第24話 intermission Ⅱ・8月10日
『一番長い日』というのがあるのなら、それはきっと、今日みたいな日をいうのだろう。
☆
庭に面した縁側に腰かけて西日を受けながら、風に揺れる洗濯物を見ていた。
夏の日の午後にしてはいくぶん風が強く、涼しい。
それでも。
――やっと夕方。
陽が沈み、夜の帳が下りるまでにはまだ時間がある。
司は、嘆息した。らしくない。らいくないったららしくない。
どうにもこうにも困ったものだ。今日の洗濯だって、結局これで3回目。いてもたってもいられない気持のやり場がこれである。
真夏の日差しは眩しくて、最後の洗濯物もすっかり乾いてしまった。たたんで片づけ終える頃には――兄は帰って来るだろうか。
司の兄・柚真人が、所属する高校剣道部の合宿に参加するために家を出たのは、1週間前。それからずっと、司は不可解な心持ちに悩まされ続けていた。
一日がやたらめったら長くて、夜が果てしなく遠くて、なんだか居所なかった。
おまけに眠れない。
こんなことは、初めてで。
何をやっても手につかなくて、大変に困った。
それでもやっと1週間がすぎて、今日、予定に変更がなければ、彼は帰ってくるはずである。それにしたってとくに今日という今日は、本当に格別に長かった。朝はやたらと早く目が覚めてしまうし、かといって何かすることがあるわけでもなくて、といっても何もする気が起きなくて、――この有様。
そう。司は、兄の帰宅を待っているのだ。
――柚真人……早く帰ってこないかなあ。
それは後ろめたくて、寂しくて、苦しくて、そして切なく、痛い気持。
彼が家を留守にしてからしばらくして、司は、気がついたのだった。
柚真人とは、三日と離れたことがなかったことを。
ふたりが別々に過ごした時間は、思い返せば一番長くて学校行事の修学旅行。もしくは『仕事』。
それでもせいぜい三泊と四日だ。
それに比べると、一週間は七日。それが、唐突にとても長い時間であることに思えてしまった。
日にちを指折り数えるさまは、我ながら滑稽だったと思う。
だって――そんな気持で兄を待っているなんて。
笑ってしまう。
可笑しくて――泣けてしまう。
澄んだ橙色の夕陽の中で、司はまた、嘆息した。
とにかく、洗濯物を取込んでかたづけよう――それにしても、今日は朝から、家中の洗えるという物という物すべてをかたっぱしから洗濯してしまったような気がする。
はなはだしく、無意味な行動である。
――まったく……なにをやってるんだろ、……あたし。
黄金に灼けつきはじめた西の空を、社殿の屋根の向こうに見上げると、どうしようもなく苦い笑いがこみあげる。呆れる気持を通り越して、なんだか情けなかった。
――ホント、なにしてんだろ……。
ヒグラシの聲が、遠かった。
☆
一路東京へ向かう新幹線のデッキに立って、飛ぶように流れ去る車窓の景色を眺めている。
西陵高校剣道部の合宿先はどういうわけか京都で、一週間の日程を終えて今は、帰途についている。
学校内にも合宿設備はあるのだから、大会前の強化合宿なら校内でやればいいのではないかと思うが、まあ、学校側や顧問にも思うところあってのことだろう。
それにしたって、京都は遠い。
いまさっき、やっと名古屋を通過したところである。
東京に帰り着くまでには、まだ少し時間がかかる。
何でここまで多忙な日々を、夏季休暇と呼ぶのか、と理不尽に思いながら、柚真人はため息をついた。
まったくもって『仕事』は立て込んでいるし、あっちの祭りこっちの旅行と連れまわされるし、部活にしたって合宿が終われば大会がある。それも、副主将たれば無様な試合をすることなど己の自尊心からしてできようはずもなく、いやがおうでも多少真剣に試合に臨まねばなるまい。
といったことに思い巡らせば、さすがの柚真人も疲労を感じた。額の奥に微熱がくすぶるような感じがあって、頭が鈍く痛むし、体も重い。これは体調が悪い――と言うのではなくて、高ぶっている神経のテンションがいつまでも落ちてこないがゆえの疲労感。
――あいつ……。せめて飯ぐらいは食えてんだろうな……。
眉間に皺を寄せながら、そんなことを思う。
柚真人があいつ、というのは、他でもないたったひとりの――壊滅的料理音痴な妹のことだ。
