第21話 Holidays

    


 SCENE 01



 八月の始めは、暑い日が続いていた。


      ☆


「こんの万年お祭り野郎……。お前には文明の利器を利用するという考えはないのか……」

 額からこぼれおちる汗を手の甲で拭いながら、皇柚真人は呟いた。

「いやですよう。君には夏休みを満喫するということの重要性がわからないのかね」

 いくらか日焼けした顔に満面の笑みを浮かべ、橘飛鳥が胸を張る。

「わからんな……。少なくともこんなかたちで満喫したいとは思わん……」

 目の前にはなだらかな坂道が続いていた。といっても、柚真人と飛鳥がいる道は、バスもタクシーも走る、普通の公道である。歩くにさして不便はない。

現在が八月すなわち真夏で、天候は晴天、気温三十五度、時間は午後一時すぎ、目的地まで距離約六キロ、肩には旅行用の荷物、ということを除けば。

 ここは、静岡県とある山中の観光地だ。そしてふたりは、このペンション・別荘密集地のはずれにある貸別荘を目指していた。

 徒歩、という手段を強硬に主張したのはもちろん、飛鳥。

 こいつの挑発に乗るのもいい加減にしないとな、と、著しい反省とともに柚真人は思った。

 体力がないわけではなかったが、無駄に消耗するのも馬鹿馬鹿しい話だ。

 貸別荘に集まるのは、二人の他には従妹の司と緋月、それにそれぞれの学友が数人だった。総勢七名ほどになるだろうか。

 ことの起こりは、皇兄妹の後見人である弁護士で、柚真人の友人でもある笄優麻が、貸別荘に遊びに行く気はないかと柚真人にもちかけ、それを飛鳥が耳聡く聞きつけたことにある。

 なんでもその別荘は、本来優麻の所属する弁護士事務所に勤務する、職員たちが借りたものだったらしいのだが、仕事の関係で彼らが遊びに行けなくなった。そこで、キャンセルするのも何だから、柚真人たちで使わないかという話になったのだ。

 柚真人ひとりなら否と首を振ったろうが、飛鳥が首を突っ込んではそんな話が無駄になるはずもない。かくして柚真人としてはあまり気乗りしないイベントが敢行されることになった。イトコ以外の人選も、飛鳥が勝手に行ってくれたようだ。柚真人が聞いたところによると、司の級友が二人、緋月と、それに飛鳥の部活仲間がひとり、ということになってるらしい。

 しかし、柚真人はどうしても気乗りがしなかった。というより、すこぶる気が重かった、といったほうが正しいだろうか。

 その理由は、――以下にある。



「じつは遊びついでにひとつ片付けてほしい仕事があるんですよ、柚真人さん」

 優麻が、数日前に電話を掛けてきて、言ったのだ。ちなみに、彼が柚真人を『さん』付けで呼ぶときは、柚真人を皇一族の当主とみて自分を目下に置いていることを示している。これが後見人の立場から呼ぶとなると、『君』となる。

「その別荘は実は結構年期の入った洋館でして。幽霊屋敷と噂される物件だそうなんですよ。そんなわけでそれとなく、そこに居座っているモノを始末してきて欲しいんです」

 穏やかな声で、簡潔に、彼は言った。とはいえ優麻が柚真人に『仕事』を指示するのは、ごく当然のことでもある。彼は、多忙な学生である皇柚真人の後見人として、『皇の死者祓』についても依頼窓口となり、柚真人の『仕事』のマネジメントをしているのだから。それゆえ、柚真人が予め指定した条件のもと、契約を成立させてスケジュールを管理融通するのも後見人の仕事のうちだ。

「……ははあ。お前ら、直前になってその噂を聞き付けて敬遠したんだな? それでちゃっかりと幽霊退治を引き受けたわけだ?」

「何の話です? 私がそんな邪な姿勢であなたのスケジュールを管理しているとでも?」

「ほほう、違うのか?」

「心外です」

 全然そうは聞こえない声で言い放ち、優麻は切なげに嘆息などしてみせた。

 柚真人は、しかたないなと肩をすくめて問い質す。

「依頼主と内容を詳しく聞こうか」

「依頼主は、地主です。手配した事務所の者はまったく知らなかったそうなのですが、不動産では有名な『幽霊物件』というものだそうですね。仕事で関係のあった不動産屋から偶然その噂が耳に入って、うちの事務所員がすっかり怯んでしまいまして……」

「それでその不動産屋経由で地主に話をもってったのか、お前」

「そうですね。お金儲けはきちんとしないといけませんから」

「……」

「地主は、野次馬やテレビ局の取材、観光客の悪戯などで土地や建物が荒らされることも懸念しています。また噂のおかげで貸別荘としての経営も赤字。売却したくても到底不可能で土地建物の処分のしようもないと」

「お前がおれに話を持ってくるということは、その幽霊話、ただの噂じゃないってことか」

「はい。目撃者が多数。典型的な怪談扱いで、新聞・テレビなどにも取り上げられたことがあります。飛鳥君などは知っているかもしれないですね。詳しい資料は後にお持ちしますから、目を通してから出発して下さい。それと、同行される場合、司さんには何か護符を」

「わかった。報酬は」

「こちらで提示した額をのんでいます。諸経費込みで」

「……了承した。いいだろう」

 だが。

 怪奇現象過敏恐怖症の司と、怪奇現象愛好家の飛鳥、それにそれぞれの友人たちが参加する旅行において片付けなければならないものである以上、あくまで旅行のついでの仕事であってそれとなく始末を付ける必要があるわけで――状況的にかなり厄介なことは目に見えているではないか。

 ――司には厄除けの神札をもたせなくてはならないし。

 だからして、柚真人としては気が重いのである。

 ついでにいわせてもらえば、おそらく料理担当も自分であろうことが確実に予感できる。四日間のこととはいえ、七人分の面倒を見るのは――いかにも難儀な気がする柚真人だった。


      ☆


 件の貸別荘は、山の麓にあった。辺りは別荘地帯だが、一件一件はそこそこ距離があって、主な道は車が通れそうな程度には舗装されているものの、その合間を埋めるのは雑木林ばかりである。夜になれば外はさぞかし暗いだろう。

 その道路の突き当たり――つまり別荘地の一番奥にあるのが、これから宿泊する別荘だ。

 煉瓦の塀に囲まれた別荘は、白い外装といかにも洋風なたたずまいが重厚な建築物だった。管理者がいるらしく、門扉を入ってすぐ目につく広い庭も良く手入れされている。

 ――『幽霊屋敷』というにはあまりに綺麗だな。

 暑さで少し眩む頭をもたげて辺りを見渡した柚真人はそんなことをぼんやり考えた。

 ――もっとも、地主が講じている印象改善策の成果であれば、当たり前か。

 朽ち果て荒んだままにしておけば、賃貸するにも売却するにも困難だ。


 


 

 SCENE 02



 飛鳥がすこしも衰えない元気っぷりで玄関を開けた。

 両開きの木の扉がきしむような音を立てて開く。玄関には黒い石のタイルが敷き詰められていた。その先は、かなりの年数を経た雰囲気のある木の廊下で、床板は磨かれて黒光りしている。和洋の趣の違いを除けば、皇邸のそれに似ているかもしれない。

 壁や天井などの内装は白。おおむねアンティークな雰囲気である。

「やほー! 司ちゃん、橘飛鳥ただいまとうちゃーく」

 ふたり以外のメンバーは、タクシーに分乗して先に別荘についていた。

 何のことはない、一個団体は下の駅までは同じ列車に乗ってきており、駅から別荘までの徒歩を敢行したのが飛鳥と柚真人の二人だけだったのである。

「飛鳥君、柚真兄。本当に歩いたの」

「もっちろん!」

「へえ。先輩たち、本当に歩いてきたんですねえ……。ご苦労様でした」

 飛鳥に呼ばれて出迎えた司の背後には、司の級友であるという二人の少女がいた。名前は、小柄で元気の良い方が山野久美、落ち着いた雰囲気の優等生然とした方が笹原彩だ。

 柚真人が聞いたところによると、なんでも司と学校で昼食を取る時に一緒になるとかで、どういうわけか飛鳥とも知り合いということだった。

 続いてリビングルームから暁緋月が顔を覗かせる。

「飛鳥さん。柚真人さま。遅い到着でしたわね」

 などといって、にっこりと、たいへん優雅に微笑む。

 最後にリビングの革張ソファから振り向いたのが飛鳥の連れ、片桐智弘。彼のことは、柚真人も知っていた。何せクラスメイトだ。飛鳥と性格の傾向が似ていて、賑やかで屈託がない。

