる兄なのだ。

 司は、覚悟を決めて、兄の部屋の襖をたたいた。

 


「……柚真兄、ちょっといい?」


      ☆


 その時。

 就寝に備えて着替えようとしていた柚真人は、ほんの少し意表を突かれて驚いた。

 ――司の声?

 時計は夏休み最後の午後十一時を過ぎたところで、夜も遅い。

 嘆息して部屋の襖を開ける。そして、さらに――度肝を抜かれた。膝丈の白い着物――つまり寝間着を纏った司が、そこに立っていたのだから。

 柚真人は、正直なところ本当にどきりとして、そんな動揺をそれとなく押し殺そうと努力した。着替えの途中で途中まではだけたシャツの胸もとを、なんとなく気まずくて掻き合わせるように軽く握り締め、訊く。

「……どうした?」

「あの……さ。数学……最後の一ページだけ、どうしてもわかんないの」

「……」 

 見れば、胸に、数学の問題集を抱えている。

 柚真人は深く嘆息した。心臓に悪い。

 いや、――不埒な妄想をなどしてしまった己が愚かなのだろう。

 一瞬で、自分自身にぐったり疲れた柚真人は腰が抜けそうになるのを堪えて、肩を落とした。

 司は、片手を拝むようにしてみせ、ちょっと笑った。

「お願い。柚真人なら、すぐすむよね? 教えて?」



 柚真人の机を借り、その兄を傍らに、司はペンを走らせていた。

 学年首席の教示は鮮やかで手際よく、感心に値するものだった。

「柚真人って、本当に成績いいよね。……もう、とっくに終わってたんでしょ?」

 問題集に目を落としたまま、司が言った。

「あたりまえだろ」

 感情を抑えるために、つい怒ったような口調になってしまうのを止められない。

「お前……本当に弱いんだな、数学」

「兄貴ができ過ぎるの間違いだよ。入学以来首席の座を誰にも譲ったことないんだってね? 飛鳥君から聞いてる」

「そいつは努力の賜物だ。お前も少しは見習ってくれ」

 ぞんざいな言葉とは裏腹な気持ち。

 声が、震えてしまいそうになる。

 もう、――隠すのも必死だ。

「えーと……。これを、代入して……」

 首筋の濡れた髪。

 うなじから襟元にかけての肌の色は白く、けれど風呂上がりのためわずかに上気して薄紅色。鼻先を仄かに掠めるのは、石鹸の香り。

 それが甘い麻酔のように、柚真人を、苛む。

 ――お前。なんでこんな時間に、そんな格好で、こんなところにいるんだよ……。

 柚真人は、唇をきつく噛んでそう思う。

 まずい。

 本当にまずい。

 ――勘弁、してくれよ……っ。

 ため息も切ないのに、妹には伝わらない。

 ――この女……。

 机に置いた手に、力が込もる。

 背筋を這い上る微熱。腰からは、力が抜けてゆく。

 いまこの細い首筋に手を掛け、唇を寄せたら――司はどうするだろう? 

 どんな顔をするだろう?