食事のことは、優麻に一応頼んできた。それに、どうしようもない時は、自分で台所に立たずに何か買うかデリバリーするように、といっておいたのだが、いまいち――いやかなり心配なのだ。
実は、出かける前には本気で、七日分三食、用意して冷凍でもして行こうかとも考えたのだが――。
冷静になるとそれも馬鹿馬鹿しいので、やめた。
司だって子供じゃない。
――なんとかしただろうよ。
揺れる車内の壁にことんと頭を預けて、柚真人は軽く目を閉じた。
物事を頭で考えている暇がないというのは、今の自分にとってはいいことなのかもしれない。目先のことに囚われていれば、傍らに彼女がいないことの虚しさにだって、目を瞑ることができる。
ほんの少しでもいい。自分が居ないということに、彼女が幾許かの痛痒をでも、感じてくれたら――と思う、不埒な気持も――黙殺できる。
――だから、いいんだ。
何も、考えたくない。
何も。
☆
夜の空気は湿っている。
司は、夜空を見上げて大きく息を吸った。
緑の葉の濃い匂いが肺に入ってくる。
まるで雨上がりみたいな露の香りだ。
あたりの雑木林からは、夏の虫の声が聞こえた。
格子戸の門をくぐりぬけて、社殿の前の鳥居を抜け、参道へ出る。
サンダルで玉砂利を蹴って歩く。
この時間の境内の空気はいつも清浄で、司は、夜の神社が好きだった。
夜の皇神社は絶対の聖域で、何者もこれを侵すことはない。
夜の境内は、いつも澄んだ気配に満たされていて、落ち着く。
ちなみに皇神社が『夜』である時間は、日の入りから丑三つ時の入りまで、である。
当然のことながら、丑三つ時というやつをすぎると、司の嫌いなものが激しく出入りするようになるか
ら、要注意だ。
だから司は、この時間の境内がいちばん好きなのだった。
夏でも冬でも、夜、時々こうして境内を歩く癖がある。
ものを考える時。
悩む時。迷う時。
深呼吸して。
それでもやっぱり落ち着かない心を、鎮めるよう、務める。
絶対言えない言葉を、封印する。
封印する。
参道の向こう、鳥居も向こうから、彼の姿が見えた。
どきどきする。
罪の意識と、甘い痛み。
一番長かった、今日の終わりだ。
夜の中から現れる――夏の白い制服に身を包んだ、少年。真夏でも長袖しか着ない彼は、軽く袖口をまくったシャツを、彼はそれでも、ごく涼しげに纏っている。滑らかな曲線を描く姿態が、背後からさす月光を受けて制服の下に透けている。
近づいてくる、足音。
それを耳にするたび、確かに胸の奥が痛む。
伏し目がちなまなざしが、ゆっくりと宙を彷徨い、そしてその瞳が、司を――見つける。
温い熱帯夜の風に、彼の、癖のない前髪が揺れる。
「……」
司は、ほんのすこしうつむいた。兄の表情をうかがいながら。
どぎまぎしてしまって、まともには視線を合わせられないから、唇をひきむすぶ。
柚真人が、微笑んだ。
あの、少しだけ刺のある、皮肉げな、揶揄を含んだ、優しくはない、表情で。
けれど司は、彼のその表情が好きだ。斜めに見下ろすまなざしの気怠さは、柔らかく優しい笑顔より――やっぱり柚真人にそぐわしいと思う。
「どうした、こんなところで」
「えっと……」
まさか柚真人の帰りを待っていたとも言えなくて、あさってを向いて曖昧に、笑む。
「……また、いつもの散歩か? ……ただいま」
柚真人が軽く手を挙げて、言った。
「おっ、おかえりっ」
柚真人は、この夏、少し背が高くなった。
いつも一緒だったから、いつの間にかという感じだけれど、ちょっとの間でも、離れてみたからこそ確かにわかる。柚真人は変わってゆく。司の中の、憶い出の中の柚真人だけでなく、いまこの時も。
司は――惹かれていく。
――重い――罪悪感とともに。
「うん、ただいま。留守中、何も変わりはなかったか?」
「うん」
「そっか」
穏やかな声を聴く司の、早鐘を打つ胸に広がるのは、甘く苦い痛みだった。
そして司は、――いまさらながら自分の心が寂寥感に浸蝕されるのを思い知らされる。
柚真人がいない、という事実は、柚真人を目の前にしてよりはっきりと、かたちになる。
そのことに、茫然となりかける自分がいて。
宵の闇の下で見る少年は、白い街灯と青い月光のもと、どこか幽玄で、儚い。
真夏の幻みたいに。
この手で、触れたくなる。
侵しがたい空気が肌に痛い。
――痛い。
「……どうかしたのか?」