「よお皇。お前、よっく飛鳥に付き合えるな。感心だな」

「……自分でも猛烈に反省中だよ。ああ馬鹿なことをした。無駄な紫外線を浴びた」

 呟いて、柚真人は荷物をリビングの床に投げ出した。古い木の板が音を立てて軋む。

 洋館は二階建てでリビングは吹き抜けになっており、おおきな明かり取りの窓があった。

 二階へ上がると廊下と踊り場が吹き抜けに面しており、その奥にふたつゲストルームあってそこが女性陣各々に割り当てられたようである。

 二階の部屋は、階下から中の様子を伺うことは出来ないし、防犯上も安全だろう。

 野郎部屋はリビングルーム隣のゲストルームだ。今回使用しない主賓用のベッドルームを含めると――今風にいうなら――4LDKといったところだろうか。

 ただひとついえば、それぞれの部屋がかなり広い。

「予め宅配しておいた食料の整理とお部屋の掃除はすみました。お水でも?」

 柚真人の傍ら、緋月が小首を傾げる。

「あ、と。何かある?」

「ええ。いまお持ちしますわね。お待ち下さい」

 緋月の口調はごくごく丁寧だが、彼女は誰に対しても――特に柚真人に対しては大仰なところがあるものの――こんな調子なので、みんな慣れてしまっている。

 柚真人の横では、飛鳥が炭酸飲料2リットルペットボトルのラッパ飲みをはじめた。

「すごいすごーい、橘先輩!」

 山野久美が目を瞠る。

 洗いたてのコップに水を汲んできた緋月はそれを見とがめ、

「もう、飛鳥さんっ! なんてことなさいますの! おやめなさい、お行儀のわるい!」

「お行儀?」

「本当、お嬢様ねえー、暁さん」 

 そして飛鳥がぷはっ、と息をついていうことに、

「柚真人ゆまとっ、競争!」

 柚真人が脱力したのは、いうまでもなかった。

「……絶対、お断りだね……」


 ☆


 さて、それから数時間後。

 女子陣はこのあたりで有名な露天風呂へと、バスを利用して繰り出していった。

別荘には、残された男三人は、見るともなしにローカル放送を流すテレビを点け、豪奢な雰囲気のリビングでくつろぐことにする。

「どれぐらいで帰ってくるかな、彼女たち」

 片桐が、胸にクッションを抱えるかたちでフローリングの床に腹ばいになったまま呟いた。

「あー。さあてねえ。女の子はお風呂、長いからねえー」

「司は行水だよ。自宅だと」

 キッチンから、柚真人の声。ちなみに身内以外の人間がいる時は完璧な外面口調だ。

「おおっ、いいなあ皇。あんな妹がいて。巫女ちゃんだもんなあ」

「妹をどうしろって?」

 憮然と柚真人。

 飛鳥はにやりと笑って、

「僕だったら妹でも遠慮できないよなあ。んも、司ちゃん大好きっ」

「……遠慮とかいう問題じゃないよね? 飛鳥」

 柚真人の剣呑なまなざしを受け流す。

「暁さんとか、山野さんとかって長そうだよね、女の子の典型って感じ?」

「まあ、それでも二、三時間てとこじゃない」

「じゃ飯は……七時頃かな、どうする?」

「柚真人クン?」

 リビングとカウンタを隔てたキッチンでは、柚真人がすでに設備のチェックに入っている。ガスの点検、調理器具、食器の確認。

 カウンタの上に身を乗り出して、柚真人は飛鳥と片桐を見た。

「何とか適当に作るよ。ていうか。君たち、あからさまにやる気のなさむき出しだね?」

「あらあら柚真人君。そんなこというとお。『司ちゃんとヤミナベの刑』よ?」

「悪いな皇。俺、スキル皆無だもんで」

「……」

「はー……。夏休みって感じだねえ」

「そういうたわごとはクーラーを止めてからいってくれるかな」

「柚真人くんたら感じわるうい」

「夏休みっていえば、橘あ。お前宿題はどれほど終わったよ?」

「まあトモちゃん。無粋なことをいいなさんな。まだ八月も頭だよ? あんなもなア八月三十一日にまとめてやるのが粋ってもんでしょ?」

「マジかよ。リーダーの翻訳とか、すげえ量あるぞ!? チャレンジャーだなお前」

「柚真人は?」

 飛鳥の問いに対する応えは、カウンタの向こうから返ってくる。

「愚問。とっくに全部片付けたよ。おれはお前と違って勤勉だからね」

 とたん、片桐がぷっと吹き出した。

「そうなんだ。ったあ、それにしてもしまったなあ。なんだったら皇には終わった宿題持ってきて貰えば良かったじゃん」

「こんなとこまできて夏休み宿題大カンニング大会でもする気か?」

「なにいってんだ。成績優秀なヤツは利用するだけ利用しないとな? だろ?」

 悪びれもせず、片桐が言って胸を反らすので、柚真人は苦笑した。

「そりゃまた潔い意見だ」

「お兄ィちゃん! 僕も僕も!」

「大却下! お前は一生チャレンジャーの道を歩みたまえ」

 それをみて、また片桐が笑う。

「親戚なんだか友達なんだか、兄弟なんだか、わっかんねえなあ」

「大親友よっ。ね、柚真人」

「さらに却下」


      ☆


 結局、その夜に柚真人が用意した夕食は、パスタとサラダ。

 野郎共は、別荘にある風呂を利用することにして、三時間後にようやっと帰ってきた女子を迎えて、やや遅めの夕食がはじまった。



「……わたくし……、こんな生活はじめてですわ」

 戸惑いも露に緋月嬢が、率直な感想を洩らした。

 だがそれも道理である。なにせ、ダイニングテーブルを利用しているのは、緋月と司と彩の三人で、久美という司の級友と男子諸君は、食器をリビングにもちこみテレビなど観ながら、しかも思い思いの状態で食事を敢行しているのだから。

 歩く礼儀作法たる暁緋月にはいささか驚嘆に値する事態であるに違いない。

 リビングとキッチン、ダイニングは部屋として独立した間取りになっているものの、隔てがなくて、開放的な雰囲気の造りになっていた。

 全体としてみると、大きなフロアのようでもある。

 シャンデリア風の照明が落とす明かりはやや黄色っぽくあせた感じで、近代建築に比べれば足りない感じがした。

 古風な洋館のリビングルームにある、いかにも現代的なテレビがなんともそぐわない。

「信じられません。なんだか悪いことをしているみたいで落ち着きませんわね……」

「へええ。本当に、お嬢様なのね。暁さん」

「わたくし……、自分が格別変だとは思いませんけれど……おかしいですかしら?」

 生真面目に悩む口振りで、彩の言葉に緋月が応える。

「やあねえ緋月ちゃん。自覚があったら変じゃないでしょ? 変な人は自覚がないからねえ、変なんだよう」

 ダイニングの方へ、揶揄するような口調でそう言うのは飛鳥。

「まあ失礼ですわね! 人のことが言えまして?」

「緋ぃちゃんと橘先輩ってボケツッコミみたい。本当に仲いいんですねえ先輩方って」

 と、久美が言った彼女は司にもそうするように、誰にでも愛称を付けたがる。

そんな久美の言葉に、飛鳥はこくこくと頷いた。

「そりゃあもう。なかよしよ。『橘飛鳥と愉快な仲間達』、だもんね」

「飛鳥さんっ!」

「あ、でもね、司ちゃんは別ね。僕、司ちゃんのことは特別に大好きだからね」

「橘、お前……冗談にしても恥ずかしくないか?」

「全然」

 呆れる片桐にきっぱりと返して、飛鳥は胸をそらした。司は困ったように苦笑いする。

「えばってどーするよ」

「わたくしが、いつ、あなたの『仲間』になったんですのよっ!」

「生まれた時からじゃなあい。水くさいわねえ」

 それに対して、憤然とこれまた生真面目に緋月が応じようとしていた――時だった。

 突然――、どこかで水音がしたのは。

 一瞬、全員が沈黙した。

「水……?」

「……やだ……なに?」

「建物の……中だよ!?」

 それは確かに流れ落ちる水の音だった。

「台所!?」

 咄嗟に目をやるがキッチンのシンクではない。

「待てよ。これシャワーじゃないか?」

「嘘。だって誰もいるはずないのに」

 その時、すっと立ち上がったのは柚真人と飛鳥で、ふたりはためらうふうもなくリビングルームからバスルームへと歩きだす。

「ちょっ……とォ! ふたりともっ」

「先輩!?」

「そこにいて、僕と柚真人で見てくるから」

 ドアのところで、肩越し飛鳥がそう言った。

 リビングを廊下を隔てる扉が閉まる音が重く、そのあとに続いた。



 バスルームは玄関を入ってすぐ、リビングルームから板張りの廊下を隔てたところにあった。

 先に立つ柚真人が脱衣所への扉を開け、バスルームへの扉を開く。

 浴室では――もうもうたる湯気の中、出しっ放しになっているシャワーがざあざあと音を立てていた。白いタイル張りのそこは、照明も薄暗く、陰鬱な感じがしないことも、ない。