 わかっていないのだ。いま傍にいるのが、いかに危険で最低の男なのか。

 それを知ったら司は多分、驚愕するに違いない。

 身をかたくし、すくんで動けず、愕然としたまなざしで、柚真人を見るだろう。

 そして兄を、侮蔑し、軽蔑し、拒もうとするのだろう。

 拒絶されるのだろう。

 それとわかっていても。

 ――……司……。

 怯えた表情を想えば、胸は痛む。けれど、加虐的なまでに強いることを望む自分がいる。妄想の中ですら、彼女は微笑わない。

 逃れようとする彼女をつかまえる。

 抱きすくめ、口を塞ぎ、抗うことを許さず。

 その華奢な肩から、白い着物を剥ぎ取り、手のひらで触れる彼女のすべらかな肌は、たぶん、柚真人を拒絶するように冷たいだろう。

 指で辿る鎖骨。あるかなしかの胸。円やかな柔らかさ。指先で探ったら、どんな表情をするだろう。唇を寄せ、舌先で触れたら。

 ――肌の温度。

 ――髪の感触。

 ――潤んだ瞳。

 ――濡れた唇。

 ――逃げる腰。

 ――絡める指。

 ――堪える声。

 ――乱れる息。

 目眩を感じて瞼を閉じる。

 何故、だろう。

 彼女に触れたいのは。

 欲情? ――違う。

 劣情? ――違う。

 望みは、躯の快楽ではない。

 確かに枯渇を感じるけれど、これは悦楽により満たされる類いのものではない。そんな楽なものならば、とうに何とかできている。

 吐き出せば吐き出すだけ、寂寥感が募るばかりだ。

 そして、焦燥が。

 時折、涙が出そうになる。

 あまりに虚しい。

 この恋は。

 あまりにも空虚だ。

 自分自身にとっては、どうしようもない、恋だ。

 こうしていても泣けるほど――胸が痛くて、自分でもどうかしていることは充分わかるけれど、でも、息苦しい。呼吸は辛く、喉の奥が詰まる。

 腰にわだかまる熱は痛みを孕み、心臓の鼓動が刻む衝動に気が遠くなる。  

 ――く……そ……っ。

 無防備なその姿に不条理な怒りが募る。

 ――どうして……!

 問い掛けは、己の裡に。

 そして同時に、何も知らぬ司に向けるもの。

 いっそ。

 鎖ででも――繋いで閉じ込め、自由を奪い、彼女の世界を閉ざしてしまいたい。自分以外の何ものにも触れさせたくはない。

 己の心を破壊してゆく独占欲。

 緊縛したい、拘束したい、蹂躙したい。ただ貪欲に奪いたい。

 拒絶も悲鳴も。

 捩じ伏せて。

 ――これは正気の沙汰じゃない。

 妹なのに。彼女は自分の妹なのに。

 それだけじゃない。たとえ相手が誰だったとしても、こんな感情。こんな凶暴な欲望。身勝手で、我儘で、傲慢で。

 常軌を逸している。

 それでも――そんなことをしてでも彼女が欲しいのだ。

 彼女は泣くだろう。

 傷ついて、泣くだろう。

 それでも、自分の心の中で、囁きを落す声がある。

 ――抱いてしまえ。

 彼女が泣いても、叫んでも。

 ――捩じ伏せてしまえ。

 と。

 ――だけど。

 己が一体、何を望んでいるのか、わからなくなって、目の前が冥くなる。

これは何だ。こんなものが恋?

 それとも幻想? 

 何かの錯覚? 

 わからない。もっと――穏やかな気持ちだけが、心に残ればいいのに。



「……柚真人?」

 


 問われて、柚真人は我に返った。

「終わった。えっと、これで合ってる?」

 司が、机の上に広げた問題集のページをペンで示す。確認しろということらしい。

 柚真人は嘆息して、肩越しにそれを覗き込んだ。

「ああ……。大丈夫」

 触れるか触れないかの距離になる、二人。

 軋み、悲鳴を上げる柚真人の胸。

「よかった。ああ、やっと終わったあ……」

 妹は無邪気に安堵の声など上げている。

 柚真人は嘆息した。

「まったく……お前も飛鳥と一緒だな。こんなもの、ぎりぎりまで残しておくことないだろうに。一体何考えてるんだ?」

「兄貴みたいに頭良くないからね」

「だから頭の善し悪しじゃないだろ。だいたい、休み明けてすぐには模試もあるじゃないか。お前、もしかしてそっちの勉強何にも出来てないんじゃないのか?」

「はいはい兄貴は本当に自制心の塊よねえ。まったくもってご立派ですこと」

 司が、問題集を閉じながら言った。

「どこまでも完璧で結構じゃない。少しはさ? 自堕落になったり、怠惰になったりしないわけ?」

「……馬鹿言え。なにが完璧なもんか。程遠いよ」

「あっそう。あくまで自分に厳しくってわけね。我が兄ながらたいしたものだわー」

 それは。

 なんて残酷なひとこと。

 ――おれの気持ちがお前なんかにわかってたまるか。

 唇をひらいても紡がない言葉。

 ――完璧? 自制心?