気持は、司にとって重いだけなのに、消せない。
いつまでも立ち尽くしている司に、困ったように微笑んで、柚真人が首を傾げた。
「司? 家、入らないのか?」
「え。あ、……ああ、うん」
「からだ、冷えるぞ。いくら真夏でも」
「うん……」
それしかいえない。
この気持を、知る由もない、兄。
「……あの……、柚真人……」
「うん?」
「あ……の……」
――ごめんね。柚真人。許してね。
心を染める自責の意識。本当なら、想うだけだって、赦されはしないだろう。
これはまぎれもない罪だ。
甘い毒に、心は侵され朽ちてゆく。
それでも。
――柚真人が、いないと、あたしは……。
それを心に刻んで唇を引き結ぶと、喉が詰まった。頬の辺りや首筋が熱くなる。
――駄目。駄目。
――言っては駄目。
柚真人に。
――はやく、帰ってきて欲しかった――なんて。
「……なんでもない」
としか、言えなくて。
それ以上、どうしようもなくて。
本当に、本当に、どうしようもなくて……。
息が止まりそうなくらい、好き。
この人はとても強くて、迷いがなくて、いつでも己の絶対を信じることができる。その心は何時でも冷ややかに冴え渡り、何事にも煩わされず、何者にも汚されない。
『皇』の『巫』であるためには、必要な強さだ。けれど、それでも。稀をはるかに通り越し、司の中では、唯一の存在。
絶望的な恋。
この人の中で、自分にとっての彼と同じだけの、対等に対峙する強い存在に――なりたい。迷いなく、前だけ向いて、肩を並べたい。
そう、思うけれど。
気持は――どうしたって、届きはしない――。
――ねえ。
いま、柚真人はなにを思ってる?
その瞳は、誰を見ている?
何処を見ている?
それを――訊いてみたい。
☆
柚真人は、まっすぐに妹を見ていた。
戸惑いながら。手を伸ばしてもとどかない距離を自らに課して、彼女を見ていた。
――かなわないな。
名を呼ばれた時に、その唇が紡ぐ言葉にあらぬ期待などしてしまう。
けれど、いったい彼女がどんな言葉を自分にくれるというのだろう。
己の往生際の悪さには、まったく、呆れてしまう。
この気持は、紙一重で簡単に憎悪に変わってしまいそうなくらい、危うい。酷薄で残忍な感情に、簡単に溺れてしまいそうになる。
「部活、どうだった?」
柚真人に促されてようやく歩き出した司が、訊いてくる。
肩を並べて歩きながら、柚真人はふっと、司の横顔を見た。
彼女はうつむいていて、その表情はよく見えない。でも、それでいい。たぶん、まっすぐに見つめられたりしたら、柚真人はきっと、負けてしまう。
七日というのは、それなりに長かった。離れていれば楽かと思えば全然まったくそんなことはなくて、馬鹿馬鹿しいくらい司の心配をしたりして、おまけに久し振りに妹の顔を見たら、自分でも意外なほど安堵していたりするから戸惑うばかりだ。
本当なら。できることなら、抱きしめたい。
恋人だったら多分――そうする。
「大変だった?」
無邪気な問いに、憮然とした様子を装って答える。
「そりゃお前。京都暑いし、練習過密だし、夜は修学旅行状態だし。班長、室長、級長、副主将。えらい大変だったね。半端じゃなく」
「へえ。めずらしいね。柚真人でも素直に根をあげるんだ?」
妹は、そう言って笑った。
「本当に大変だったんだね」
「と、いうよりもだ。休みからこっち、おれのスケジュールがな」
司は、――何を考えていたのだろう。
ふ――と、柚真人は思った。
彼女が、夜、境内を歩くときは、たいてい悩みか迷いのある時だ。それが、子供のときからの癖である。それくらい、柚真人にはわかる。
その思いの片隅に、いずれどういうかたちにせよ、己の存在はあるだろうか。
そう、思いかけて――柚真人は自嘲した。
――埒もない。
本当に埒もない。
ありえないことだ。
「あしたは休み?」
「いーや。あしたは『仕事』」
「ええ? 全然やすみなし?」
「そうだよ。いったい何のための夏休みなんだかわからなくなるね」
「そう。大変ね、御当主さまともなると」
☆
永遠にすれちがうような。
捩じれた螺旋の、果てに。
まだ見えない、未来がある――それは夏の夜だった。
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