「……」

 柚真人は軽く袖をまくると手を伸ばし、シャワーを止める。

 途端、しん、と浴室が静かになる。流れるわずかな水の音と、滴が落ちてゆく音。

「……まいったな」

「参ったって何がよ? 柚真人クン?」

 怪訝な声で飛鳥が首を傾げる。

 対する柚真人は、一変して厳しい口調になった。

「飛鳥。このさい一応言っておこうか」

 傍らの柚真人を振り向いて――飛鳥は軽く息を飲む。嘆息すると、すっと息を吸い、背筋を正す。やや真率な顔になり、そして改めて訊く。

「なんでしょうか、御当主様」

「……じつはこの物件、大変ないわくつきらしくてね。実は『死者祓』を請け負った」

「請け負ったって……、え、ここ? この物件?」

「そうだな」

「……おやまあ」

「お前知らないか? 優麻は、お前は噂ぐらい知っているのではないかと、っていた。最近じゃ結構有名な場所らしいんだ。持ち主は、それに辟易しているそうでね」

 飛鳥は、ちょっとの思案の後、頷いた。

「確かに、このあたりにもそういう『怪奇現象続出の館』てな噂があったのは知ってる」

「それがここだってわけだ」

「ほお。どうりでよろしくない空気を感じると思った」

 そういったとき、ぱちぱちっと何かはぜるような音がして、浴室と脱衣所の電気が消えた。

 もちろん、そんなことで動揺する二人ではないから、唐突に訪れた闇の中でも何事もなかったように平然と、二人は互い瞳をみる。

「くっそ、優麻の野郎……」

「なに? 弁護士さん伝て?」

「それだけじゃない。……わかるだろ、司が一緒なんだぞ。あいつ、旅行ついでになんて気軽なこと言いやがって」

「ああそういえばそうだね」

 通常であれば。柚真人の存在そのものが、牽制になることが多い。

 それが通じない、ということは、いつ、なにが怒るか予測が付かない、ということで。これは、状況を考えるとかなりいたいのだ。

「滞在中に暇をみてこっそり、それとなく、穏便に片付けるくらいのつもりでいたんだが……まいったな」

 柚真人と飛鳥は、暗闇の中で見るともなしに顔を見合わせた。互いに互いがため息をつくのがわかった。

「司ちゃんを連れてくるくらいだもんね。失敗したって、思ってるわけだ? 二、三日早くきて先に片付けりゃよかったのに、御当主らしくもない」

「……しかたない。おれだって判断ミスぐらいする」

 意外と素直な言葉に、飛鳥は軽く目を見開いた。

「わかりました。フォローしながらなんとかしましょ。僕は楽しいけどね、『幽霊屋敷』なんてさ。夏休みにはサイコーのイベントだもんねえ」

 闇に落ちたバスルームで、何かを挑発するように飛鳥がいう。

 途端、ぱん、という乾いた音がして、頭上の電球が割れた。

 ぱらぱらと破片が降り注ぐ。

「……あすか……。お前、おれのいってることを理解しているのか? 司がいるんだぞっ」

「いいねえ。 そうこなくっちゃ!」

 はあ、と溜め息をついて、柚真人は肩を落とした。実は一番厄介なのは、この男ではないだろうか。そんな気がした。



 それから柚真人と飛鳥は、電球を新品に取り換えた。そして設備の整備不良のようだという理由を付けて、なんとか一同を納得させたのだ。





 SCENE 03



 翌朝目を覚ました緋月は、したままの腕時計を眺めた。

 朝七時すぎ。

 昨夜、あの騒動から柚真人と飛鳥が戻ってきて、食事と後片付けを済ませ、ひととおり騒いでだいたい皆が寝静まったのが午前二時すぎだったから、幾分早い時間だろう。

 全員が目を覚ますのは、もう少しあとのことになるだろう。

 それまでに朝食の支度をしようか、と思い立って、緋月は静かに着替え、司やその友人たちを起こさないようにしてそっと階段を下りた。

 そして玄関へと続く、廊下に立った時である。

 柚真人の声が、聞こえたのは。



「いやいや、だいぶん手強いな。洒落た仕事をまわしてくれるよ、お前も」

 早朝であることは充分承知の上で、通話をつなぐ先は、青年弁護士の自宅だった。

 高原地独特の湿った透明感のある朝の空気のなかで、柚真人はやや、力を込めて携帯電話を握り締める。

「飛鳥の奴がすっかり喜んじまって、仕事どころじゃないよ。ああ? わかってる、何とかするよ、誰に向かってモノいってんだお前。始末は付ける」

 苛立ちを押さえて、柚真人は頷いた。

「……違約金とられてえか。あ? 決まってるだろ払うのはお前だよ、お前!」

 電話の向こうの優麻の答えに、少し沈黙する。

 柚真人は考えた。

 問題は、こっちが気質の人間を多数抱えているということ。そして、こちらの仕事は彼らに知られたくはないということ。なぜってそれは面倒だからだ。

のちのちのことを考え立って、うんざりする。

 なんとかそれとなく事を済ませたい。司もいることだし――。

「とにかくもう少しこちらで様子を見るが、夕方もう一度連絡する」

 柚真人は通話を終えると携帯電話をたたんで手を下ろし、軽く嘆息した。背後から声を掛けられたのはその時で、柚真人はやや驚いた。

 だが相手は緋月で、それがすぐにわかったので、軽く肩を下ろす。

「おはようございます、柚真人さま」

 緋月は、淡い水色のワンピース姿だった。夏らしく、また御令嬢らしい装いだ。

「早いね」

「話し声が聞こえたものですから」

 にこり、と小首を傾げながら微笑んで。

「……お話を立ち聞きしてしまったことは謝りますわ。けれど、説明はしていただけますわね」

 はは、と柚真人は頬をひきつらせた。

「昨夜、本当のところいったい何がありましたの? いま、『お仕事』とおっしゃっていましたわね? 夕べの一件、浴室の整備不良、などではないのでしょう? そうですわね? 今のお電話は、優麻さんですわよね……?」

 愛らしい笑顔で問い詰められて、軽く額に手を当てる。

 まったくもって、飛鳥といい、緋月といい。

「昨夜、結局何があったのです?」

「……ええとね。つまり……ここ、『幽霊屋敷』なんだってさ」

 柚真人は、言った。


      ☆


 しかし困ったことに、山野久美・笹原彩の両名が、早くも昨夜とばっちりを食っていたことが判明した。

 金縛りにあったとか、寝苦しかったとか、その程度らしいのだけれど、昨夜のこととあいまって、山野久美の方は、「絶対出るよう!」などと半泣きでいっている始末である。

 迂闊にも部屋割りを任せたのが問題であったかもしれない。

 だが、朝食の時も、知らぬ存ぜぬ我関せずを決め込むしかない柚真人である。

「朝食、パンでいいかな?」

 と、キッチンに立ちながら柚真人。

「……君はいっつでも冷ややかだねえ、柚真人君……」

『出る』『出ない』の話題で、久美と無邪気に盛り上がっていた飛鳥は、「我関せず」をひたすら貫くイトコに感心して見せた。

 久美は、なぜかこっそりとひそめた声で、続ける。

「でも『幽霊屋敷』の噂は、わたしも知ってたんですよう。テレビとかでもちょっとやってましたよねえ、橘先輩。幽霊って本当にいるんですねえ?」

「あら、山野サンは信じる方? 気があうねえ」

「もおうっ。その話、やめようよ、久美ちゃん」

「どうしてどうして? 本物なら凄いと思うよ!? こーちゃん」

「すごくないっ。良くないって絶対!」

 というのは、司。

「山野さん、この手の話って怖くないの?」

 と片桐。こちらは『幽霊談義』にはあまり興味が無い様子だった。現実的なまなざしで、朝のニュース番組を眺めては、欠伸をしている。

「それで……その噂って、どんなものでしたの?」

 静かな緋月の問いには、彩が答えた。彩も噂話程度なら知識として知ってはいたらしい。

「それはよくある話よ。心霊写真スポットだとか、誰もいないはずなのに、夜中、窓に人影が見えるとか。あとまわりでよく泣き声みたいなのが聞こえるとか。そんな感じだったと思う。……ちなみに、あたしはそんなもの、信じてないわ」