 どこかで綻びが生じたら――おれはどうなる?

 ほんの微かなそれであったとしても、己のすべてが瓦解するだろう。そんな恐怖と煩悶の直中にあって、どうすればいいという。いまは、何時、何処で胸襟を緩めるわけにだって、いかない。

  怖い。自分が。この手が。

 ――気なんか抜けるかよ。

 彼女のからかうような笑顔を見つめながら、ため息をつく。

 ――いま、目の前にいるお前と……奈落の底まで墜ちてしまえたら。

 そう、思うのに。

 司が、立ち上がる。



 誰も、いない、家。

 捕らえてしまえば逃れられはしない。

 堪えろというのか。まだ、これ以上。



「ねえ、柚真人? ……ひとつ、お願いがあるんだけど……いい?」

 戸口に立った司が、肩越しに振り向いて柚真人を見た。

「なんだ?」

 問い返すと、――司は少し、言葉に詰まったようだった。意味がわからなくて、柚真人は首を傾げる。

「司?」

「……柚真人は、どうせ次のテストも絶対成績一番でしょ」

「……まあ。たぶん?」

「……ちょっと。何その態度」

「なにって?」

「遠慮がないっていうかさ……。否定とか謙遜とかないの?」

「なんで?」

「もう。……まあいいか。あたしが五十番以内だったら、ひとつあたしのお願い、聞いてもらいたいんだけど、ダメかな?」

「……お願い?」

「そう。どう?」

「……お前が?」

 その提案は唐突で、柚真人は多少面食らった。

 ――司が、『お願い』?

 けれどもすぐさま斜めに妹を見下ろし、条件の変更を提示しかえす。

「甘い。三十番」

「ええっ?」

 司が、不満そうに顔をしかめたので、柚真人は小さく笑った。

 まったく、無邪気なんだから――。

 適わない。本当に。

 そう思いながら柚真人は、いささか厳しい条件を繰り返した。

「三十番以内。いっとくけどおれは手を貸さないよ。三十番以内だったら、何でもいうこと聞いてやる。ただし……駄目だったらこっちの要求をのんでもらおうかな」

「……柚真人のぉ? 何よ?」

 警戒の――たぶんなにか意地悪されるんじゃないかとでも言うような――まなざしで、上目遣いに司が柚真人を睨んだが、柚真人は軽く横に首を振った。

「なァに大したことじゃない。それに、お前が目標の成績キープできれば全然問題無いことだし? でも条件が一方的じゃ、賭けにならないだろ?」

「まあ、そうか。そうよね」

「お前が何企んでるかわかんないけど、まあいいよ。なんでも『お願い』したんさい」

「ほんと?」

「ああ、本当」

「……約束、だからね? 絶対?」

 柚真人は頷いた。

「わかったよ。約束」

「約束」

 妹の表情を眺めて、そんなに嬉しいのかな、と思った。柚真人としては、それより三十番以内の成績を獲得するという条件の難しさの方が、気になるのだけれど。

 だいたい、西陵は中堅進学校だが馬鹿みたいに模擬試験好きで、そのうえ上位陣の成績も進学先もかなりよろしい状態にある。

 それはどの学年においても同じだった。

 たいてい、上位者は最初から上位を守り続けるものだ。

 参考までにいうと、ひと学年約五百名弱のうちでも、飛鳥は万年後半気味――数理以外の科目に皆目興味が無いからだ。緋月は勤勉な三十番台。そういえば、司の級友――笹原彩だったか――は、ひと桁、それも片手の指で足りる順位から陥落したことがないという。

 司は、夏の期末では七十番台だったはずである。

 だからこその条件だったのだろうけれど。

 が、それにしたって。

 ――お願い、聞いて?