「そうですわね。……信じない方が、よろしいと思いますわ。わたくしとしては」

「そうよっ、絶対、そんな得体の知れないモノなんか、世の中にいないんだから。いないったらいないのっ。そんなもの、幻覚よ、夢よ、疲れてるのよ、プラズマよっ、共鳴現象よっ」

「こーちゃん、ロマンがなあい」

「あんたがロマンチストすぎるのよ。っていうか、久美。幽霊ってロマン!?」

「ああ、もう……。よりにもよってどうしてこうかな」

 司は、天井を仰いだ。我ながら泣きそうな声である、と思う。

「大丈夫、大丈夫、司ちゃん。僕がいるから怖くないよ」

「にしても、こーちゃん。本当に、本気で怖いんだ。『神社の巫女さん』なのに?」

 久美の言葉に、司は激しく頷いた。思いきりしかめた顔で、ぐっと久美を睨む。

「こわいっていうか、嫌いなの。そういうのは嫌い」

 隣で、緋月がやわらかく苦笑する。いたずらっぽく司の肩を抱き寄せて、

「そうなんですのよ。司は、この手の話が大の苦手なんですの。ねえ、司?」

「苦手っていうかね……ごめん、とにかくイヤなの」

「へえーっ、心霊恐怖症の巫女?」

「なっ、なによ、みんなしてっ。悪いっ?」

「じゃあー、今夜、肝試しでもしよっか? こーちゃん」

「いっやっ、だ! 絶対、絶対いや! 久美ちゃんそれだけはいやっ」

「みんなー、僕の司ちゃんをいじめちゃ駄目え」

「誰がお前のだ」

「えー? 僕のだもん。そうだもんね。司ちゃん。なんなら、一緒に寝たげるよ」

「……………………………………………………」



 柚真人は、ぎゃあぎゃあと騒ぎだした面々を、キッチンから冷たく一瞥した。



「……君達! どうでもいいから手早く食事を済ませてくれないかな?」

「おっ、なによ柚真人くん、朝からご立腹ねえ」

「腹へってんのか?」

「食欲なあーい……」

「すみません、柚真人さま、いまいただきますわ」

「…………」

 柚真人は。

 言葉を続ける気力を喪失した。






 SCENE 04



 この洋館には幽霊がいる、いない、の話題で、朝もはよからひとしきり大騒ぎしたのち、遅い朝食を済ませ、本日一行は湖にやってきた。

 別荘地からほど近い、さほど大きくない湖だ。

 けれども有名観光地なので、湖畔には小綺麗なホテルやペンションが建ち並び、様々な売店もあった。夏空はひときわよく晴れ渡り、人の出足もけっこうなものである。

 陽射は強い。けれども緑濃い山の空気のせいか、風は涼しい。

 建物を出てしまえば陰鬱な話題はそれきり。道すがら、話題はいかに休暇を遊び倒すかということの方に主眼がおかれ、観光地に来たらそれらしいレジャーに精を出そうということで、湖行きが決まった。

 そして、湖にはちょっとした遊覧船やボートもあったが、結局一行は、湖を周回できる遊歩道を歩くことにした。

 

      ☆


 清涼な、真夏の緑の満ちる湖だった。

 水は、辺りの林を空の色を映して碧く澄んでいる。

 石畳の敷き詰められた遊歩道は、梢の陰になって、暑さも和らいでいる。まったりと歩くには、いい。湖側には木のてすりがあり、覗き込むと透明な小波の下に、魚の姿が見えた。

 司、彩、久美、がひとかたまりになって先を歩き、そのあとに、片桐と柚真人が続く。緋月は、一番後ろをゆるゆると歩きながら、そっと飛鳥を呼び止めた。

「飛鳥さん、気がついてますわよね?」

 振り返り、飛鳥は緋月に応えた。軽く、目配せとともに頷く。

「もちろん」

 それから、緋月は、足を速めて飛鳥と肩を並べた。歩調を合わせて歩きだしながら、ひとり、首を傾げる。

「どうかした? それが?」

「いえ……今朝、柚真人さまからお話をうかがって思ったのですけれど……司は、どうして平気なんですの? 昨夜も何も異常がなかったみたいですけれど……」

「旅行はいっつも護符もち。知らなかった? 司ちゃんってあれでかなりハイスペックなところあるからね。柚真人のやつ、気を使ってるよ」

 緋月は、飛鳥の耳に唇を寄せて囁いた。

「まあ……。そうですの……」

「そおなんですのよ」

 緋月の口振りを真似て、飛鳥は笑んだ。

 ふたりはそれとなく――誰もいないはずの、背後に、ちらりと視線を送る。

 背後には、歩いてきた石畳の遊歩道、穏やかな水と緑の景色が広がっている。

 だが飛鳥と緋月の瞳は、そこにあるはずのないものを見ていた。

 鮮やかな天然色の風景の中を、灰色の男が歩いている――その姿を。

 それが生きた観光客の姿などではないことは、わかる。

 否。それは実際目に見えるものではないのだろう。

 だが、飛鳥と緋月――皇の者には、その姿が色を失った残像のように捕らえられた。漂い彷徨う魂の残滓、あるいは死者の姿だ。

 死者――灰色の男は、うつむいて肩を落として足下を見つめながら歩いており、そのせいで顔などが良く見えなかった。ただ一定の距離をおいて、漂うように、ひたひたとついてくる。二人は、ひやりとした冷気にも似た、湿り気を帯びた気配を背中に感じていた。

 灰色の男は、確かに自分達のあとを、鬱々とついてきている。

 何をするでもない。

 何を伝えるでもない。

 だが、――ついてきている。

 緋月はそれに、視線を向けていたのだ――時折。

「先刻からわたくしたちのあとをついていらしてる『方』は、……あの別荘と関係がありますのかしら?」

「さあねえ。……御当主様が気がついてないはずないから……。なんとかするでしょ」

 のんびりと飛鳥は言う。柚真人が何も言わない以上、手出しはできないのだ。

 それは、緋月にしても同じこと。

「……緋月ちゃん? 僕らは、夏休みで遊びにきてるんだよね?」

「それはそうですけれど……」

「ならそれでいいんじゃない? 『仕事』に絡むなら柚真人がなんとかするだろうし。そう言ってたでしょ?」

「……そう、ですわね」

「もっとも。別荘に僕らが宿泊している以上、実害は被ることになるだろうけどね?」

「……飛鳥さん……。愉しんでいますでしょう?」

「あ、わかる?」

「相変わらず不謹慎な方。まったく!」

 背後に気配だけを、確かに感じながら、飛鳥は緋月に笑って見せた。


      ☆


 それから一時間ほどして、湖を半周したあたりで湖畔の公園に出た。比較的新しく小綺麗な様子からして、観光客用に最近しつらえられたものだろう。売店や、休憩用のベンチなどがみうけられるが、そのまわりはまったくの原生林。

緑生い茂る木々が太陽を遮り、かなり涼しい。

 ――真夏の首都の灼けつく街に比べれば。

 そこで休憩をとることにした時、時間は午後一時をまわったところだった。

 飛鳥と片桐は、空腹を訴えて食糧調達のため売店へと突進。

 それを笑って見送って、――司は、公園前の遊歩道の手摺にもたれ、湖を眺めていた。

 ――護符をあげるよ、司。

 一番最初にそう言って、お守りをもらったのは。

 旅行先で具合が悪くなることががあると、兄に訴えてからだった。

 以来、旅行などで知らない土地へ長期間滞在することになるときは、きまっていつも、兄が護符をくれている。

 それ以上何も言わなくても、風邪薬などよりも護符が必要なのだと――そうでないと、司が大変なことになってしまって、旅行どころではなくなってしまうのだと――兄は、知っているのだ。

 知っているけれど、何も言わない。

「……」

 司は嘆息する。

 池や、湖、沼はなかでもとくに嫌いだった。

 この間も、そうだったけれど――。

 流れ無き水の溜まる場所、その水辺は死者の魂が集まるものだ。それに、不特定多数の人間が入れ替わり立ち代わり利用する貸別荘なども、あまり気持のいいものではない。憂鬱でないといえば嘘になるだろう。

 苦手だ。

 護符として兄が手渡してくれる皇神社の神札。

 ――だけど……。

 司は思う。

 本当は、柚真人がいれば護符など必要ないのかもしれない。柚真人がそばにいない時にこそ、護符は必要なのだという気がする。

 今回の夏休みの旅行は柚真人が一緒で――これは初めての経験だっだが、だからこそそう思えたのかもしれない。

 たぶん、それは、『皇柚真人』という存在に対する絶対の信頼感や安堵に由来する現象なのだ。

 結局、司が依存しているのは、『お守り』ではないということになる。司はたぶん『柚真人』を信じているのだ。彼の力、彼の強さ、彼が守ってくれるということを。

 結局なにもかも――滑稽なくらい己の心ひとつが、左右していることにすぎない。

 それが何だか癪だった。

 どうして癪なのかは、自分でもよくわからないが――。

「……馬鹿柚真人……」

 太陽の光を映す水面のゆらめきを覗き込んで、なんとなく悔しくて、呟く。

 その水面に映る自分の姿の隣に、人影が現れたのはその時。

「……司? 大丈夫か?」

 そんなことをいって、ふいに司の傍らに立ったのは、柚真人だ。

 意外だったから少しだけ驚いて、司は兄を見返った。

「柚真兄…」

「お前、こういう水辺嫌いだろう? 気分は?」

「……平気。水は……やっぱり苦手だけど。いまは大丈夫」

「そうか」

 柚真人は安堵したように頷いた。こういうとき、いちおうは心配してくれるのだ。

「まあ……おれだって好きじゃないよ」

「あのさ。全然そうは見えないよ? 柚真兄は無敵じゃない。苦手なもの、なんて、どうせなんにも無いんでしょ」

「そいつはひどいな」

「そう?」

「それは正当な評価じゃないね。『無敵』と己を信じる気持が大事なんだよ」

「柚真兄っていつでも呆れるくらい向かう気充分だよね。喧嘩上等だし」

「確かに……そうだね。受け身ではない」

 柚真人は、手摺に背を預けてあっさりと頷いた。

 そのままふたりは、言葉がなくてなんとなく空を見る。傍らの司は、揺れる水面を。

 司は、ゆらめく光に瞳を細めた。

 淋しいほどに凛然と孤独な。

 いちめんの雪原、氷の原野を思わせる――皇の巫の、切なき孤高のその姿を念う。

「……柚真人……」

「……?」

「あー……」

「なんだよ?」

「あのさ。えっと……いつも護符、ありがと」

 司にとってそれは紙切れに記された文字や、呪いの力ではない。眼裏に念う、皇の巫の、姿こそが、――真に司の護符となるのだ。

 ――あたしってかなり重傷。

 司はうつむいて唇を噛んだ。

 その事実が、なんだか本当に、癪だった。



「ねえ、暁さん? 橘のやつって、やっぱ本気、なんだよね?」

 唐突に言われて、緋月は返答に困った。

 炭酸飲料を片手にそんなことをいったのは片桐で、視線の先には司の友人たちとはしゃいでいる橘飛鳥の姿が、ある。

 片桐は、緋月が座っている木陰のベンチに腰をおろした。

「隣、いいよね?」

「ええ、かまいませんわ」

「……でさ。暁さん、橘のこと、どう思う?」

「……それ……、ええと……。司のこと、ですわよね?」

「そうそう。あいつ、ことあるごとにアレでしょ。実際、どうなのかなっと思って」

「……返答いたしかねますわ。飛鳥さんの個人的な事情には」

 緋月は、やんわりと苦笑してそう返した。

「そう。まあ、いいんだけど……でもほら。見て見て。あいつ、いまでも時々目が泳いでるだろ? 皇の妹の方、気にしてる。見てるとわかるんだよな」

 片桐は、緋月の方を見て、にっとほくそ笑んだ。

 飛鳥や柚真人とはまた違った雰囲気の少年だと、緋月は思った。天然だろうか、さらさらした茶色がかっている色の薄い髪が、綺麗だ。そのせいか、全体的に明るい印象を受ける。

「あれでさ、なかなか本音が読めないところあるから、面白いなあと思うんだ。

普段の橘のイメージってポーカーフェイスって感じでさ。なんか、弱点発見て感じ。絶対、本気だよね」

「あら……飛鳥さんて、意外と物事ごまかせない方なんですのよ」

 緋月は――諦めの色濃く、言った。

「え、そう?」

「ええ。正直すぎるくらい。始終元気なのは天然で、ポーカーフェイスとは程遠いですわね。それならば柚真人さまの方が完璧。……飛鳥さんは……嘘がつけません。本当に、いつでも何に対しても本気で、疲れるくらい真っ直ぐなんですのよ……」

 そこでひとつ嘆息をついて言葉を切る。姿勢を正して、緋月は続けた。

「あの方には力の配分という考えがなくて、いつでも、あらゆるものに対して、百の気構えなんですの。五分五分に力を分散するとか余力を残すということはしないというよりできませんの。もとが十なら二十に、百なら二百に。そういう、方なんです。例えば……いま。司のことも気になるけれど、女の子相手となれば、誰でも分け隔てないでしょう? 女の子はみんな好きだって、飛鳥さん、いつもおっしゃいますもの」

 片桐はそれを聞いて笑った。橘らしい、と思う。

「へえ。なるほど。……それにしたって、本気なら本気で、態度あからさまなんだよなあ、橘。あれじゃあ、本気は伝わりにくいと思わない? まるで冗談だもんな。時と場所を選ばないやりくちは。一体、結局どうしたいのかな、橘のやつ」

「……たぶんそれも性格、ですわ。飛鳥さんの」

「だろうなあ……」

 片桐が頷く。

 緋月は、そういいながらも――ふと考えた。

 ――あれでは本気は伝わりにくいと思わない?

 もっともな話だ。

 飛鳥がどれほど司に対して本気であるか、緋月はよく知っているつもりだ。

ならば飛鳥の行動には、どんな意味があるのか?

 伝えたいのは、司じゃ――ない?

 司への想いを、誰に伝えようというのか?

 あからさま――なればあれは、司に対してではなく――?

 誰かに対して。

 司ではない、他の誰かに対して。

 ――牽制、を?

 緋月は、ふっと視線を流した。

 その先には司と――柚真人。

 飛鳥が牽制を向ける相手として考えられ得るのは、たったひとりしかいない。

それは――それは――。

 ――ま。――まさか!