 とどめを刺された心地がした。

 おやすみ、といって踵を返してぱたぱたと廊下を走り去ってゆく、妹の後ろ姿を見つめ、――ひとりになったあともしばらく、柚真人は毒気を抜かれてそこにたたずんでいた。

 闇の底に、嘆息を重ねる。

 誰に、渡せるという――。

 こんなにも大切な彼女を。



 だが――柚真人には、あらゆる術がない。



 取り残されて。

 体内に蟠った熱だけが。

 出口を求めて彷徨い暴れる。

 くそ……。

 駄目だと思っても、いけないと思っても、止められはしない。

 だれか。

 だれか助けてくれ……。

 もう、気が、狂う……。

 誰か、おれの息の根を止めてくれ。

 彼女を、深く深く傷つける前に。

 淋しくて、悲しくて、虚しくて――そして自分が厭わしく、恐ろしく、忌々しい。

 ここらあたりが、限界だ。

 もう。

 柚真人は――天井を仰ぐ。

 そして。

 ひとつ。

 ひとつ、心に、あることを――決め、定めた。


      ☆


 そしてまた、司も。

 自室へ続く廊下を、床板を軋ませながらひとり、歩く。

 ――お願い。

 なんて言ってはみたけれど、ようは単に、契機が必要だったのだと思う。

 


 いつか――どうしてかと――兄に尋ねたことがある。皇流神道・裏神事『死者祓』にはいかなる意義があるのか。どうしてこんなことをするのか。

 なぜ。当然のようにそれを受け入れるのか――と。

 兄は答えた。

 ――『お前は背を向けてもかまわないと思うのか?』

 揶揄するように笑って、彼は、その問い自体が愚かしいことだとでもいうように。

 ――『それならお前はそうするといい。誰も咎めはしない。おれもお前を咎めない』

 と。

 けれど兄は、こうも続けた。

 ――『だが、おれが誰かの、何かのためにそれを受け入れている、とお前が考えるならそれは訂正しておく。選択権がこの手にあって、苦楽を選ぶとしたら、おれの選択はいつでも自ずと決まっている。それだけのことだ。代償に、退屈しない人生とそれなりに儲かるいい商売を得られるんだ、安いもんだろう?』

 司は。

 決して受け身にならない兄の姿勢を、眩しいような気持ちで想う。

 立ち止まって振り返った時に、後味の悪さを残すような道を、彼は絶対に行かない。

 見据えているのはただひとつ――己の自尊心。

 柚真人の凜然とした姿勢を思うと、我が身の――心の脆弱がひどく厭わしくなる。

 たとえば司が、これまでと同様にこれから先もずっとずっと逃げ続けたとしても、柚真人は何も言わないだろう。

 けれどそれは、司にそれを許すからではない。

 彼が、他人に何も期待をしないからだ。

 彼が、他人に何も要求しないからだ。

 己ひとりを信じ。

 己ひとりがすべてを背負うから。

 その覚悟をもって。

 それは――なんて冷徹な強さだろう。

 だから司は、兄の強さに羞じる生き様を晒すような真似を、したくないと、そう思ったのだった。

 兄である、あの人を想う資格が、今の自分には、無い。

 好きだとか。

 恋だとか。

 そんなことが論外であることならば、最初からわかっている。でもそれ以前に。

 あの人がいる、孤高の場所に辿り着く強さがなければ。

 自分には、兄を誇る資格すら。きっとないのだ。

 だから。

 なによりもまず――皇の人間として。

 妹として。

 怜悧な兄のいる場所に立って、同じ目線で、同じ世界を見つめられる強さが欲しい。

 あの人の、同じ血を分けた、妹として。

 なによりも、そうであることに胸を、張れたら。

 だから。



 だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る