 緋月は、いま自分の脳裏をよぎった考えを自分自身で一蹴した。

 それは――いくらなんでもそれは、突飛だ。飛躍しすぎている。

 いや、飛躍とかそういう問題ではなくて。

 ありえないことであるはずだ。馬鹿馬鹿しい――。

「……暁、さん?」

 ――そんな……そんなことは……。

 けれど。でも。

 絶無であると、言い切れない自分がいること、に気づく。

 それを疑った瞬間が、ないとは言い切れない自分が。

 そう。

 たとえば彼のまなざしをみた時に。

 確かに感じた不安と疑念は。

 自分にその可能性を示唆したのではなかったか。

 いたたまれず、緋月は、その両の拳を膝の上で握り締める。

 ――まさか……。そんなことが……。

「どうかした?」

 片桐の言葉に、首を振る。

「い……いいえ。なんでもありません」

 胸の奥で心臓が、痛みに似た鼓動を刻みはじめていた。

「なん、でも……」

 ――そうですわよ。いくらなんでも、そんなことが……あるはず……ありませんわよ……。



 一方――司の友人たち――彩と久美に、飛鳥は質問責めにされている。

「橘先輩と皇先輩って、イトコのわりに、似てませんよねえ?」

「それは言えるわね。でも、皇先輩と妹の皇ちゃんも似てないと思うわ。皇ちゃんも充分綺麗な顔立ちだけれど、皇先輩のあの美貌って、ちょっと異様ね」

 二人に言われて、飛鳥は肩をすくめた。

 その意見には異議もない。柚真人の要望に関しては、単純にひとことでいうなら美貌としか形容の仕様がないのだから。

「柚真人と僕の違いって、一番は、目なのね。あいつは鋭い一重でしょ。僕は重たい二重。それで印象が変わるみたい。まあ、僕は髪も長いし茶色いし……。

それに柚真人のあの特別仕様のカオはね、まああれは遺伝子の偶然の産物ってことでね」

「言われてみると確かに目の印象が違うかも。皇ちゃんも二重まぶたよね」

「でしょ? 緋月ちゃんと柚真人の方が、似てるよね? どっちも美人サンでしょ?」

 彩と久美はその言葉に笑った。

「美人! 確かに、皇先輩は美人ですう。緋ぃちゃんも」

「でも、皇先輩が意外と話しやすい人だったのに驚いたわね。もっとカタい雰囲気の人だと思ってた」

「柚真人が?」

 意外そうな飛鳥に、彩がうなずく。

「ええ。まあ男でも女でも、綺麗な人ってそういう雰囲気あるんだけど……。うちの部活の部長なんかもそうね。背も高くて美人だけど、ちょっと近寄りがたいの」

「そりゃあ、『接客商売』に年期が入ってるからね。僕らは」

 そういって飛鳥が胸をはったので、彩と久美は顔を見合わせた。

「ああ……、そうね。神社さんって、実際は年中、結構人が出入りするんでしょうね?」

「そう。お守りに御札、破魔矢とかの売店もあるし。ちゃんとした商売なのよ」

「じゃあ、皇先輩って本当に本物の『神主さん』なわけですか?」

「まあ。何だとおもってたのよ、君達。そうだよ? 普段はね、白衣に浅葱の袴はいて、竹箒で境内のお掃除。土日なんかはね」

 飛鳥は、そういって箒を持つしぐさをしてみせた。

「へえ。本当の本当なんだ。でも神主って……高校生でもなれるんですか?」

 彩が怪訝な顔で首を傾げるので、飛鳥は首を捻る。

「さあ? どうなんだろ。まあうちの神社は事情があって、ちょっとかわってるかもね」

「あら。大変なんですね」

「ぼくらイトコはそうでもないけど、柚真人はね。あ、でも僕らだって駆り出されることはあるよ? 年末年始なんか特に大変でさあ」

「じゃあ、今年、初詣に行ってもいいですかあ?」

「ちょっと。いっとくけども、あたしを付き合わせないでよ。久美」

「もお。彩ちゃん、薄情!」

 彩は、からかうように、鼻を鳴らした。軽く、久美の額を小突く。

「歓迎歓迎。年末年始は僕も、それから司ちゃんと緋月ちゃんも神職さんの衣装を着て、頑張ってるからね。ぜひ、働く勇姿を見にきてやって」

「ずいぶんと愉快なお話しをしてるじゃないか? 飛鳥くん」

 飛鳥が言った時、背後から柚真人があらわれ、飛鳥の首に手を回した。

「いやあ。司ちゃんのお友達を、初詣に御招待しようと思って」

「この暑い季節に、涼しい話だな」

 にこやかに、柚真人は言い、飛鳥の首に回した腕に力を込める。

「あら柚真人クン、ちょっと、苦しいわっ」

「気の早い話で結構なことだけど飛鳥クン。それじゃあ、今年の年末と来年の年始ははさぞかし働いてくれるんだよね?」

「えー、あー、そりゃあ、もう。神主さま」

「毎年毎年一番忙しい時間には、社務所で寝てたり逃げたりするのに?」

「あれえ? そうでしたっけ?」

「お前ときたら、正月早々ウチに転がり込んでは食っちゃ寝食っちゃ寝。おれは今、確かに聞いたよ。今年は絶対に逃がさないからな?」

「だあって、柚真人君のお節料理、とおっても美味しいんだもん」

「褒めてくれても駄目だ」

「いやだなあ。柚真人クン、目が怖いわよう」

 彩と久美は、また顔を見合わせ、じゃれ合う二人を見て、笑った。





 SCENE 05



 結局その日の夜も、やはり浴室は使えなくて、家全体の水回りの調子が良くなかった。


      

 それでもとくに変わった出来事はなかったから、またしても割れてしまった浴室の電球を取り替えながら、飛鳥と柚真人は翌日仕事に取り掛かろうと算段を決めた。

「今夜、何もなければ御の字だ」

「まー、そうだね」

 スイッチをぱちぱちやりながら、一応洗面台の電気だけでもきちんと点くことを確認して、飛鳥は言った。

「でもなんで水回りなんだあ?」

「うーん……」

「あ、わかってらっしゃるね? ご当主さま」

 飛鳥の言葉に、答えずに柚真人は笑った。

 だが、事態は深夜になって急展開の様相など呈してくれたのであった。


      ☆


 ――何か――。

 不可解な音がどこかでしたな、と思った時、壁掛時計を見たら午前二時すぎだった。

 なんだろう――と、片桐智弘は考える。

 何の音だったろう。

 その音を聞いて、目が覚めたのだ。

「……橘?」

 念のため、呼んでみる。

「皇?」

 地階のゲストルームで、二人の間に自分は寝ているはずなのだ。

 耳を澄ましたが、寝息は聞こえなかった。さらに目を凝らしてみても、部屋は闇の中で、しかも寝ているとあっては、辺りの様子はよくわからない。

 いやな感じがした。

 クーラーの音。

 自分の身動ぎの音。

 そしてまた、その音がした。

 耳に神経を集中させる。何の音か、聞き取ろうと試みる。

 ――これは。

 ふいに気付く。これは――足音か?

 部屋の、外の、廊下から、とぎれとぎれにきこえる、足を引きずって歩くような、足音。

 ――う……わっ。なんだよこれ……!?

 気持ちのよい音ではなかった。

 いや、どちらかというと、耳障りな、肌が泡立つような、不気味な、音だ。

廊下の板床がぎしり、ぎしりと軋む音まで伝わってくる。

 確かに、はっきりと。

 そして――足音は、部屋の扉の前で、すっと止まった。

 ――な……なんだ?

 片桐はいたくなるほど耳を澄まして眉根を寄せる。

 ――なんだよ!?



 目が覚めてしまった久美は、隣に彩が眠っているのを確認して、体を起こした。

 なんだか妙に喉が渇く。

 ――お水……。

 そう思って、彩を起こさないよう、そっと部屋を出る。

 廊下に出ると、踊り場からは階下が見えた。吹き抜けになった明かり取りの大きな窓から、月明りが入ってきて、部屋全体を照らしているのだ。

 階段を下りて、リビングルームを通り抜け、キッチンに立つ。

 その時、久美は奇妙な音を聞いた気がして、ふっと全身を堅くした。

 ――……なに……?

 あたりに首を巡らすけれど、すぐにその音が何処から聞こえるのか悟った。

久美の、目の前――キッチンの水道のパイプの辺りだ。

 ごぼごぼという、音が水道管の奥で鳴っている。

 久美は、首を傾げながら、キッチンの室内灯を付けた。

 部屋は明るくなったが、間違いない。変な音がしている。

 ――なに?

 ごぼん、ごぼん、ごぼん。

 何かが詰まって水が流れない――そんな音だ。

 久美は、カランに手を伸ばし、ひねった。

 ごぼん――。

 途端、音が止んで。

 一瞬の間をおいて、蛇口から水が迸る。

 いや――水、ではない。

 だって水ならなんでこんなに真っ赤なのだ!?

 久美は一瞬息をのんだ。

 心臓が止まるかと思った。

 血、にしか見えない。ステンレスのシンクが、またたくまに真っ赤になってゆく。

 生臭い、匂い。

 鮮血が、水道から。

「あ………………っ」

 直後、久美の口から悲鳴があふれた。


  

 空調は効いているはずなのに、寝苦しくて、彩は瞼を上げた。

 時間はわからないが、まだ深夜だろうと思った。

 瞼が重い。どういうわけか、目を開けたくない気がした。

 最初に目に入ったのは天井で、隣を見ると、久美がいない。

 ――……?

 トイレにでも、いったのだろうか。

 部屋は静かで、何も音は聞こえない。

 けれど、ひどくいやな気分だった。

 何処かから、何かがじっと、こちらのほうを注視しているような、そんな気がする。

 もっともそんなことはありえないことだったから、彩は、気を取り直して眠ろうとした。

 気にし過ぎよ。

 久美や橘先輩が変な話するから。

 幽霊なんて信じてないし、化け物なんて存在するはずがない。

 馬鹿馬鹿しい。

 きき過ぎたくらいのクーラーが涼しくて、彩は布団を被り直した。

 と、その時――。

 ぱたぱた、と頬に何かが滴ってきた。

 ――!?

 驚き、体を起こして手で拭う。

 すると、またぱたぱた、と何かが滴ってきた。

 天井を見上げるが、暗くてよく見えない。

 彩は、ベッドサイドのテーブルランプのスイッチを入れる。それから、その明かりをたよりに何かの液でぬれる手を翳し、見る。

   ……っ。

 自分の指先が赤く濡れていた。

 ――血――!?

 視線を、それから掛け布へ、そして天井へと、うつしてゆく。

 掛け布の胸元には、やはり点々と赤い染み。

 天井には――。

 まるで血溜まりのような、真っ赤な染みが広がっていた。滴は、そこから滴って、彩の掛け布を汚している。

「う……うそ……っ」

 彩は、驚愕のまなざしで自分の手を見た。

 確かに、血がこびりついている。

 ぱた、ぱた。ぱたぱた。ぱた。

 天井から落ちてくる滴。

 ――血?

 そんな――馬鹿な。

 ――これ、血? だよね……?

 いや――。

 そんなことがあるはずない。

「う……うそ……っ」

 自分の口が、震える声を紡ぐ。

「いや……っ」

 ぱたた、ぱたた。

 赤い滴がしたたり落ちてくる。

 どんどんと染みが広がる。

 声が出ない。

 固唾を飲んでただ呆然と、それを見ている。

 悲鳴が聞こえたのは――その時だった。



 ――きゃあああああ――――!


      ☆


 自分のものではない悲鳴を聞いて、彩はふっと正気に返った。

 ――久美?!

 隣に寝ていなかった、久美の声だ。

 彩は飛び起き、部屋を出た。



「いやあああ、やああっ!」

 キッチンのシンクのところで、久美は蹲っていた。

 彩が駆け寄ったとき、階段から司と緋月も下りてくる。

「どうかなさいまして!?」

「彩ちゃん、久美ちゃんどうしたの?」

 ダイニングの向こうからは、柚真人と飛鳥、それに片桐が顔を出す。

「なによ、水、だしっ放しで……」

「だ、だって彩ちゃん、水道から、血が……」

 久美は、うずくまったまま、顔を上げずにそう言った。

「なにいってるのよ、ただの水よ?」

「嘘お……っ」

「本当よ?」

 片桐と飛鳥が、目をこすりながらキッチンまでやってきた。その後ろに柚真人が続く。

「……ああ。びっくりしたあ。何、山野さん、どしたの?」

「す、水道。変な音がして、血が……」

 かくして七人は深夜のダイニングに集まり、司が階下のすべての部屋の室内灯を点けた。

「……なあ、やっぱここ何か『出る』んじゃない? おれも、さっき目が覚めて……そこのさ」

 片桐は、振り返って、一階ゲストルーム前の廊下を肩越しに示した。

「あの廊下、誰かが歩いてたんだよな。……そんな音がした。気味悪かったよ」

「……そうだわ。私の部屋もおかしいのよ、天井に真っ赤な染みが広がってて……」

 そこまで言って、彩は気が付いた。血、のようなもので汚れていたはずの指が。

 言葉を飲み込む彩と久美。

 夜の中で、沈黙が重く澱んだ。

「ちょっと、彩ちゃんも久美ちゃんも冗談やめてよ」

「だいじょうぶですわ、司。落ち着いて」

 緋月は司をなだめるように肩に手を添えた。

「わたくしも柚真人さまもいるのだから、大丈夫よ」

「僕はあ、緋月ちゃん」

「柚真人さまの付録」

「ひど……」

「そーいえば橘、皇、何も感じなかったのか? まがりなりにも神社の跡取りだろ?」

 片桐に問われ、二人は顔を見合わせた。

 そして、――しれっとうぞぶく。

「別に?」

「何にも?」

「おれにいわれてもねえ。知らないよ」

「……どうなってるのよ、この家……」

「あ、じゃあ僕と一緒に寝る? 司ちゃん?」

「橘……」

「怖いよう、本当に血だったんだよお。こーちゃん、彩ちゃあん」

「うーん……。そうなるとおれもちょっとばかり怖いかな。……信じてなかったんだけどなあ、『お化け』とか」

 一同は――多少の例外を除くことは勿論として、蒼い顔で煮詰まってしまった。

 それを見渡し、ふむ、と飛鳥は少し思案する。

「じゃあ、こうしよう。僕は電気点けてリビングで寝る。寝室のドアは、上も下も開けておく。女の子たちは、ひとつの部屋に固まったらどう? ひとつベッドに二人寝られるでしょ? 電気はつけたままで。ね?」

「……おれも橘とリビングで寝る……」

「一緒に寝るなら僕より神主さんの方が心強くなあい?」

「……それも……そうか……。な? 皇?」

「……好きにするといい。でもおれはベッドで寝たいよ、床の上はごめんだね」

 そんなわけで――結局、飛鳥の提案通りのかたちで、七人は朝を待つことになった。





 SCENE 06



 それでも――明るくなってしまうと人の恐怖は薄れるものらしい。

 寝室から出てきた片桐は、ソファの上で欠伸をしている飛鳥を見やって、「橘。お前、本当にリビングで寝たの?」

「うん」

「で、なんか『出』た?」

「いんやあなんにも」

 だが、寝不足は否めない顔だった。

 お互いに、以降は何事もなかったのではあるけれど食欲はなかったし、はしゃぐ元気もいささか減退気味。ただ、朝になってみると、昨夜のことがまるで夢でもみたかのように思えた。ほんの数時間前のことだったのに、本当にあったことなのかとさえ、感じてしまう。

 明るさや太陽の光というのは、人の心に微妙な心理作用をもたらすものらしい。昼と夜はただ太陽の巡りであって、太陽は恒星の光に過ぎないはずである。

 しかして人ならざる者がこの世に存在するならば、それこそ夜昼など気にかけるはずも無いのだが、古来より陽光は邪悪なるものを滅ぼす力があるとされている。その真偽がどうであれ、光の聖性は、人の心に与える安堵感のようなものにも起因するのだろう。

 そしてだからこそ人は闇を恐れ忌む。

「で、今日は何処行く?」

 スクランブルエッグをつつきながら、片桐。

 朝食は、全員キッチン隣のダイニングに集合していた。気分として、誰彼とも、何となくひとかたまりになりたかったようである。

「というより、今日もここに泊まるんだよねえ、やっぱり」

「勿論でしょ。僕は楽しいけどな。もうちょっと派手だと面白いのに」

「っていうか……、本当に本物なのね、『幽霊屋敷』の噂……」

「素敵な夏の思い出じゃない?」

「飛鳥くん! もう勘弁して本当にっ。お願い」

「……司は限界って感じか」

 くす、と柚真人が笑った。

「だって、怖いもの!」

 司は唇をとがらせて言い、それからトーストをかじる。

 結局、誰からも訴えがなかったので、久美は提案した。

「ねえ、お風呂行こうよお。温泉。ほら、昨日も、はいれなかったし……。今日も、駄目だったら嫌だし……」

 そうだった。思えばまずもってそれが発端だったのだ。昨夜も浴室の電気が付かなかったり、お湯が出なかったりして、結局全員、入浴を断念したのだった。

 浴室の設備自体の整備になんらかの不備があったのだろうということで皆納得したのだけれども、それもまた、この家で起こる何かおかしな一連の現象のひとつだったに違いない――彩と久美はそう主張した。

 ふたりは、果物しか食べる気力がなくて、彩はグレープフルーツと麦茶、久美は葡萄をつついている。

 飛鳥は、軽く目配せして柚真人を見た。

「そういえば、ここに来た日に、どっかお風呂行ってたよね? 温泉?」

「ええ、露天温泉。いいとこでしたよ。行きます?」

「そーだねえ。朝から温泉もいいかもねえ」

 片桐も、トーストをかじりながら頷いた。

「あたしも、お風呂がいい……」

 と、司。

 意見の一致を見たようだ。

 緋月は、そんな司を横目で見やって、そっと飛鳥に視線を移す。

 飛鳥は柚真人をちらりと。

 それから、司の向かいで、柚真人は頷いた。

「そうだね。じゃあ今日は、皆で出かけてきて。……おれ、ちょっとここに残って留守番させてもらうから」

「えー? 先輩、一緒にいかないんですかあ?」

「というよりも、よくひとりでこの家に残ろうっていう気になるなあ、皇。スゲーな、お前」

「いや、……ちょっと、家の方の用事があるんだ。神社を三日も空けてるし、連絡もしないといけない」

「てゆーか用事ある無しの問題じゃいとおもうが」

「こっ、こわくないんですか? だって、お化けがいるんですようっ」

 怯えたような久美の言葉に、柚真人は肩をすくめてみせた。

「別に怖くないよ。昨夜のことなら、それぞれが見た、夢かもしれないだろ? 山野さんだって、寝ぼけていたかもしれない。そうじゃない?」

「……皇先輩にそういわれると、そういう気もしてくるから不思議ね……。朝になって思うと、うん。夢だったかも、とか思っちゃう」

 と、彩。

「でもでも、呪いとか祟りとか……」

「大丈夫だよ」

 久美が言い募る言葉を柚真人が否し、それを聞いた彩が小さく笑った。

「……なんか、皇先輩のそれ、すっごい説得力。どうしてかしら?」

「それって、『大丈夫』ってやつ?」

「神主の貫禄ってやつかなあ」

 と片桐。

「貫禄ですって柚真人くん」

 と。

「『おじさん』みたい。くす」 

「お前、よっぽど命を粗末にしたいのか」

「いやいやいや、めっそうもない」

それから柚真人は、――自分でもめったにないことなのだという自覚があるのだが――柔らかいまなざしを司に向けた。

 さすがに、妹だけは、ごまかされないぞ、というまなざして兄を見ている。

 司には悪いことをしたと、殊勝にも思った。

 ――本当にまったくたいした『幽霊屋敷』だ。


      ☆


「柚真兄。……結局また何か、かくしてたでしょ。用事って、『仕事』、なのよね?」

 出かける間際玄関で、ひとり残った兄を見返る司に、柚真人は苦笑いを返した。

「悪いね。これも『仕事』だから」

「あの、さ。……大丈夫、なの?」

 その言葉が、何を案じてかは訊かないことにする。

 不安そうに曇らせた妹の表情に、微苦笑して。

「『大丈夫』だよ。心配せずに、お前もみんなといっておいで」

 柚真人は。

 幼かったころにそうしたように、司の頭をちょっとだけ、なでた。





 SCENE 07



 ひとけの無くなった家にひとり残った皇柚真人は、明かり取りの大きな硝子窓に向かい、リビングルームに立った。

 窓は南に向き、夏の眩しい光が部屋を満たしている。

 ――光は闇を駆逐するか。

 柚真人の答えは、否。

 だが人の裡に培われた心が、光をおそれ、光を信じる。

 ――それゆえ光は、人の心に凝った闇を、駆逐するのだ。

 柚真人は、背筋を正してすっと軽く、息を吐いた。

 迷いなくば、光も闇も関係ない。まして無邪気な、悪戯心ならば。



「さあでておいで。話をしようか――?」



 光に透ける大きな窓から。空気に滲み出すようにそれの姿が現れた。

 頼りない陽炎のように。

 幼い少年、のようだ。

「君のパパだね、湖から君を迎えに来ているのは。それにしても……少し、悪戯が過ぎたようだよ?」

 その洋館で何があって、その洋館に何が棲み、いかなる事態となったのか――それは、皇の巫にしかわからない。

 静かになった屋敷の浴室で、潔斎がわりの冷水を浴びながら、柚真人は軽く息を吐いた。

 柚真人はそれを誰にも明らかにはしないだろう。


      ☆


 少年神主から事務所に連絡が入ったのは、その日の午後。

  


 優麻の携帯電話が着信を知らせたのは、ちょうど新規の依頼人を送り出したあとだった。

 自分の机の背後の窓から、夏の夕日に暮れる街を見下ろす。

 ――『仕事』は片付いた。

 ひとこと、少年はそう言った。

「それは良かった。ご苦労様でした」

 と、優麻もひとこと、返した。

 それから、

「申し訳ありませんでした。折角の旅行中、でしたのに」

 ――お前なあ。どの面下げてそーゆーこと言うんだ? 

 柚真人の声は、困ったような、呆れたような、そんな気配を孕んでいた。

 ――こちとら最初っから休む気なんざ無かったさ。『仕事』といわれりゃ片手間だってきはぬけないが、おまけに素人連れの大所帯で、観光入って、飯の世話はしなきゃなんねえし。折角も何もあるかよ。

「……お忙しかった、ようですね?」

 ――たりめーだ。いいか、おれを抜いても七人だぞ、七人。しかもどいつもこいつも包丁持たせたら危なっかしいし、まったく見てらんないったらなかったよ。

 いったいどういう意味で苦労したというのか。少なくとも、本業で苦労したという様子はくみ取れない台詞である。

「それはそれは」

 ――ああ……それと、建築物および内装に若干の被害が出た。のち、報告書と計算書類を作成しておくが、まあその前にひとこと言っておく。何事にも、心の準備ってやつは必要だろうからな?

 優麻は小さく笑った。

「君が若干というのだから、まあ、若干なのでしょう。それで、御帰宅は明日ですか?」

 ――ああ。あしたの夕方になると思う。

「そうですか。では、お気をつけてお帰り下さい」



 携帯電話を机の上に置き、優麻は再び、窓の外へと視線を戻した。

 ――少しは――年相応の、少年らしい夏休みが送れたのだろうか。

 そんな風に、思う。

『仕事』がついてまわるのは、それは彼の宿業だし、皇の巫である以上、どうにも致し方のないところではある。しかし、それだけでは息苦しいだろう。

 彼は同時に十七歳の少年なのだから。

 先に『仕事』の話を持ち出せば、彼は『仕事』を済ませてさっさと帰ってきてしまったはずである。だから、ついでのタイミングで、柚真人に事の次第を伝えた。

 作戦は、大概うまくいったようだ。柚真人の機嫌は悪くなかったし、なんだかんだと文句を言うときは本人も結構楽しんでいる。苦々しい表情で――彼の場合、それは意地を張ったり素直になりきれないところがあるから、なのだろうけれど――友人や幼馴染みを怒鳴り倒し、文句を言い、それでも時には困ったような笑顔になったりしている、少年の姿は想像に難くなかった。

 いま、掌の、その指の隙間から、拾い洩らしてしまってはいけないものもあるのだ。

 それが、少しでも、あの厳しい瞳をした少年に伝わるといいのだが。

 優麻は、そう、願う。


      ☆


 ――湖にいたのは、父親だった。

 ――館にいたのは、息子だった。

 父親は、息子を殺して、――湖に身を投げた。



 事業にしくじり妻に逃げられ、貸別荘を心中の場に選んだ父。



 季節は、やはり夏。

 この館で幼い子供を殺し、一両日を息子の遺骸と供に過ごし、館で死にきれなかった父親は、息子の骸を抱いて、湖に身を投じた。父親の想いは息子の遺骸の傍らから離れられず、湖に残った。親子の死体は――今も湖に眠っている。

 幼い少年は、自らの身に、唐突に訪れた死の意味すら受け止められなかったようだ。

 生前の最期の場所となったこの館に、少年の心はつなぎ止められてしまった。

ここに残され、少年は、ずっとずっと迎えをまっていた。いずれここにいれば、父親が迎えに来てくれるのだろうとでも、思っていたようだ。

 ただ――ひとつ困ったことに、やがて少年は、死者たる己の声が目の前にいる生者に届かぬことを知り、姿が見えぬことを悟り、そこにひとつの愉しみを見出だしたのである。

 以来少年は、この館に憑り棲みつき、訪れる人たちを驚かせては、無邪気に喜んでいた。だがいってしまえばそれだけのことに過ぎない。

 少年にしてみれば、だた退屈を紛らわせていたのだから、そのこと自体に罪はないだろう。もっとも昨夜のように、驚かされた側からすればそれではすまされない恐怖と驚愕を味わうことにはなるのだけれど、まあ大した実害はない。

真夏の一夜の物語として語り草になるくらいのことだ。

 過ぎてしまえば思い出も夢か幻。

 父親の方はといえば、様々な心残りがあったと見える。湖に囚われていたその魂を、柚真人がここまで導いた。子は父に、父は子に、巡りて枷と名残はもはや無く。

 そして親子に行くべき黄泉路を示し、柚真人は『仕事』を終えた。

 彼らは現世を離れ、黄泉へと旅立った。

『ごめんね、お兄ちゃん。パパに逢わせてくれて、ありがとう』

 その手が、己の命を絶ったことを、彼は知っているのかそれとも理解などできぬのか。

 無邪気に笑って、父の手を取り。

 そのまま、黄泉路を逝った。

 だがその笑顔によって、父親の心に凝っていたとりどりの思いが、すみやかに溶解して昇華していったのが、巫には、霊視えた。

 そしてこの館には。

 もう――何も棲んでいない。



 時計を見ると、夕方四時を回っていた。

 バスルームで冷水を浴び、簡単な禊をした。

 それから優麻への連絡を済ませた柚真人は、なんとはなしに唇を綻ばせて、ひとり、頷いてみた。

 そろそろ風呂へ繰り出していった連中も、帰ってくる頃だろう。

 前掛をして、よし、と気合いを入れる。

 どちらかというと、こちらの方が気合いの比重が重かったりするのだけれど。

 ――料理でもして、許してもらうしかあるまい、司には。あと……他の連中は、何とかまあごまかすとして……。

 今夜はそれなりに気を抜いて、休めるはず。

 不思議な気分だった。

 ――安堵――したのか? おれは。それとも何か……楽しい? 嬉……しい?

 よくわからない。

 よくわからないから、柚真人は料理にとりかかる。



 そして――うん、と、再び、ひとり頷いた。

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